妹が来ました。笑顔で。
その日は朝から空気が違った。
使用人たちがそわそわしている。リーゼも何度も窓の外を見ている。
「リーゼ、何かあったの?」
「あ……その、お客様がいらっしゃるそうで」
「お客様?」
リーゼが困ったような顔をした。
「ローザリンデ様です」
◇
妹が馬車から降りてきたとき、私はいつもの——いや、以前の完璧な微笑みを浮かべようとした。
でも、うまくいかなかった。
口元が強張る。三分上げるはずの口角が、動かない。
——ああ、そうか。もう、あの笑顔は作れないのだ。
代わりに、何も装わずに妹を見た。
「お姉様! お久しぶりです!」
ローザリンデは花が咲くような笑顔で駆け寄ってきた。桃色のドレスに金の髪飾り。華やかで、美しくて、完璧に——計算された笑顔。
以前の私には、その笑顔の裏が見えなかった。
今は、見える。
「遠いところまで、わざわざ」
「ええ、お姉様に会いたくて! それに、辺境の暮らしがどんなものか、見てみたかったの」
見てみたかった。確認しに来た、という意味だろう。私がちゃんと「道具」として機能しているか。ハインリヒの報告を受けて、自分の目で確かめに来たのだ。
「お部屋にご案内するわ」
「ありがとう、お姉様。——ところで、この屋敷、ずいぶん質素ですのね。お庭にお花もないし。まるで廃墟みたい」
笑いながら言う。悪意は見せない。ただ「事実」として口にするだけ。それがローザリンデのやり方だった。
以前の私なら、何も感じなかっただろう。
今は——胸の奥が、小さく軋んだ。
◇
昼食はクラウス様も同席した。
ローザリンデはクラウス様に対して、完璧な礼儀作法で接した。けれどその目は——品定めをする商人のそれだった。
「クラウス様、お姉様をよくしてくださっているようですね。感謝いたします」
「……当然のことだ」
「あら、寡黙な方。お姉様にはお似合いかもしれませんわ。お姉様も寡黙ですもの——というか、感情がおありにならないのでしたかしら?」
ローザリンデが笑った。食卓の空気が一瞬凍った——比喩ではなく、私の周囲の温度が下がった。
「ローザリンデ」
「はい?」
「私は、感情があるわ」
ローザリンデの目が、一瞬だけ揺れた。すぐに笑顔に戻ったけれど——揺れたのを、私は見た。
「あら。辺境の空気が合っているのかしら」
「ええ。とても」
◇
午後、ローザリンデと庭を歩いた。
「お姉様、少しお話があるの」
使用人たちの姿が見えなくなったところで、ローザリンデの声が変わった。甘さが消え、乾いた音になった。
「お父様がお怒りよ。ハインリヒを追い返したでしょう?」
「追い返したのではないわ。帰っていただいただけよ」
「同じことよ。お姉様、わかっているの? あなたの役目は——」
「道具でしょう?」
ローザリンデが黙った。
「お父様はそう仰っているのでしょう。道具は正しく機能しろ、と」
「……お姉様、変わったわね」
「変わったわ」
「困るのよ、変わられると」
ローザリンデの声に、初めて本音が混じった。
「お姉様が完璧でいてくれないと、私の立場が——」
「あなたの立場?」
「王太子妃としての私の価値は、ヴァルトシュタイン家の力に支えられているの。その力は——お姉様の完璧さと、辺境公爵家との繋がりで成り立っている。お姉様が道具をやめたら、私の足場が崩れるのよ」
足場。
私の完璧さが、ローザリンデの足場。
「……ローザリンデ。あなたは私のことを、何だと思っているの?」
「姉よ。大切な姉。——だから、お願い。元に戻って」
大切な姉。
その言葉が、嘘だとわかった。以前の私にはわからなかったかもしれない。けれど今は——感情が教えてくれる。
大切ではない。便利なのだ。
「戻れないわ」
「お姉様——」
「ローザリンデ。私はもう、完璧な道具には戻れない。戻りたくない」
ローザリンデの笑顔が、崩れた。一瞬だけ、素の顔が見えた。焦り。苛立ち。そして——恐怖。
「……後悔するわよ」
「するかもしれない。でも、後悔は——私自身の感情だから。お父様やお母様に言われて感じるものではないから」
ローザリンデは何も言わずに背を向け、屋敷に戻っていった。
◇
翌朝、ローザリンデは帰った。笑顔で。最初から最後まで、完璧な笑顔で。
「また来るわね、お姉様。辺境のお茶、美味しかった」
嘘だ。お茶には一口も手をつけていなかった。
馬車が去った後、庭に一人で立っていた。
「……成長した、とでも言うのか」
振り返ると、クラウス様がいた。
「聞いていたのですか」
「庭での会話は、書斎の窓から聞こえる」
「盗み聞きですか」
「窓を開けていただけだ」
少しだけ——笑ってしまった。不格好な笑いだ。でも、もう不格好でも構わない。
「妹のことを、どう思いますか」
「賢い。だが——賢さの使い方を間違えている」
「そうかもしれません」
「あなたは、正しく使い始めた」
「何をですか」
「自分の感情を」
クラウス様が庭の隅を指さした。
あの芽が——伸びていた。小さな葉が二枚、開いている。霜の中で、確かに育っている。
「春が、少しだけ近づいたな」
私は小さな葉を見つめた。
私も、少しだけ——育っている気がした。




