春が来た日に、もう一度泣きました
辺境に帰ってきたとき、季節が変わっていた。
——いや、季節ではない。この土地が、変わっていた。
馬車の窓から見える景色に、リーゼが声を上げた。
「セラフィーナ様、見てください——!」
霧が、薄い。
いつもなら馬車の前方すら見えないほどの濃霧が、今日は遠くの山並みまで見渡せた。道の脇には、小さな花が点々と咲いている。白い花。黄色い花。名前は知らない。けれど——花だ。
この土地に、花が咲いている。
門をくぐると、庭が目に入った。
あの芽が——育っていた。一本だけだった芽が、いくつもの茎を伸ばし、蕾をつけていた。庭のあちこちに、小さな緑が顔を出している。
泉は完全に溶けていた。澄んだ水が陽光を弾いて、きらきらと光っている。
「……春だ」
呟いた。自分の声が震えていた。
◇
クラウス様が門の前に立っていた。
珍しい。いつもは書斎にいて、出迎えなど——。
「おかえり」
たった一言。
でもその声の温かさに、膝が折れそうになった。
「——ただいま、戻りました」
「……庭を見たか」
「はい。春が——」
「ああ。あなたがいない間も、少しずつ溶けていた。だが——帰ってきた今日、一気に」
クラウス様が庭を指さした。
蕾が——開いていた。今、この瞬間に。白い花弁が一枚ずつ開いて、陽の光を受けて輝いている。
「マルガレーテ」
「え?」
「母が植えたかった花だ。マーガレットの一種で——この土地の古い名前は、マルガレーテ」
お母様の名前と同じ花。
「十年間、咲かなかった。霜で枯れ続けていた。それが——」
クラウス様の声が、かすかに揺れた。
「あなたが来てから、芽が出た。あなたが笑ってから、伸びた。あなたが怒ってから、泉が溶けた。そして——あなたが帰ってきた今、花が咲いた」
「私の——感情が?」
「この土地は、領主の心に応える。だが——俺一人の心では、春は来なかった。あなたの感情が——この土地が忘れていたものを、思い出させたんだ」
涙が出た。
また、泣いている。
でも——今回の涙は、最初の涙とは違った。
最初の涙は、怖かった。何が起きているのかわからなくて、ただ水が溢れるだけだった。
今の涙は——温かい。
「……クラウス様」
「何だ」
「私、好きなものが——また一つ、見つかりました」
「何だ」
「ここです。この場所。この屋敷。この庭。ゲルダ。リーゼ。ヨハン。領民の皆さん。——そして」
クラウス様の目を、真っ直ぐに見た。
「あなたが、好きです」
声が震えていた。不格好だった。完璧な告白とは程遠い。
でも——私の言葉だった。誰にも教わっていない、自分で見つけた感情の言葉だった。
クラウス様が——笑った。
見たことのない笑顔だった。口角が上がるだけの、あの微かな変化ではない。目が細くなって、頬が緩んで、息が漏れて。
不格好な笑顔。
私と、同じ。
「……俺もだ」
短い言葉。それだけで十分だった。
◇
庭のベンチに並んで座った。ゲルダが足元で丸くなっている。泉の水が、穏やかな音を立てて流れている。
花が咲いている。
この庭に——十年ぶりの春が来た。
「クラウス様」
「ん」
「私、まだ泣き方が下手です」
「知っている」
「笑い方も下手です」
「知っている」
「怒り方も——一回しかやったことがないので、加減がわかりません」
「水差しは弁償しなくていい」
「……ふ」
笑ってしまった。おかしかった。全部がおかしかった。
二十年間、感情がないと思っていた。完璧な道具だと思っていた。泣き方も笑い方も怒り方も知らなかった。
今、全部持っている。下手だけれど。不格好だけれど。
リーゼが二階の窓から手を振っていた。泣きながら笑っている——いつものリーゼだ。
ヨハンが庭の入口で、静かに微笑んでいた。
風が吹いた。花弁が舞った。
泉の水面に、空が映っている。雲一つない、青い空。
「——ああ」
涙が止まらなかった。
嬉しくて。温かくて。ここにいられて。
泣けることが——こんなにも幸せだなんて。
二十年前の私に、教えてあげたい。
泣いていいのだと。怒っていいのだと。笑っていいのだと。好きなものがあっていいのだと。
完璧でなくていいのだと。
——完璧な令嬢は、泣けなかった。
でも今の私は、泣ける。
春が来た日に、もう一度泣いた。
今度の涙は——幸せの涙だった。
「完璧な令嬢は泣けない」全12話、最後までお付き合いいただきありがとうございます!セラフィーナの涙が、「幸せの涙」に変わるまでの物語でした。
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