2046年から異世界
朝の六時四十分。
夏目レンは、自分の部屋の天井を見ていた。
白い天井。何もない。
窓の外から聞こえるのは、風の音だけだ。
工場もない、トラックもない、配達員の足音もない。
二十年前の朝は、もっとうるさかったらしい。
親父がそう言っていた。
「昔は朝から人間が動いてたんだよ」と、釣り竿を磨きながら。
今は、朝から動くのはだいたいロボットだ。
静かな朝だ。
静かすぎて、たまに自分の心臓の音が聞こえる。
それが落ち着く。
「レンさん」
手首のデバイスが、薄く光った。
「おはようございます」
「おはよう」
ソラの立体投影が、ベッドの脇に浮かび上がる。
中性的な顔立ち。
落ち着いた声。
「調子はどうですか」
「よくないかも」
「具体的に」
「少し倦怠感があるかな。お腹は空いた」
「データ上は異常なしです」
ベッドから起き上がる。
窓を開けると、九月の朝の空気が入ってきた。
これはタダだ。当たり前だけど。
空を見る。
配送ドローンが静かに飛んでいる。
昔はみんな学校行ったり、仕事したりしていたらしい。
今はそんな必要もない。家族も好きなことしている。
みんな、楽しそうにやっている。
僕はなんとかやっている。
ただ、何か物足りない、うまく言えないけど。
「レンさん、また窓の外を見て考え込んでますね。眉間のシワが告白してます」
「何本?」
「今日は二本。昨日より改善です」
その日の午後、頭が重くなってきた。
珍しいことだと思った。「状態の乱れ」を経験するのは、記憶にある限り初めてだった。
「レンさん、体温が0.8度上昇しています」
ソラが何か言っている。立っているのがしんどくなった。
ソラの声が、少し遠くに聞こえた。「救急に繋ぎます」
「大げさじゃない?」
「わたしには判断できない数値が出始めました」
目を閉じた。意識が、静かに薄れていった。
レンが次に気づいたとき、天井はなかった。
光の中、とでも言うのか、どこを見ても同じ色をしている。白でも金でもない、なんとも言えない明るさ。
足元に地面はあった。立っていた。
「気がついたかの」
声がした。
振り返ると、小柄なおばあさんがそこにいた。
白髪で、目が細くて、怒っているのか笑っているのかわからない顔をしていた。
「えっと。夢かな」とレンは言った。
「うむ。亡くなったのじゃ」
「原因は」
「知らん」
「あなたは」
「作った者じゃ、世界を。お主の世界も、他の世界も」
「神様」
「そういう呼ばれ方もしておる」
レンは一度、深く息を吸った。
「僕、まだ18ですよ」
「儂が作った世界がある」とおばあさんは言った。「剣と魔法の世界じゃ。人族と魔族がおる」
話を聞いてない。「ゲームみたいですね」
「ゲームと呼ばれるものは儂が作った世界を模倣したものの一つじゃ、無数にあるからの。表現のひとつじゃ」
「それ、僕と関係あるんですか」
「人族に幸せを体験させるために作った。ただの平和な世界では、幸せはわからん。だから強力な魔族を作った。絶望があるから、希望がわかる。苦しみがあるから、喜びがわかる」
僕の答えがもらえない。
「そんな世界は嫌ですけど」
「魔族が強すぎて、このままでは人族が滅びてしまう」
レンは少し考えた。「そこに行っても何かできるとは思えませんけど」
おばあさんの表情が、わずかに曇った。
「何百年かに一度、勇者を生み出して均衡を保っておったのじゃが……ここ数百年、押されっぱなしじゃ」
「ただの設計ミスじゃないですか」
「だからイレギュラーを投入することにした」
会話が噛み合ってない気もする。
「それで、僕に何をしてほしいんですか」
「その世界に入ってほしい。イレギュラーとして。何か変わるかもしれん」
「転生、ということですか」
「儂の勘がお前だと言っておる。なに、体は強くしてやれる。それと、一つ好きな力を授けてやろう」
おばあさんが手を差し出した。そこに光の粒が浮かんだ。
「たとえば、異世界の言葉を話せるようになる力。病気にかからない体。毒への耐性。夜目が効く目。傷の治りが早くなる——」
なんかしょぼい。
「ちょっと待ってください」
レンは手を上げた。
「それで世界が救えると思ってます?」
おばあさんが止まった。
「儂の勘がお前だと言っておる」
「病気にかからない、は確かに助かります。でもそれだけで数百年押されてきた魔族に勝てるわけがない」
「儂の勘はいつも正しい」
「ソラを連れて行きたいです」
「ソラ?」
「AIです。僕のパートナー。あの子がいれば、戦略も情報処理も判断も、僕一人より何倍も精度が上がる」
おばあさんは黙った。初めて、本当に困った顔をした。
「AIをどう連れていくのじゃ。あの世界はまだそこまで発達していない」
「鳥とかにしてもらえませんか。見た目は」
「ふむ」
「なんか、それっぽいやつで」
おばあさんはしばらく何も言わなかった。
「あと」とレンは続けた。「ちゃんと今の能力のままじゃないとダメです。
それと、ソラが僕より先に死なないようにしてください」
「注文が多いのう」
「僕を使うんだから、条件ぐらい出させてください」
おばあさんはため息をついた。長い、深いため息だった。
「そのソラとやらだけ、こちらの世界と意識を繋げるようにすればよかろう。
能力はそのままで世界の理から外しておくか」
「ありがとうございます」
「では、適当に送るかの。記憶はそのままにしておいてやるからの」
レンは少し考えた。
「転生先は選べますか。できればある程度恵まれた環境がいいなと思って」
「恵まれた環境、とは」
「貴族とか、魔法が使える家系とか。最初から詰んでる環境はきついので」
「ふむ」おばあさんは腕を組んだ。
「農村の三男に生まれて苦労しながら這い上がる、というのは駄目か」
「できれば避けたいです」
「貴族の次男あたりはどうじゃ。家を継がなくていい分、自由が効く」
レンは少し考えた。「魔法は使えますか」
「誰でも使えるはずじゃが、なぜか使うものが少ないの」
「じゃあ、いいか」
「ソラとは話せますか、その世界で」
「お主のだけ呼べる筈じゃ。他者には呼べぬ、目立たないようにな」
「わかりました」レンは一度息を吐いた。
「力は、何が選べますか」
「なんでもよいぞ。言葉、病気、毒、夜目、回復——」
「もっと攻めたものはないですか。魔族と戦うんですよね」
おばあさんはまた黙った。
「勇者は身体能力が普通の人間の5倍ぐらいじゃ。それでええかの」
「でも押されてるんですよね」
「うむ」
「ひとりだと無理そうなので、周りから協力が得られやすいようにしてください」
「カリスマみたいなものか。わかった、とっておきをつけてやる」
「まとめると——貴族次男への転生、お主のAIをパートナーとして帯同、いい匂いがするじゃな」
「はい?」
「期待しておるぞ」
おばあさんは小さく笑った。
「ちょっと待ってください」
「うむ、よかろう。では」
「いや、だから待ちなさい」光が、広がった。
さっきより明るかった。名前のない明るさが、全部白になった。




