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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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9/12

旦那様、私にはまだ泣く理由がわかりません

 ——彼女の手は、いつも冷たい。


 初めて会ったとき、まず冷気に気づいた。屋敷の入口に立つ彼女の周囲だけ、空気が澄んでいた。凍っていた。


 完璧な微笑み。一点の曇りもない所作。社交界で磨かれた、隙のない振る舞い。


 だから言った。


「笑わなくていいですよ」


 なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。ただ——あの笑顔の奥に、何もないことに気づいてしまった。空洞だった。美しい空洞。


 誰も気づかないのだろうか。この人が、何も感じていないことに。


 いや、違う。感じていないのではない。感じることを禁じられているのだ。


 母を思い出した。


 母も——笑っていた。苦しみながら、笑っていた。最期まで。


  ◇


 あの夜、セラフィーナが泣いた。


 窓辺に立つ彼女の周りで、霜がほんの少し溶けるのが見えた。二階の窓から、庭越しに。


 泣き方を知らない人の涙だった。声がない。音がない。ただ、水が頬を伝っている。


 胸が痛んだ。


 十年ぶりに——そんな痛みを感じた。


  ◇


 好きなものを聞いたのは、衝動だった。


 食事の好みを聞く——ただそれだけのことだ。妻に対して、当然の気遣いだ。


 なのに彼女は固まった。スプーンを持ったまま、目を見開いて。


 好きなものがわからない。


 その事実が——許せなかった。


 怒りではない。もっと深い何か。この人に「好き」を教えなかった人間たちへの——何だろう。名前のつけられない感情だった。


「急がなくていい」


 そう言うしかできなかった。


 俺にできることは、待つことだけだ。


  ◇


 猫に笑ったのを見たとき、心臓が跳ねた。


 完璧な微笑みではなかった。崩れた、不格好な——本物の笑顔だった。


 口元が綻んで、目が細くなって、小さく息を漏らして。


 ——ああ。この人は、笑えるのだ。


「その顔のほうが、いい」


 口が勝手に動いていた。言ってから後悔した。気持ちが悪い台詞だったかもしれない。


 だが——本当だった。


 あの笑顔を、もっと見たいと思った。


 庭に芽が出たのは、偶然かもしれない。彼女の感情が魔力に影響したのかもしれない。どちらでもいい。


 この屋敷に、十年ぶりに新しいものが生まれた。


  ◇


 使者を追い返した日。


 応接間が凍りついていた。水差しは氷になり、窓には氷の花。


 その中心で、セラフィーナが立っていた。震える手。けれど、揺るがない目。


「セラフィーナは道具をやめました」


 その言葉を聞いたとき——笑いそうになった。


 不謹慎だとわかっている。だが、嬉しかった。この人が、自分の意思で怒れるようになったことが。


「怒ることは、壊れることじゃない」


 母に言えなかった言葉だった。


 母はずっと我慢していた。怒ればよかったのだ。父に。この屋敷に。不公平な運命に。


 怒って——壊してもよかった。


 でも母は怒らなかった。完璧な妻であり続けて、壊れた。


 セラフィーナは——違う道を選んだ。


 それが、どうしようもなく——


  ◇


 ローザリンデが来た日、書斎の窓から庭の会話を聞いた。


 盗み聞きだと言われた。否定はしない。


 ローザリンデという少女は、確かに賢い。だが——その賢さは搾取の道具だ。姉を使い、家を使い、他者の上に立つための計算。


 セラフィーナが「戻れない」と言ったとき、安堵した。


 この人は、もう戻らない。あの空洞の笑顔には。


 それでいい。


  ◇


 今日、庭を歩いていたら、セラフィーナがベンチに座っていた。膝にゲルダを乗せて、手帳に何か書いている。


「何を書いている」


「好きなものの一覧です」


「……は?」


「クラウス様に聞かれたとき答えられなかったので。少しずつ見つけたものを、書き留めています」


 手帳を見せてくれた。


『好きなもの(暫定)

・温かいスープ

・ゲルダの喉を鳴らす音

・林檎

・朝の霧が晴れる瞬間

・リーゼの紅茶

・クラウス様の書斎の明かり』


 最後の一行で——目が止まった。


「……書斎の明かり?」


「はい。夜、窓から見えるんです。まだお仕事をしていらっしゃるのだなと。——温かい気持ちになります」


 温かい。


 俺の——俺がただ仕事をしているだけの明かりが、この人にとっては「好きなもの」に入るのか。


 顔が熱い。困る。こういうとき、どんな顔をすればいいのかわからない。


「……そうか」


 それだけ言って立ち去ろうとした。足が動かない。


「クラウス様」


「何だ」


「旦那様、私にはまだわからないことがあります」


「何だ」


「泣く理由です。あの最初の日——なぜ泣いたのか、まだわかりません。嬉しかったのか、悲しかったのか、安心したのか——どれなのか、わからないんです」


 俺は、彼女の目を見た。


 澄んだ目だった。嘘がない。本当にわからないのだ。自分の涙の理由が。


「……俺にも、わからないことがある」


「何ですか」


「あなたのことを、どう思っているのか」


 言ってしまった。


 沈黙。長い沈黙。ゲルダが退屈そうにあくびをした。


「クラウス様——」


「いや、忘れてくれ。今のは——」


「忘れません」


 セラフィーナが立ち上がった。手帳を胸に抱いて、真っ直ぐに俺を見た。


「忘れたくありません。だって——嬉しいんです。とても」


 嬉しい。


 この人が「嬉しい」と言った。自分の感情に名前をつけて、声に出して。


「私はまだ、自分の気持ちに名前をつけるのが下手です。でも——クラウス様のそばにいるとき、胸が温かくなることは確かです」


「……」


「これが何という感情なのか、もう少し時間をください。でも——大切にしたいと思っています」


 時間。時間なら、いくらでもある。この凍った領地に、春が来るまで——何年だってかかっていい。


「急がなくていい」


 同じ言葉を、もう一度。


「ありがとうございます」


 セラフィーナが微笑んだ。完璧ではない、不格好な——本物の笑顔で。


 庭で、風が吹いた。


 泉の氷が、大きな音を立てて割れた。水面が現れて、冬の陽光をきらりと反射した。


 三年間凍り続けた泉が——溶けた。


 セラフィーナが目を見開いた。


「泉が——」


「ああ」


 俺の声が、少し震えていたかもしれない。


 春が来る。


 この土地に。この人に。


 そして——俺にも。


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