第2部 血まみれの愛 11
もうすぐ夜八時だった。香織は部屋のドアを開けた。廊下に誰もいないのを確認して、隣の部屋のドアをノックする。すぐにドアが開いて、由衣が出てきた。上下グレーのスウェット姿で、ひどく怯えた目をしていた。その姿に痛ましさを感じたが、顔に出さないよう、わざと口をきつく結ぶ。由衣を押しのけるようにして、部屋の中へ入った。
ワンルームにピンクの壁紙、壁と一体になった学習机に木製の椅子が置いてある。素っ気ないスチールパイプのベッドがある壁には、造花で作ったリースが飾ってあった。あれを一緒に作ったのは、福池の事件が起こる少し前だった。香織は思わず出そうになった溜め息を、喉の奥へ押し込めた。
椅子に置いてあったくまのぬいぐるみを机に移し、自分が座った。
「早速始めましょう」
しかし由衣は、戸口で所在なさげに立ったままだ。
「ねえお願い、時間がないのよ。あんたもそんなことはよくわかってるでしょ」
由衣は小さく頷くと、香織に向かい合うようにして、ベッドの端へ腰掛けた。その姿は、なんだかいつもより縮こまって見える。
「香織、もうやめにしましょうよ。あたし、怖くて仕方がない。ほら、こんなに手が震えている」
由衣は手を差し出す。彼女の言うとおり、細かくふるえているのがはっきりわかった。由衣の目から、大粒の涙が溢れてくる。香織はその手を、包み込むように握った。
「怖いのはあたしだって同じ。でもね、やらなければいけないの。それが出来るのはあなただけ。わかるでしょ」
声は優しいが、その中には有無を言わせぬ強い意志があった。
激しくしゃくり上げ始めた由衣をじっと見つめる。
室内に、由衣の嗚咽と、鼻をすする音だけが、静かに響いていた。香織は黙ったまま、由衣の暖かく柔らかな手を握り続ける。
ようやく由衣が落ち着き始めてきた。手の震えも、収まっている。
「さあ、始めましょ」
由衣は涙に濡れた顔を上げ、悲しみに満ちた目をして、弱々しく頷いた。
恐怖が胃を締め付け、心臓が激しく鼓動する。あたしがこんなんじゃいけないわ。香織は何度も大きく深呼吸をしながら、ありったけの力を振り絞って硬い表情をした。弱さが顔に出ないよう、必死で押さえる。
翌日の訓練で、浜口もどうにかアグノーが見えてくるようになった。館野はペアになって対戦をするよう指示した。
「内臓に差し込まれたら負けだ。それ以外のルールはない。投げ飛ばそうがぶつけようが、何をしたってかまわない。相手の防御を突破するのが目的だ」
メンバーは必ず一人余ってくるので、誰かが館野と対戦することとなる。
最初に館野と対戦したヌシは、初めこそ健闘したが、すぐに館野が圧倒し、何度も投げ飛ばされた。
「おい、館野。内臓に差し込めば終わりじゃなかったのか。ヌシは防御する力もないだろ」
「そんなの誰がわかる。もしかしたら、こいつわざとダメージを受けたふりをして、俺を油断させているかも知れないんだぜ」
「そんなわけ――」
言いかけた俊に、館野はヌシを投げつけてきた。
「うわっ、よせよ」
ヌシがスピードを上げて迫ってきた。反射的にアグノーを使って受け止める。
「どうだ、ヌシを抱いた感想は。いい匂いがするだろ」
苦しげに顔をゆがめているヌシを、ゆっくりと降ろす。
へらへら笑う館野に、これまで感じたことのない怒りがこみ上げ、頭の芯がくらくらしてくる。
この男を、殺してやりたいと思った。
「どうした。お前、この女が好きなんだな。だからそんなにムキになるんだろ。前にジューケイが言ってたが、本当だったらしいな」
ヌシをまたぎ、前へ出た。
