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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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12/12

春が来た日に、もう一度泣きました

 辺境に帰ってきたとき、季節が変わっていた。


 ——いや、季節ではない。この土地が、変わっていた。


 馬車の窓から見える景色に、リーゼが声を上げた。


「セラフィーナ様、見てください——!」


 霧が、薄い。


 いつもなら馬車の前方すら見えないほどの濃霧が、今日は遠くの山並みまで見渡せた。道の脇には、小さな花が点々と咲いている。白い花。黄色い花。名前は知らない。けれど——花だ。


 この土地に、花が咲いている。


 門をくぐると、庭が目に入った。


 あの芽が——育っていた。一本だけだった芽が、いくつもの茎を伸ばし、蕾をつけていた。庭のあちこちに、小さな緑が顔を出している。


 泉は完全に溶けていた。澄んだ水が陽光を弾いて、きらきらと光っている。


「……春だ」


 呟いた。自分の声が震えていた。


  ◇


 クラウス様が門の前に立っていた。


 珍しい。いつもは書斎にいて、出迎えなど——。


「おかえり」


 たった一言。


 でもその声の温かさに、膝が折れそうになった。


「——ただいま、戻りました」


「……庭を見たか」


「はい。春が——」


「ああ。あなたがいない間も、少しずつ溶けていた。だが——帰ってきた今日、一気に」


 クラウス様が庭を指さした。


 蕾が——開いていた。今、この瞬間に。白い花弁が一枚ずつ開いて、陽の光を受けて輝いている。


「マルガレーテ」


「え?」


「母が植えたかった花だ。マーガレットの一種で——この土地の古い名前は、マルガレーテ」


 お母様の名前と同じ花。


「十年間、咲かなかった。霜で枯れ続けていた。それが——」


 クラウス様の声が、かすかに揺れた。


「あなたが来てから、芽が出た。あなたが笑ってから、伸びた。あなたが怒ってから、泉が溶けた。そして——あなたが帰ってきた今、花が咲いた」


「私の——感情が?」


「この土地は、領主の心に応える。だが——俺一人の心では、春は来なかった。あなたの感情が——この土地が忘れていたものを、思い出させたんだ」


 涙が出た。


 また、泣いている。


 でも——今回の涙は、最初の涙とは違った。


 最初の涙は、怖かった。何が起きているのかわからなくて、ただ水が溢れるだけだった。


 今の涙は——温かい。


「……クラウス様」


「何だ」


「私、好きなものが——また一つ、見つかりました」


「何だ」


「ここです。この場所。この屋敷。この庭。ゲルダ。リーゼ。ヨハン。領民の皆さん。——そして」


 クラウス様の目を、真っ直ぐに見た。


「あなたが、好きです」


 声が震えていた。不格好だった。完璧な告白とは程遠い。


 でも——私の言葉だった。誰にも教わっていない、自分で見つけた感情の言葉だった。


 クラウス様が——笑った。


 見たことのない笑顔だった。口角が上がるだけの、あの微かな変化ではない。目が細くなって、頬が緩んで、息が漏れて。


 不格好な笑顔。


 私と、同じ。


「……俺もだ」


 短い言葉。それだけで十分だった。


  ◇


 庭のベンチに並んで座った。ゲルダが足元で丸くなっている。泉の水が、穏やかな音を立てて流れている。


 花が咲いている。


 この庭に——十年ぶりの春が来た。


「クラウス様」


「ん」


「私、まだ泣き方が下手です」


「知っている」


「笑い方も下手です」


「知っている」


「怒り方も——一回しかやったことがないので、加減がわかりません」


「水差しは弁償しなくていい」


「……ふ」


 笑ってしまった。おかしかった。全部がおかしかった。


 二十年間、感情がないと思っていた。完璧な道具だと思っていた。泣き方も笑い方も怒り方も知らなかった。


 今、全部持っている。下手だけれど。不格好だけれど。


 リーゼが二階の窓から手を振っていた。泣きながら笑っている——いつものリーゼだ。


 ヨハンが庭の入口で、静かに微笑んでいた。


 風が吹いた。花弁が舞った。


 泉の水面に、空が映っている。雲一つない、青い空。


「——ああ」


 涙が止まらなかった。


 嬉しくて。温かくて。ここにいられて。


 泣けることが——こんなにも幸せだなんて。


 二十年前の私に、教えてあげたい。


 泣いていいのだと。怒っていいのだと。笑っていいのだと。好きなものがあっていいのだと。


 完璧でなくていいのだと。


 ——完璧な令嬢は、泣けなかった。


 でも今の私は、泣ける。


 春が来た日に、もう一度泣いた。


 今度の涙は——幸せの涙だった。


「完璧な令嬢は泣けない」全12話、最後までお付き合いいただきありがとうございます!セラフィーナの涙が、「幸せの涙」に変わるまでの物語でした。


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