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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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10/12

完璧な道具がいなくなった公爵家

 同じ頃、王都では——。


  ◇


 ヴァルトシュタイン公爵家の朝食の席は、以前と変わらないはずだった。


 長いテーブル。磨き上げられた銀食器。侍従が無言で給仕する。公爵は新聞を読み、公爵夫人は紅茶を飲む。


 けれど、何かが欠けていた。


「セラフィーナ様の座席を片づけますか?」


 侍従の問いに、公爵夫人は眉を顰めた。


「そのままにしておきなさい。あの子はすぐに戻ります」


 戻らなかった。


 一週間経っても。二週間経っても。


 最初の異変は、来賓への挨拶状だった。


 ローザリンデの婚約披露に際して、各貴族家への挨拶状を作成する必要があった。以前は全てセラフィーナがやっていた。文面の格調、宛名の序列、封蝋の位置——一切の瑕疵なく仕上げていた。


「ローザリンデ、挨拶状はどうなっている」


「え? それはお姉様が——」


 お姉様はいない。


 ローザリンデが書いた挨拶状は、三通目で序列の誤りを指摘された。五通目で文法の間違い。十通目に至っては、宛名の家名を間違えた。


「使えない——!」


 公爵夫人が声を荒らげた。ローザリンデは項垂れた。


 次は、社交の場だった。


 夜会でヴァルトシュタイン家の代表として出席したローザリンデは、王太子妃候補として注目を集めた。華やかで、美しくて、笑顔が眩しい。


 だが——会話が続かなかった。


 セラフィーナは社交の場で、相手の話を聞き、適切な相槌を打ち、話題を広げ、場の空気を読んで振る舞うことができた。完璧に。機械のように。


 ローザリンデはそれができなかった。自分が注目されることには慣れているが、他者の話を聞くことには慣れていない。


「ローザリンデ様って——お美しいけれど、お話が少し……」


「お姉様のほうが、社交は上手でしたわよね」


 囁きが広がり始めた。


  ◇


 三つ目の異変は、家計だった。


 ヴァルトシュタイン公爵家の収支管理は、表向きは公爵が行っていた。だが実際には——セラフィーナが十四歳のときから、帳簿の整理と予算の配分を任されていた。


 セラフィーナがいなくなって一ヶ月。帳簿は混乱し、重複した発注が三件、未払いの請求が七件。社交費だけが膨らみ、領地への投資は滞っていた。


「なぜこんなことに——セラフィーナは何をやっていたのだ!」


 公爵が怒鳴った。


 侍従が静かに答えた。


「セラフィーナ様がやっていたことを、今は誰もやっていないからでございます」


  ◇


 四つ目は、ローザリンデ自身だった。


 王太子との晩餐の席で、ローザリンデは得意の笑顔を振りまいた。けれど王太子は、ある質問をした。


「ヴァルトシュタイン家の北部交易の現状について、お聞かせいただけますか」


「え——それは、お姉様が——」


「お姉様? 辺境に嫁がれた方ですか」


「はい。あの……詳しいことは、お父様に——」


 王太子の目が、ほんの一瞬だけ冷めた。


 ローザリンデはそれを見逃さなかった。


「……お姉様のせいだわ」


 帰りの馬車の中で、ローザリンデは呟いた。


「お姉様が完璧でいてくれたら、私はこんな恥をかかなかったのに」


 化けの皮。


 セラフィーナという完璧な道具に支えられていた家の仮面が、一枚ずつ剥がれていく。


  ◇


 公爵家の使用人たちは、密かに話していた。


「セラフィーナ様がいらした頃は、全てが滞りなく回っていたのに」


「あの方、挨拶状も帳簿も夜会の準備も、全部お一人でやっていらしたんですよ」


「それを誰も——感謝していなかった」


「道具だと思っていたのでしょう。壊れない道具だと」


 壊れない道具は——いなくなった。


 壊れたのではない。自分の足で、歩いて出ていった。


 残されたのは、道具なしでは回らない家だった。


  ◇


 辺境の屋敷で、セラフィーナは何も知らなかった。


 王都で何が起きているか。家族がどうなっているか。


 ただ——庭のベンチに座って、ゲルダを膝に乗せて、手帳に新しい「好きなもの」を書き加えていた。


『好きなもの(暫定・追記)

・泉の水面に映る雲

・クラウス様が「急がなくていい」と言ってくれること

・リーゼが淹れるカモミールティー

・ヨハンの天気予報(よく外れる)

・庭の芽が少しずつ伸びていること』


 何もしていない。


 ただ——いなくなっただけだ。


 それだけで、「完璧な道具」が支えていたものは、全て崩れ始めていた。


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