第一の客
私には悩みがあった。
私には、二つ下の弟がある。私は彼をとてもかわいがっていたのだが、そこで一つ、問題があった。彼は私なんかよりも、はるかに聡明なのである。それも、何処かのお母さんが
「〇〇は本当にお利口さんね。」
と云って子どものまあるい頭を撫でる、というようなものでは決してなかった。
ある日のこと、私は弟の部屋に行った。彼は宿題をしていた。散らかっていて、喧しい机にあったものを見ると、今彼は算数の宿題をしているようだ。算数。懐かしい響きだ。私は弟が解いている問題を見た。つい驚いた。その問題は、どう考えても小学生には到底理解の及ばないものであった。中学生の私でもわからない。不思議な記号が、あちらこちらに散らばっている。きっとこれは、大学数学の範疇であろう。どうりでわからないわけだ。しかし、弟の執る鉛筆が止まることはなく、問題に与えられた答えが、すらすらと紐解かれてゆくのである。一見かわいらしい小学生が、極めて難解な大学数学の問題を解いている、という構図には甚だ違和感を覚えた。
駑馬十駕、という言葉を耳にしたことがある。才能のないものであっても、努力を怠らなければ、才能のあるものと肩を並べるまでになれる。しかしながら、弟を前にしては、その教訓も真っ赤な嘘に変貌してしまう。彼ほど、私は勉強ができない。寧ろ、私は馬鹿だ、と自身を貶すぐらいである。学校の定期試験は毎度赤点ぎりぎりで、お母さんや友だちに頼まれたものはすぐに忘れてしまう。私はひどく悧巧な弟に対して、羨望の念を抱く外なかった。時には嫉妬すらしただろう。私と彼は同じ母胎より産まれた筈であったが、体躯も頭脳も、性分も。何もかもが違う。そのせいか彼と話すとき、毎度といっていいほど齟齬が生ずるのだ。本当に、どうすればよいのか。私はいつも頭を抱える。気分転換に、私は散歩がてら街へ出かけた。
街に着いた。そこには色々な店があって、むろん人も沢山あって今日も街は賑わっている。その中に、小さくて、随分古くなっている看板を掲げた店が一軒あった。店の周りは寂寥として、人はなく、雀が一羽、屋根にとまっているのみである。その折、私は思い出した。近頃、教室をガヤガヤと騒がせる要因となっていた、あの料理店を。友だち曰く、店主に悩みを打ち明け、そのあとに出てきた料理を食べると、その悩みはすっかり消えてなくなって、清々しい気持ちで、客はみな帰って行くらしい。にわかに信じがたいが、悩みを話すのにはちょうどよいと考え、私はがらがらと戸を開けた。中はとても狭く、カウンター席が五つばかり、並んでいる。客が来たのに気付いたか、店主は
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。」
と云って、懇切丁寧に私を案内した。
「お客様にはどのようなお悩みがあるのですか?」
席に座ると、早速店主が訊いてきた。私は件の悩みを、一から十まで縷々語った。すると、店主はすぐに厨房に向かった。私は机に置かれたコップの水をちびちび飲んで、料理ができる迄待った。
漸く一杯飲み干してから十分ほど経った折、店主が厨房より出てきた。料理ができたらしい。
「お待たせしました。こちら、鯖の塩焼き定食でございます。」
どんなものが出るかと楽しみにしていたが、眼前に現れたのはごはん、鯖の塩焼き、そして味噌汁という、至ってふつうの定食である。私は割り箸をパキッと割って、食べ始めた。まずは鯖から。美味しい。脂が乗っている。それでいて、塩のあっさりとした味付けでしつこくない。これはごはんなしには食べられない。三口ほど食べて、次に味噌汁を啜った。これまた美味しい。わかめ、油揚げ、大根などの具が、それはそれはごろごろと入っている。
「ごちそうさまでした。」
私はお代を払って、店をあとにした。
翌日である。支度をして、私は学校に行った。教室に着いて、自分の席に座っていると、忽ち先生がやってきた。
「今から、数学の小テストをやります。」
うっかりしていた。対策など、何もしていない。前にも云ったが、私はあまり勉強を好まない。いや、好むことができないのだ。殊に、数学とは犬猿の仲である。
タイマーが鳴った。そのテストは、これまでと同じような問題ばかりが並んでいた。しかし、一つだけ変わったところがある。それは問題の内容でも、今握っているこのシャーペンでも、開始時刻でもない。全く勉強をしてこなかった、この頭である。おかしい。なぜだか、この紙に整然と並べられた問題たちが、とても簡単に見えてくるのだ。例の勉強嫌いがたたって、私は何の対策もなしに、このテストに臨んだつもりであった。再テスト上等、くらいの覚悟でいた。だが、その必要は全くなかったらしい。
問題を全部解いて天井を仰ぐと、忽然と思い出した。友だちから聞いた、例の料理店を。もしかすると、急に私がこんなにも頭が良くなったのは昨日食べた、かの定食のおかげなのではなかろうか。いやいや、そんな馬鹿げたことがあるか。心の中で、私は云う。確かに馬鹿げてはいるが、まあ、そう思ったほうがいいじゃないか。そんなことを考えていると、再びタイマーがぴぴっと鳴った。このようなテストは、いつも散々であったが、今日ばかりは大勝利を納めたに相違ない。
そのテストは帰りの会に返却された。名前を呼ばれるのが楽しみでならなかった。名前の横の点数を見ると、堂々の満点であった。やはり、私の計算に間違いはなかった。
そういえば今日、友だちと話しているとき、何処か変だった。話がうまく噛み合わないのである。会話のキャッチボール、という表現を聞いたことがあるが、それで例えるなら、三回に一回ぐらい、投げられたボールを地面に落としてしまっている。そのせいか、少し口喧嘩をしてしまった。はっきりとは云わなかったが、その折友だちははじめて、私といっしょにいるのが厭になっただろう。それっきり、私はその友だちとは話さなくなった。
あれから二週間が過ぎた。私は唯一の友人をなくした。クラスメイトも、私に対してそっけない態度で話しかけてくるようになった。これでは、そろそろ学校に行くのが辛くなって、今日も嘘を云って学校に行かなかった。どうしてこんなことに…どうして、どうして。罪悪感と自責の念は、どんどん大きくなっていった。机にだらしなく上半身を預けていると、誰かが私の右肩をぽんと叩いた。
「どうしたの?お姉ちゃん。」
声のするほうには弟がいた。私は両の目から涙が溢れそうになるのを必死に我慢して、あの料理店の定食を食べてから、起きたことを話した。
「そっか、それは辛かったね。その気持ちは、痛いほどわかるよ……。ぼくも、小学校では一人ぼっちなんだ。」
私はとうとう目から涙が零れた。どうして、早く弟の気持ちに、気付いてあげられなかったんだろう。こんな自分が不甲斐ない。私は今まで、天才であるより、馬鹿であるほうが、苦労をするものとばかり思っていた。だが、それは全くの誤りだったようだ。
「ごめんね、ごめんね。これまでずっと、気付いて、あげられなくて。こんなお姉ちゃんで、ごめんね。」
「そんなこと言わないで。どんなお姉ちゃんがあっても、ぼくは、お姉ちゃんが大好きなんだよ。」
私は弟を力いっぱい、抱きしめた。




