旦那様、私にはまだ泣く理由がわかりません
——彼女の手は、いつも冷たい。
初めて会ったとき、まず冷気に気づいた。屋敷の入口に立つ彼女の周囲だけ、空気が澄んでいた。凍っていた。
完璧な微笑み。一点の曇りもない所作。社交界で磨かれた、隙のない振る舞い。
だから言った。
「笑わなくていいですよ」
なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。ただ——あの笑顔の奥に、何もないことに気づいてしまった。空洞だった。美しい空洞。
誰も気づかないのだろうか。この人が、何も感じていないことに。
いや、違う。感じていないのではない。感じることを禁じられているのだ。
母を思い出した。
母も——笑っていた。苦しみながら、笑っていた。最期まで。
◇
あの夜、セラフィーナが泣いた。
窓辺に立つ彼女の周りで、霜がほんの少し溶けるのが見えた。二階の窓から、庭越しに。
泣き方を知らない人の涙だった。声がない。音がない。ただ、水が頬を伝っている。
胸が痛んだ。
十年ぶりに——そんな痛みを感じた。
◇
好きなものを聞いたのは、衝動だった。
食事の好みを聞く——ただそれだけのことだ。妻に対して、当然の気遣いだ。
なのに彼女は固まった。スプーンを持ったまま、目を見開いて。
好きなものがわからない。
その事実が——許せなかった。
怒りではない。もっと深い何か。この人に「好き」を教えなかった人間たちへの——何だろう。名前のつけられない感情だった。
「急がなくていい」
そう言うしかできなかった。
俺にできることは、待つことだけだ。
◇
猫に笑ったのを見たとき、心臓が跳ねた。
完璧な微笑みではなかった。崩れた、不格好な——本物の笑顔だった。
口元が綻んで、目が細くなって、小さく息を漏らして。
——ああ。この人は、笑えるのだ。
「その顔のほうが、いい」
口が勝手に動いていた。言ってから後悔した。気持ちが悪い台詞だったかもしれない。
だが——本当だった。
あの笑顔を、もっと見たいと思った。
庭に芽が出たのは、偶然かもしれない。彼女の感情が魔力に影響したのかもしれない。どちらでもいい。
この屋敷に、十年ぶりに新しいものが生まれた。
◇
使者を追い返した日。
応接間が凍りついていた。水差しは氷になり、窓には氷の花。
その中心で、セラフィーナが立っていた。震える手。けれど、揺るがない目。
「セラフィーナは道具をやめました」
その言葉を聞いたとき——笑いそうになった。
不謹慎だとわかっている。だが、嬉しかった。この人が、自分の意思で怒れるようになったことが。
「怒ることは、壊れることじゃない」
母に言えなかった言葉だった。
母はずっと我慢していた。怒ればよかったのだ。父に。この屋敷に。不公平な運命に。
怒って——壊してもよかった。
でも母は怒らなかった。完璧な妻であり続けて、壊れた。
セラフィーナは——違う道を選んだ。
それが、どうしようもなく——
◇
ローザリンデが来た日、書斎の窓から庭の会話を聞いた。
盗み聞きだと言われた。否定はしない。
ローザリンデという少女は、確かに賢い。だが——その賢さは搾取の道具だ。姉を使い、家を使い、他者の上に立つための計算。
セラフィーナが「戻れない」と言ったとき、安堵した。
この人は、もう戻らない。あの空洞の笑顔には。
それでいい。
◇
今日、庭を歩いていたら、セラフィーナがベンチに座っていた。膝にゲルダを乗せて、手帳に何か書いている。
「何を書いている」
「好きなものの一覧です」
「……は?」
「クラウス様に聞かれたとき答えられなかったので。少しずつ見つけたものを、書き留めています」
手帳を見せてくれた。
『好きなもの(暫定)
・温かいスープ
・ゲルダの喉を鳴らす音
・林檎
・朝の霧が晴れる瞬間
・リーゼの紅茶
・クラウス様の書斎の明かり』
最後の一行で——目が止まった。
「……書斎の明かり?」
「はい。夜、窓から見えるんです。まだお仕事をしていらっしゃるのだなと。——温かい気持ちになります」
温かい。
俺の——俺がただ仕事をしているだけの明かりが、この人にとっては「好きなもの」に入るのか。
顔が熱い。困る。こういうとき、どんな顔をすればいいのかわからない。
「……そうか」
それだけ言って立ち去ろうとした。足が動かない。
「クラウス様」
「何だ」
「旦那様、私にはまだわからないことがあります」
「何だ」
「泣く理由です。あの最初の日——なぜ泣いたのか、まだわかりません。嬉しかったのか、悲しかったのか、安心したのか——どれなのか、わからないんです」
俺は、彼女の目を見た。
澄んだ目だった。嘘がない。本当にわからないのだ。自分の涙の理由が。
「……俺にも、わからないことがある」
「何ですか」
「あなたのことを、どう思っているのか」
言ってしまった。
沈黙。長い沈黙。ゲルダが退屈そうにあくびをした。
「クラウス様——」
「いや、忘れてくれ。今のは——」
「忘れません」
セラフィーナが立ち上がった。手帳を胸に抱いて、真っ直ぐに俺を見た。
「忘れたくありません。だって——嬉しいんです。とても」
嬉しい。
この人が「嬉しい」と言った。自分の感情に名前をつけて、声に出して。
「私はまだ、自分の気持ちに名前をつけるのが下手です。でも——クラウス様のそばにいるとき、胸が温かくなることは確かです」
「……」
「これが何という感情なのか、もう少し時間をください。でも——大切にしたいと思っています」
時間。時間なら、いくらでもある。この凍った領地に、春が来るまで——何年だってかかっていい。
「急がなくていい」
同じ言葉を、もう一度。
「ありがとうございます」
セラフィーナが微笑んだ。完璧ではない、不格好な——本物の笑顔で。
庭で、風が吹いた。
泉の氷が、大きな音を立てて割れた。水面が現れて、冬の陽光をきらりと反射した。
三年間凍り続けた泉が——溶けた。
セラフィーナが目を見開いた。
「泉が——」
「ああ」
俺の声が、少し震えていたかもしれない。
春が来る。
この土地に。この人に。
そして——俺にも。




