第4話:漆黒の外套と冷たい瞳
絶望の底で差し伸べられたのは、温かい「体温」でした。
魔法のない世界で、ただ一人の男の意志がアイリスを救い出します。
視界の端で、男の纏う漆黒の外套が揺れた。
それは夜の闇を切り取って仕立てたかのように重厚で、一切の飾りを排している。だが、その生地の断裁の鋭さと上質なウールの質感は、彼が凡庸な身分ではないことを無言で語っていた。
「……だれ、……ですか」
掠れた声で問いかける。意識が遠のき、震えすぎて感覚のなくなった指先が、私の膝の上で泥に汚れたドレスを掴んでいた。
男は答えず、ただ私の前に膝をついた。
濡れた地面に高級な外套の裾がつくことも厭わず、彼はその氷のような瞳で、私の顔をじっと覗き込む。
「……名乗るほどの者ではない。だが、このまま君を雨に溶かしてやるほど、俺の寝覚めは良くないんでね」
そう言うと、彼は有無を言わさぬ動作で、自分の厚手の外套を脱ぎ、私の肩にふわりと掛けた。
冷え切った肌に、男の体温が残る布の温もりが伝わってくる。微かに香るのは、雨の匂いと、落ち着いたサンダルウッドの香り。
「あ……っ、ドレスが、汚れて……」
私が弱々しく拒もうとすると、男は鼻先で短く笑った。
「泥を被った程度で死ぬような価値なら、最初から纏わないことだ。君のその瞳の色は、外套の一枚や二枚より、よほど希少なものに見えるが?」
リュカ――そう名乗る前の彼は、私の惨めな姿を嘲笑うことも、婚約破棄された哀れな女として見ることもなかった。ただ、一人の人間が持つ「本質的な色彩」だけを見つめている。そんな気がした。
男の大きな手が、私の背中と膝裏に回される。
ふわり、と身体が宙に浮いた。
「お、降ろしてください……。汚れてしまいますわ、貴方まで……」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
拒絶を許さない低い声。
私は、生まれて初めて「男の腕」の強さを知った。
エドワード様の手はいつも清潔で、エスコートの仕草も教科書通りに完璧だった。けれど、この男の腕にあるのは、嵐の中でも揺るがない絶対的な安心感だ。
私は抗う気力さえ失い、男の胸元に顔を埋めた。
厚い外套に包まれ、雨音だけが遠くに聞こえる。
温かさが心地よくて、私はそのまま、深い闇の中へと意識を手放した。
――次に目を覚ました時、私は王都の喧騒からも、セレーナの冷たい笑い声からも遠く離れた、静寂に包まれた場所にいた。
第4話をお読みいただきありがとうございます。
リュカの無骨ながらも芯のある優しさが、アイリスの凍った心を少しだけ溶かしました。
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次話、アイリスが目を覚ました先は、雪の舞う北方の離宮でした。