「どうした、俺とやろうってのか。見上げた根性だな。相手になってやるよ」
「よしなよ。俊君を挑発しているんだ」由衣が腕を掴んだ。「あいつ、香織が好きだったから、俊君に対抗心を持ってるのよ」
「離してくれ」
怒りと一緒にアグノーが膨れあがり、由衣の手を押し返す。
心持ち足を広げ、手のひらを館野に向けて構えた。
「いい姿勢だ。手のひらでコントロールするイメージを持つと、制御しやすい」
館野も同じように俊へ手をかざした。彼の周囲に、金色のアグノーが浮かび上がってくる。にやけていた笑いが、凄味を帯び始めた。
館野のアグノーが、細長い槍となって俊へ襲いかかった。
左に動いてかわす。力場と接触したが、あっさり突き破り、右腕をかすめた。
ドスッと音がして、背後のコンクリート壁に穴が開いていた。同時に右腕に痛みを感じた。二の腕のシャツが破れ、ピンク色の傷口が顕わになった。次の瞬間、血が湧き出し、腕を伝っていく。
「お前らに合わせて力をセーブしていたんだがな、そういう態度を取るなら全力で戦ってやるよ。ちなみに、訓練中に死んだ奴が出ても、仕方がないといわれているんだ。始末書ぐらいは書かなきゃならないかもしれないが」
こいつ、俺を殺そうとしているのか。
これまで感じたことのないような緊張が走り、全身がふるえてくる。
「俊、いいアグノーが出ているぜ。だがな、俺に勝てるか?」
館野のアグノーが、爆発するようなスピードで膨れあがった。俊の背後にある壁一面を覆い尽くすほどだ。逃げられない。
体を縮め、身構えた。
強烈な圧力が襲った。壁に押しつけられ、息ができなくなる。
背後のコンクリート壁がミシミシと音を立て、ひび割れを起こす。力場は壊滅することなく俊を守っていた。ただ、このままでは息が吸えず、窒息死してしまう。
さっきは俺の力場を突破して腕を傷つけたのに、どうして今は力場を破壊しない? 酸欠で朦朧としはじめた頭で、必死に考えた。
力が及んでいる範囲が広がっている分、力の威力が減っているんだ。
だとしたら、こっちは力を集中させればいい。
俊は内臓へ侵入するときのように、錐をイメージし、渾身のアグノーを放った。
――行けっ――
アグノーが、館野の力場を切り裂く。
館野が顔を引きつらせながら、俊のアグノーをかわした。
押さえつけていた力が消える。壁から離れ、床に倒れ込んだ。
咳き込みながらも新鮮な空気を吸い込んだ。しかし、館野の動きからは目を離さない。
「こじゃれたマネをするじゃねえか。だったらこれはどうだ」
アグノーが、雄牛のようになって殺到した。
右に倒れて避けようとしたが、アグノーも方向を変え、襲いかかってくる。
逃げ切れない。
右半身へ直撃する。
衝撃を受けながらも、はじかれて壁に挟まれるのは免れた。
どすっと音を立て、コンクリート壁がへこむ。
「おいっ、油断してんじゃねーぞ」
アグノーが棒になって迫ってくる。
突いてくるより、振り払う方の威力が弱いのはこれまでの経験からわかっていた。身を固めて衝撃に備える。
接触した。しかし、衝撃は起きない。アグノーは大蛇のように体へまとわりついていた。
「ほらどうした。逃げてみろよ」
せせら笑う館野に怒りを向けながら、アグノーを切り裂こうとした。だが、力の差は明らかだった。力場を広げて圧迫しているわけではないので、アグノーは堅く、ダメージを与えられない。
体が浮く。アグノーがムチのようにしなり、壁へ向かっていく。
衝突した。頭へ強い衝撃が走った。間髪を置かず、反対の壁へ飛ばされる。
目の前に火花が散るような感覚を覚えながら、死を意識した。
