お父様、お母様、さようなら
手紙が来た。
今度は——お父様の筆跡だった。
お父様から手紙が届いたのは、生まれて初めてのことだ。
封を切る前に、手が震えた。怖いのではない。何が書いてあるか、想像がついてしまうからだ。
でも、読まなければならない。
『セラフィーナへ
帰りなさい。
家が回らない。お前がいなければ立ち行かない。挨拶状も帳簿も社交の場も、全てが滞っている。ローザリンデでは務まらない。
お前の責任だ。お前が勝手に役目を放棄した結果だ。
公爵家の長女としての義務を果たしなさい。お前はそのために生まれたのだから。
ヴァルトシュタイン公爵』
そのために生まれた。
道具として生まれた、ということだ。
手紙を読み終えて——泣かなかった。怒りも、悲しみも、湧いてきたけれど——それ以上に、はっきりとした何かがあった。
決意。
これが「決意」という感情なのだと、体が教えてくれた。
◇
「クラウス様、お願いがあります」
翌朝、書斎を訪ねた。
「王都に行かせてください。お父様とお母様に——直接、話がしたいのです」
クラウス様は書類から顔を上げた。
「……帰るのか」
「帰りません。会いに行くだけです。言うべきことを言いに」
「一人で行くのか」
「はい」
「……付き添いは」
「リーゼがいます。それで十分です」
クラウス様は長い沈黙の後、頷いた。
「馬車を用意させる。——待っている」
「はい。必ず、戻ります」
◇
王都のヴァルトシュタイン公爵邸。
馬車を降りたとき、門番が驚いた顔をした。
「セラフィーナ様——お帰りなさいませ」
「帰ったのではありません。用があって来ただけです」
屋敷の中は——荒れていた。
荒れている、というほどではない。けれど、かつての完璧な秩序は失われていた。花瓶の水が替えられていない。廊下の絨毯に皺がある。使用人の動きが鈍い。
全て——私がやっていたことだ。
気づいていなかった。自分が、こんなにも多くのことを担っていたことに。
◇
応接間に、お父様とお母様が待っていた。ローザリンデの姿はない。
「座りなさい」
お父様の声は、以前と同じだった。平坦で、冷たくて、命令口調。
「お手紙、読みました」
「ならば、わかっているな。すぐに——」
「お断りします」
お父様の目が細くなった。お母様の手が、ティーカップの上で止まった。
「私は、ここには戻りません」
「何を言って——」
「お父様。お母様。二十年間、ありがとうございました」
二人の目が、揺れた。
「育ててくださったこと。教育を与えてくださったこと。完璧であることを教えてくださったこと。——感謝しています」
「ならば——」
「でも、私はもう——道具ではありません」
声が震えた。でも、止まらなかった。
「好きな食べ物を聞かれたことがありませんでした。寒くないかと聞かれたこともありません。元気かと尋ねられたことも。手紙に命令以外の言葉が書かれていたことも——一度もありません」
「セラフィーナ——」
「私は二十年間、感情がないと思っていました。でも——なかったのではありません。誰も聞いてくれなかっただけでした」
お母様が、カップを置いた。微かに手が震えていた。
「辺境で、初めて泣きました。初めて笑いました。初めて怒りました。初めて——好きなものを見つけました」
「くだらない感傷だ」
お父様が低い声で言った。
「感情などでは家は守れない。公爵家には——」
「公爵家には、もう一人の娘がいるでしょう」
お父様が黙った。
「ローザリンデがいます。私が完璧でなくなれば困ると言っていました。ならば——自分で完璧になればいい」
「あの子には無理だ。お前のようには——」
「なれません。私も——もうなれません」
立ち上がった。
「お父様。お母様。さようなら」
涙が出るかと思った。でも、出なかった。
これは悲しい別れではない。決意の結果だ。
「私はレーヴェンハルト家の人間です。あの場所が——私の居場所です」
振り返らずに、応接間を出た。
廊下で、ローザリンデが壁にもたれて立っていた。
「……聞いていたの」
「聞こえちゃっただけ」
ローザリンデの目は赤かった。泣いていた? いや——泣くのを堪えていた。
「お姉様」
「何?」
「……ずるいわ。一人だけ、楽になって」
「楽ではないわ。怖いの。でも——自分で決めたことだから」
「……」
「ローザリンデ。あなたも——自分で決めていいのよ。お父様に言われたことだけじゃなく」
ローザリンデが何か言おうとして——口を閉じた。
私はそのまま屋敷を出た。
門を出たところで、リーゼが待っていてくれた。
「終わりましたか?」
「終わったわ」
「お辛くなかったですか」
「辛かった。でも——清々しい」
馬車に乗り込んだ。王都の街並みが遠ざかっていく。
もう振り返らない。
帰る場所は——もう、ここではないから。




