第2部 血まみれの愛 12
由衣が圧倒的なアグノーを出した翌日の夜だった。俊は食堂に行き、森山と一緒に食事をした。浜口は食欲がないからと言って、部屋から出てこなかった。俊自身も食欲はなかったが、食べておかないと明日がキツイと思うので、消化のいいうどんを無理に掻き込んだ。
しばらくすると、ヌシと由衣が連れ立ってやってきた。二人はトレイに食事を載せ、俊たちの隣に座った。
しかし彼女たちはうどんのスープを軽くすすっただけで、ほとんど料理に箸をつけようとしなかった。
「どうしたんだよ、早く食べないと麺がのびちゃうじゃないか」
「ここへ来たら、なんだか急に食欲がなくなっちゃったのよ」
「あたしも」
「明日も館野の奴がわけのわかんない訓練を始めるだろうし、食っておいた方がいいんじゃねえのか。ま、由衣は痩せてちょうどいいかもしれないけどな」
由衣は森山の挑発には乗らず、ただ頷くだけだった。昨日の訓練がよっぽどショックだったのだろう。
どうして由衣はあんな風に泣いていたのだろうか。
それに館野の言葉。
――お前、今まで何人殺してんだよ――。
ここへ来る前、由衣はどんな体験をしているのだろうか。知りたい気持ちはあったが、面と向かって尋ねる勇気はなかった。
俊と森山は食事を終え、返却口へトレイを持って行った。振り返ると、ヌシと由衣もほとんど手を付けていない料理を返却口へ持って行こうとしていた。結局、四人は一緒に食堂から出て、階段を降りた。
「森山君、ちょっとコンビニへ付き合って。アイスおごるから」
一階のロビーに出たとき、突然ヌシが森山の服を掴み、彼をコンビニへ引っ張っていった。
「なんなんだよ」
森山は戸惑いながらヌシについて行った。
「急に二人でどうしたのさ」
「いいのよ。あなたたちは先に帰ってて」
自分もコンビニへ行こうかと思った俊は、ヌシの言葉で出鼻をくじかれた。
「あの二人、気になるの?」
「あの組み合わせって滅多にないからさ、珍しいと思ったんだよ」俊は少しムキになって答えた。「由衣は行かないのか」
「あたしはいいわ。さ、行きましょ」
自動ドアが開き、二人は外へ出た。風はやや冷たかったものの、季節はもう春で、新緑の青臭い匂いが漂ってくる。俊はその匂いをかぎながら、つかの間、自分の置かれた境遇を忘れ、解放された気分になった。
おやすみと挨拶をしようとしたとき、「少し散歩しない?」と由衣が言った。少し、声が震えているような気がした。
「ああ」
突然の申し出に戸惑いながらも、由衣と並んだ。彼女は林へ向かって、ゆっくりと歩き出した。
「昨日はごめんね。みんなを押しつぶしそうになっちゃった」
「確かに苦しかったけど、あの程度じゃ大丈夫だよ。でも、由衣の力は凄いんだな。薬の効果がなくなれば、館野なんか屁じゃないよ」
「そうかもしれない。だけど、あたしはあの力が嫌いだわ。力を持っていたおかげで、あたしは人殺しになっちゃった。本当なら、死刑になったっていいくらいよ」
「そんな風に言うなよ。僕もここへ来る前に人を殺しちゃったけど、不可抗力なんだ。由衣もそうだろ。症状が出始めた時は、誰も制御なんか出来ないんだ」
「四十三人」
「え?」
俊は由衣を見た。彼女は薄暗い中、涙を街灯の光に反射させながら、遠くを見つめていた。
「あたしが殺した人の数よ」
「そうなんだ……」
他に返す言葉が見つからない。驚きともどかしさが心の中で入り交じり、焦りだけが空回りする。ただ、それを表情に出してはいけないと思い、軽く深呼吸した。
「あたしが生まれた場所は岐阜の山奥で、百人ぐらいの集落だったの。アグノーが現れたのは十二歳の冬だったわ。弟と、喧嘩をしていたの。確か、ゲーム機の取り合いをしてたんだと思う。
今でも忘れない。あたしが怒って叫んだら、弟が壁を突き破って、隣の部屋に飛んでいったの。抱き起こすと、首が変な風に曲がっててたわ。
弟、死んでた。
音を聞きつけたお母さんがやってきて、悲鳴を上げて、あたしもわけわかんなくなっちゃって……
そしたらおうちが爆発しちゃったの――」
「もうよせよ。昔の話じゃないか」
「だめ、最後まで聞いて」
由衣の涙に濡れた目は、強い意志を放ち、俊を見据えていた。
