第10話:社交界からの追放令
逃げ場を失ったアイリスに突きつけられた、最悪の公式文書。
しかし、その絶望をリュカの強引な優しさが焼き尽くします。
北方の朝は早い。
窓に張り付いた氷の結晶が、昇り始めた太陽に照らされてプリズムのように輝いている。
私は、リュカ様に許可をいただいた小さな作業机で、解いたアメジストの布地を丁寧に整えていた。過去を捨てるのではなく、新しい自分の一部にするために。
だが、その静寂は、扉を叩く激しい音によって破られた。
「旦那様、王都より緊急の早馬が……!」
マーサの焦燥を含んだ声に、私は胸を騒がせながら廊下へ出た。
執務室の前に立つリュカ様の手には、漆蝋で封じられた一通の書状があった。王家の紋章――エドワード様のものだ。
リュカ様はそれを一読すると、顔を氷のように冷たく硬直させた。
「リュカ様……? 何が書かれているのですか?」
私の問いに、彼は答えず、黙って書状を差し出した。
震える指で受け取り、文字を追う。そこには、私の名前を社交界から永遠に抹消するという、残酷な決定が記されていた。
『アイリス・ランチェスターは、婚約者である第一王子を裏切り、他国、あるいは辺境の男と通じて出奔した不貞の女である。よって、その身分を剥奪し、平民へと降格。今後、社交界への立ち入りを一切禁ずる』
視界がぐにゃりと歪む。
不貞、出奔、身分剥奪。
セレーナとエドワード様が、自分たちの不実を隠すために、すべての罪を私に被せたのだ。魔法のないこの世界で、貴族の籍を失うことは「人間としての価値」を失うことと同義だった。
「……ひどい。あんなに、あんなに尽くしたのに……っ」
膝から崩れ落ちそうになった私の身体を、リュカ様の強い腕が支えた。
彼は私から書状を奪い取ると、それを目の前の暖炉へ迷わず投げ入れた。
「リュカ様!? それは公文書……」
「ただの紙屑だ。あんな男に、お前の価値を決めさせるな」
炎の中で、私を縛り付けた言葉たちが黒く縮れて消えていく。
リュカ様は私の肩を掴み、視線を無理やり合わせさせた。
「社交界が君を追放したのではない。君が、あんな腐った場所を見捨てたんだ。……アイリス、お前はもう公爵令嬢ではない。だが、俺の領地にいる限り、お前を不貞の女などと呼ばせる者は一人もいない」
彼の低い声が、絶望に震える私の心に楔を打ち込む。
リュカ様は、私の頬に伝った涙を親指で乱暴に拭った。
「平民になったのなら、自由だ。王妃としての義務も、型に嵌まったマナーも、すべて捨ててしまえ。……これからは、俺のためだけに、その針を動かせ」
それは救いであり、同時に、あまりにも情熱的な拘束だった。
王都から「死」を宣告されたその日に、私はリュカ様の手によって、新しい「命」を吹き込まれたのだ。
「……はい、旦那様。……私は、もう振り返りません」
アメジストの瞳に、初めて強い覚悟の光が宿る。
私を捨てた世界を、いつか後悔させてやる。リュカ様の隣で、誰よりも高潔に笑ってみせることで。
第10話をお読みいただきありがとうございます。
アイリスは名前を失いましたが、リュカの「俺の女」としての居場所を得ました。
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次話より第2章。アイリスが「針子」として、自らの足で歩み始めます。




