完璧な道具がいなくなった公爵家
同じ頃、王都では——。
◇
ヴァルトシュタイン公爵家の朝食の席は、以前と変わらないはずだった。
長いテーブル。磨き上げられた銀食器。侍従が無言で給仕する。公爵は新聞を読み、公爵夫人は紅茶を飲む。
けれど、何かが欠けていた。
「セラフィーナ様の座席を片づけますか?」
侍従の問いに、公爵夫人は眉を顰めた。
「そのままにしておきなさい。あの子はすぐに戻ります」
戻らなかった。
一週間経っても。二週間経っても。
最初の異変は、来賓への挨拶状だった。
ローザリンデの婚約披露に際して、各貴族家への挨拶状を作成する必要があった。以前は全てセラフィーナがやっていた。文面の格調、宛名の序列、封蝋の位置——一切の瑕疵なく仕上げていた。
「ローザリンデ、挨拶状はどうなっている」
「え? それはお姉様が——」
お姉様はいない。
ローザリンデが書いた挨拶状は、三通目で序列の誤りを指摘された。五通目で文法の間違い。十通目に至っては、宛名の家名を間違えた。
「使えない——!」
公爵夫人が声を荒らげた。ローザリンデは項垂れた。
次は、社交の場だった。
夜会でヴァルトシュタイン家の代表として出席したローザリンデは、王太子妃候補として注目を集めた。華やかで、美しくて、笑顔が眩しい。
だが——会話が続かなかった。
セラフィーナは社交の場で、相手の話を聞き、適切な相槌を打ち、話題を広げ、場の空気を読んで振る舞うことができた。完璧に。機械のように。
ローザリンデはそれができなかった。自分が注目されることには慣れているが、他者の話を聞くことには慣れていない。
「ローザリンデ様って——お美しいけれど、お話が少し……」
「お姉様のほうが、社交は上手でしたわよね」
囁きが広がり始めた。
◇
三つ目の異変は、家計だった。
ヴァルトシュタイン公爵家の収支管理は、表向きは公爵が行っていた。だが実際には——セラフィーナが十四歳のときから、帳簿の整理と予算の配分を任されていた。
セラフィーナがいなくなって一ヶ月。帳簿は混乱し、重複した発注が三件、未払いの請求が七件。社交費だけが膨らみ、領地への投資は滞っていた。
「なぜこんなことに——セラフィーナは何をやっていたのだ!」
公爵が怒鳴った。
侍従が静かに答えた。
「セラフィーナ様がやっていたことを、今は誰もやっていないからでございます」
◇
四つ目は、ローザリンデ自身だった。
王太子との晩餐の席で、ローザリンデは得意の笑顔を振りまいた。けれど王太子は、ある質問をした。
「ヴァルトシュタイン家の北部交易の現状について、お聞かせいただけますか」
「え——それは、お姉様が——」
「お姉様? 辺境に嫁がれた方ですか」
「はい。あの……詳しいことは、お父様に——」
王太子の目が、ほんの一瞬だけ冷めた。
ローザリンデはそれを見逃さなかった。
「……お姉様のせいだわ」
帰りの馬車の中で、ローザリンデは呟いた。
「お姉様が完璧でいてくれたら、私はこんな恥をかかなかったのに」
化けの皮。
セラフィーナという完璧な道具に支えられていた家の仮面が、一枚ずつ剥がれていく。
◇
公爵家の使用人たちは、密かに話していた。
「セラフィーナ様がいらした頃は、全てが滞りなく回っていたのに」
「あの方、挨拶状も帳簿も夜会の準備も、全部お一人でやっていらしたんですよ」
「それを誰も——感謝していなかった」
「道具だと思っていたのでしょう。壊れない道具だと」
壊れない道具は——いなくなった。
壊れたのではない。自分の足で、歩いて出ていった。
残されたのは、道具なしでは回らない家だった。
◇
辺境の屋敷で、セラフィーナは何も知らなかった。
王都で何が起きているか。家族がどうなっているか。
ただ——庭のベンチに座って、ゲルダを膝に乗せて、手帳に新しい「好きなもの」を書き加えていた。
『好きなもの(暫定・追記)
・泉の水面に映る雲
・クラウス様が「急がなくていい」と言ってくれること
・リーゼが淹れるカモミールティー
・ヨハンの天気予報(よく外れる)
・庭の芽が少しずつ伸びていること』
何もしていない。
ただ——いなくなっただけだ。
それだけで、「完璧な道具」が支えていたものは、全て崩れ始めていた。