「集落は大騒ぎになったわ。道路が雪で通行止めになってたから、対策室の人はヘリコプターで来ることになったの。でも、準備に時間がかかる。それで集落の人たちがそれまでの間、あたしを捕まえておくことに決めたわ。
みんな、JSについてよく知らなかったのよ。男の人が四五人で押さえつければ何とかなると思ってたらしいわ。
囲まれそうになったあたしは、山の奥に逃げたの。でも、すぐに雪が深くなって、身動きが取れなくなっちゃったわ。
大勢の大人が迫ってきた。あたしは怖かった。
叫んだ。力の限り。
その時よ。山が動き出して、大量の雪が私たちを埋め尽くしたの。
雪崩は集落の半分を埋め尽くした。あたしも埋まったけど、力場が作用して、雪を寄せ付けなかったわ。でもね、普通の人たちは、みんな死んじゃったのよ」
由衣は立ち止まってその場にうずくまり、嗚咽混じりの吐息を漏らした。俊はその隣にしゃがみ、丸みを帯びた肩をそっと抱いた。彼女が体を寄せてくる。ぬくもりが感じられ、柔らかな匂いを吸い込む。
いとおしさ。不意にそんな気持ちが湧き起こり、俊は戸惑った。こんな気持ち、今まで感じたことなんかなかった。
「あたし、また人を殺さなきゃいけない。だけど、そんなの嫌よ。あたしは誰も殺したくなんかない」
――でも、俺たちはJS患者を殺さなくちゃいけないんだ――
心の片隅で、冷静な自分が語っているのを意識していたが、今は何も言わず、ただ彼女に寄り添い続けた。
彼女を守りたい、そう思った。
翌日の朝、由衣が話した意味を知った。
呼び出しチャイムの音で起こされた。時刻は午前六時。いきなり麻酔銃で撃たれた時を思い出しながら、注意深くドアを開ける。そこにいたのは田原一人だった。
「生きていたか」
田原はほっと息を吐いた。
「それ、どういう意味だよ」
不吉な予感がして、田原の肩を掴んだ。
「いま、全員の安否確認をしているんだ」
「だからどうしてそんなことしてんだよ」
田原は一瞬躊躇した後、口を開いた。「落ち着いて聞け」
俊は頷く。
「由衣が死んだ。自殺だ」
「バカな。だって、JSは自分で死ねないじゃないか」
「ああ。でも死んだんだ」
田原を突き飛ばし、廊下を走り、階段を駆け下りた。
由衣はJSなんだぜ、簡単に死ぬはずないじゃないか。食堂の前を走りながら、叫びたくなる気持ちを抑え、女子用宿舎に駆け込もうとした。
「止まれ」
入り口に館野がいた。俊はアグノーで押しのけようとしたが、逆に足を掬われ、バランスを崩したところを飛ばされた。植え込みの木をなぎ倒して止る。
「油断してんじゃねえぞ。普段のお前なら、かわせる攻撃だ」
「由衣に会わせろよ」
「だめだ。塚原に誰も入らせないよう言われているんだ」
「うるせえ」
地面を蹴り、大きく跳躍しながら館野に飛びかかる。館野はいとも簡単に俊を払い、地面にたたきつけた。
「だからよ、攻撃が単純なんだ。お前は興奮したり疲れてくると、考えないで突っ込んでくる。悪い癖だ」
「だったらよ、これでどうだ」
俊が起き上がる。同時に風が立ち上り、砂埃が館野に向かった。
一瞬、館野がひるむ。
その隙を突き、腹へアグノーを打ち込む。
館野はドアを突き破り、玄関ホールへ突っ込んだ。俊もそれを追って中に入る。
「やめて、由衣が死んだんだから、静かにしてよ」
ヌシが床に座り、壁にもたれかかって俊を見ていた。その表情は冷静で、取り乱した様子はない。
昨日のヌシの、不自然な行動を思い出す。
「お前……由衣が死ぬのを知ってただろ」俊はヌシの肩を掴み、揺り動かした。「なんで止めなかったんだよ」
「止めたかった。でも、だめだった」
ヌシの目から、みるみるうちに涙があふれ出し、頬を伝っていった。
「なんで俺たちに相談してくれなかったんだよ」
「あたし、怖くて由衣に聞けなかった。死にたいなんて言われたら……どうしていいかわからなかった」
ヌシはしゃくり上げながら、話し続けた。
「そんな……」
俊はヌシから手を離し、その場にしゃがみ込んだ。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなってしまった。ただ、声を上げて泣きじゃくるヌシを、ぼんやりと見つめているだけだった。