「館野君、もうやめて」
由衣だった。
「どうした。お前、こいつが好きなのかよ」
館野は俊を放り投げた。壁へたたきつけられ、床に落ちた。体を起こすと、由衣と館野が対峙していた。由衣は目に涙を溜めている。
「どうしてそんなことするのよ。これから、みんなで力を合わせなきゃなんないのに」
「だからお前はだめなんだよ。取締の場は殺しあいだ。力を合わせてやろうなんて根性だと、すぐにやられちまう。もちろん力を合わせて対象を狩るというのはあり得る。だがな、一対一になったとき、お前らみたいな守りだけの姿勢じゃあすぐにやられちまうんだ。特に由衣、お前は力はずば抜けてるくせに攻める姿勢がない」
「あたし、そんなの嫌なのよ」
「アホか」館野がニタニタと嫌らしい笑いを浮かべた。「お前、今まで何人殺してんだよ」
由衣の顔が強ばった。
「カマトトぶりやがってよ。自分が血まみれなのは、よくわかってるはずだぜ。
まあいいさ。お前がこいつらの代わりに戦うなら受けて立つぜ」
「嫌よ。あたし戦いたくなんかない」
「へっ、バカな話をしてんじゃねえ。お前が戦うのを拒否したら、俊もヌシも殺すぞ。そうすれば、もう二人分の血がお前に降りかかるってわけだ。
さあ、どうする? 戦うか、血を浴びるか」
由衣は黙ったまま手をかざす。瞳から涙が溢れ、頬に伝っていたが、視線は強く、館野を捕らえている。
「みんなには、もう手出しはさせない」
「いい心がけだ。だったら、俺を倒してみろよ」
由衣のアグノーが強く輝き始める。
先端が尖り、館野へ向かった。
転がって避けた。
壁のコンクリートがはじけ飛び、ゆがんだ鉄骨が顕わになる。
「やっぱ強えな。俊なんかより段違いだ」
館野は口元に笑いを浮かべながらも、険しい目で由衣を見ていた。
館野のアグノーが、溢れた水のようにスピードを上げて床を這い、由衣の足下を狙った。
由衣は飛び上がったが、館野のアグノーはシートになって由衣を包み込んだ。そのまま締め上げるつもりだ。
だが、由衣を包んだアグノーは、一瞬輝きを増したかと思うと、弾けるように消滅した。
大きな光が、浮かんでいる由衣を包んでいる。
誰よりも強く輝いていた。肩まで伸びた髪の毛はふわりと浮かび上がり、中空に漂っている。
表情は静かで、感情は読み取れない。
神々しい空気が発散されていく。
こんな由衣を見るのは初めてだった。
森山にデブとからかわれてムッとしたり、食堂で鶏の唐揚げをおいしそうに頬張る由衣はいなかった。
違う人格が彼女に降りてきたかのようだ。
その姿に、畏怖を覚える。初めて由衣を怖いと思った。
由衣のアグノーが変形し、館野に向かって伸び始めた。アメーバがえさを捕食するように、館野を包み込もうとする。
館野は天井まで跳躍して逃れたが、アグノーは方向を変え、向かってく行く。
「行けっ」
館野はアグノーを放ち、由衣のアグノーと激突した。
火花のような激しい光を発し、由衣の力場へ侵入していく。
しかし、館野のアグノーは由衣の手前で止まった。館野の顔が驚きでゆがむ。
由衣のアグノーが館野の足を掴んだ。
「くっそお、離せよ」
由衣は館野を振り回し、壁へ衝突させた。コンクリートが破壊され、ビルが揺れる。
壁の鉄骨がむき出しになっていた。
床に固定されたスチール机が、館野の体でおもちゃのようになぎ倒される。
館野が壁に激突し、再び激しく揺れた。
「すげえよ。館野が圧倒されているぜ」
森山がつぶやく。俊と浜口はあっけにとられ、ぽかんと口を開けて二人の戦いを見つめていた。