「由衣が死んだって本当なのか」
森山が走ってきた。後に続いて浜口も来た。二人は泣いているヌシと、呆然としている俊を見て、それが事実だと悟った。
「マジかよ……」
「死んじゃったのか」
「由衣が死んだのはわかっただろ。男連中は建物から出て行けよ」
「だめだ、由衣に会わせろ」
「まだ言うか。死体なんぞ、見たってしょうがねえだろ」
俊と森山が構える。館野も舌打ちしながら二人に向き直る。その時、エレベーターのドアが開き、塚原が出てきた。
「長年一緒にいたメンバーだ。最後に一度、会わせてやろう」
「なんだよ。さっきまで会わせるなって言ってたのによお」
「気が変わった。文句があるか」
「はいはい。仰せの通りいたします」
館野は投げやりに言い、「三階だ。行けよ」とあごでしゃくった。
全員エレベーターへ乗り込み、三階へ行った。廊下には誰もいなかったが、一室だけドアが開いたままの部屋がある。塚原はその中に入っていった。
間取りは俊の部屋と同じワンルームだったが、壁紙は薄いピンクだった。反対側の壁に、ベッドが置いてあり、布団が盛り上がっている。その上へ覆い被さるようにして、白衣の男が由衣を調べていた。
男の肩越しに、由衣の顔が見えた。
口がぽっかりと開いていた。目をきつく閉じ、眉間に深い皺が寄っている。今にも苦しみの声を上げそうな瞬間で、止まったかのような顔だった。
肌は、作り物のように白い。
確かに由衣は死んでいた。
体の力が抜け、いつの間にか床にひざまずいていた。隣で浜口が、大声を上げて泣いている。
「空気を塊にして口に突っ込んだらしいぜ。普通なら、酸欠で意識が薄れれば、本能でアグノーが解除されるはずなんだが、こいつは死ぬ寸前まで意識があったんだろうな。すげえもんだぜ。今まで意気地のねえ奴だと思ってたが、これだけは認めてやってもいい」
館野はポケットに両手を突っ込んだまま、由衣の遺体を見つめていた。いつもの薄っぺらい笑いはなかった。
「JS患者が発する力は、網様体が深く関わっていると言われている。網様体は生命維持の根幹に関わる器官だから、自らの死を誘発する行為は拒否されるはずだった」
「つまり、由衣は本能を越えていたと言うんだな」
森山の表情はサングラスでうかがい知れない。ただ、声が震えていた。
塚原が頷く。
「しかし惜しいことをしたよ。彼女は〈スペシャル〉だったんだ」
「なんだよ、〈スペシャルって〉?」
「JS患者が発するアグノーの強さが、個々によって微妙に違うのは、お前も知っているはずだ。中でも、五十人に一人の割合で、突出して強力な力を持つ者が出てくるのがわかっている。そういうJS患者を〈スペシャル〉と言うんだ」
「だから、由衣が死んだのを惜しいと言うんだな」
「そうだ」
「お前は……そんな見方でしか由衣を見ないのか」
「君の言うことはわかる。ただ、私は職務の立場から発言したに過ぎない」
「塚原」
強烈な怒りが爆発する。
周囲の空気が重くなった。怒りはアグノーとなって、塚原に焦点を当てていた。
「俊、やめろっ」
森山が腕を掴み、耳元で叫んだ。
胸の中からヴァイブレーションが響いてくる。
「そうよ、俊まで死んじゃ嫌よ」
ヌシが塚原の間に立ちはだかり、燃えるような強い瞳で俊を見つめた。
「どけよ。こいつを潰して俺も死ぬんだ」
その瞬間、横から強い衝撃を浴びて、壁に押しつけられた。
「オメーなあ、よく考えろよ。塚原を殺したら、俺も死んじまうんだぜ」館野がめんどくさそうにつぶやいた。「塚原さん、早いとここいつを殺してくれよ」
全員の視線が俊に注がれる。響き続けるヴァイブレーション。
「死ぬのは館野だけじゃない。ここにいるJS全員が死ぬんだ。それでも私を殺そうと思うか」
塚原を見つめる。その顔に、動揺する様子はなかった。自分を殺せないのがわかっているのだ。
心の中で、怒りが急速にしぼみ、悲しみに変わっていった。
大粒の涙が溢れていく。
「俺が悪かったよ」
ヴァイブレーションが止まった。俊は大きく息を吐いた。
「いい心がけだ。」
塚原は無機質な笑みを浮かべた。