「由衣はそういう子なの。力は誰よりも強いけど、戦うのが嫌なんだ。薬が抜けきらない今でも、あいつと互角に戦える力があるのはわかってたけど、敢えて押さえていたの」
ヌシだけが悲しげな顔をして、二人のやりとりを見ていた。
「野郎……殺してやる」
館野が壁から引きはがされたとき、周囲で火花が散り、巻き込んでいたアグノーが消えた。
館野が右手をかざす。ロープのように細長いアグノーが吐き出され、由衣の顔面へ伸びていく。
しかし、凝縮された力は由衣に到達する寸前、カーブを描いて逸れた。コンクリート壁に穴が開く。
「まだ終わらねえぞ」
細長くなったアグノーは、ロープとなって由衣の首に巻き付いた。
「ぐうぅ……」
由衣は館野の力を切断しようした。ロープの輝きが増していく。
「ここまで細くなるとな、その分力が強くなっているから、そう簡単には引きちぎれねえんだよ」
館野の顔に、再び笑みが浮かぶ。
由衣の顔から血の気が引き、白くなり始めている。
館野は力を緩める様子がない。このまま殺してしまうのか。
突然、由衣のアグノーが、爆発したように部屋全体へ広がった。俊たちはその力に圧倒され、壁に押しつけられた。
体が動かない。明らかに館野を上回る力だった。息ができず、苦しい。
首が動かない。眼球だけを動かし、周囲を見る。天井や床にひびが入っていた。
建物が破壊される。
館野は辛うじて右手をかざしているが、表情は苦しげだ。背中は既に壁へ押しつけられ、歯を食いしばりながら由衣を睨みつけている。
体の奥でヴァイブレーションが響いた。
一定の間隔で響いてくる。
塚原の警告だ。
不意に圧力が消えた。俊たちは床へ投げ出されるように手を着き、激しく呼吸をして、新鮮な空気を吸った。
「館野、やり過ぎだ。ビルが壊れる」
いつの間にか、入り口に塚原が立っていた。
「俺に言うなよ。やったのは由衣なんだ」
喘ぎながらも館野が反論する。
「挑発したのはお前だ。それに、お前は全員をコントロールする責務があるはずだ」
「わかったよ。俺が全部悪いのさ」
館野は顔をしかめて舌打ちした。
由衣は床へうつぶせになって倒れ込んでいた。ヌシは既に彼女の傍らへ行き、小山のように盛り上がった背中をさすっていた。俊も彼女の様子を見に、横へ行く。
「苦しかったら医者を呼ぼうか」
「体は大丈夫だと思う」ヌシが代わりに答えた。「でもこの子、もっとひどいダメージを受けてるのよ」
最初、ヌシの言っている意味がわからなかったが、すぐに由衣の背中が小刻みに震えているのに気づいた。彼女は泣いていた。
「あんた、本当にひどい人。由衣がどうして力を使いたがらなかったのか、わかってるでしょ」
ヌシが館野を睨みつける。
「百も承知さ。だがな、いくら嫌だと言っても、俺たちは戦わなけりゃならない。そうでなけりゃ、死ぬまでだ」
「館野の言うとおりだ。君たちには規格外患者を取り締まる任務が待っている。それを放棄した場合、何度も言っているように死んでもらうしかない」
「あんた……」
ヌシが立ち上がり、塚原に向かおうとした。
「よせよ」
俊と森山がヌシの腕を掴んだ。振り払うそぶりを見せたが、アグノーは使わなかった。
ヌシはため息をつき、「ごめん」とつぶやいた。二人は手を離す。
「何か質問はないか」
塚原は動揺することもなく、メンバーを見回す。最後にヌシを見る。
「ないわ」
軽く首を振り、冷たい視線を塚原に投げかけた。
起き上がった由衣を、ヌシが包み込むように抱きしめた。
「怖かった。怖くて怖くてたまらなかった……」
由衣はヌシの胸に身を預けながら、涙を流し続けた。




