第2部 血まみれの愛 10
「森山、とっとと立てよ」
館野が腕を組みながら口に笑みを浮かべ、足下を見下ろしていた。
コンクリートの壁にたたきつけられた森山が倒れている。
森山はうつぶせの状態から、ゆっくり体を起こす。その顔には、サングラスはもちろん、左目に嵌めた義眼も外れ、陥没した眼窩が顕わになっていた。憎しみに満ちた表情と、むき出しになった左目の傷跡が、凄惨さを発散していた。
「まだ薬の効果が切れていないってこともあるけどよ、いくら何でも弱っち過ぎるぜ。これで戦ったら、命なんていくらあったって足りやしねえ」
よろよろと立ち上がった瞬間、森山は再びコンクリートにたたきつけられた。アグノーのバリアでバウンドし、再び床へ倒れて動かなくなる。
「森山、大丈夫か」
近づこうとした俊も、壁にたたきつけられた。
「軽く脳震盪を起こしているだけだ。JSはそんなにヤワじゃねえ」
「ほら、起きな」
館野は森山を引き上げた。死んだ蛸のように、両手を力なく前へ垂らしている。目は開いていたが虚ろだ。館野は躊躇することなく、彼を反対側の壁に投げ飛ばした。室内に鈍い音が響き、激突して頭から床に落ちていった。
「あんた、それってリンチじゃない。森山を痛めつけて、自分が楽しんでいるだけでしょ」
「そいつは心外だぜ」ヌシの抗議にも、館野は口元の笑みが消えない。「俺は森山のためを思ってやってんだぜ」
「そんなことして、何の意味があるっていうのさ」
「大ありだよ。奴はまだ、アグノーが見えてねえのさ」
「それ、どういう意味なんだ?」
「言った通り、アグノーがこの目で見えるんだよ。森山は見えないから簡単に投げ飛ばされちまうのさ。この中で、はっきり見えてるのは由衣ぐらいなもんだろうな。俺がさっき由衣の訓練を簡単に終わらせたのは、手加減したわけじゃないんだぜ。見えてるのがわかったからだよ。由衣、お前は意識的に俺の力をいなしてただろ」
由衣はおずおずと頷く。
「俺も何度かJSと戦ってきたが、死の恐怖を感じると、急に見えてくるようになるみたいだ。本当なら誰かが俺に内臓を引きちぎられれば、他の奴は覚醒するはずなんだがな。なかなかそういうわけにもいかないから、いたぶって見えてくるのを待っているってわけさ」
「それを早く言えよ」仰向けになった森山が、顔だけこちらへ向けて、喘ぐように叫んだ。「意識して訓練するのとしないのじゃあ、全然違うじゃねえか」
「悪かったな。俺は先生としちゃあ、素人だからさ、許してくれよ。
次は石黒だ。他の奴らは森山を隅へ移動させておけ」
俊は部屋の中央へ進み出た。
いきなり横殴りの衝撃を受け、体ごと吹っ飛んだ。壁にたたきつけられ、一瞬目の前が真っ白になる。気づいたときには床へ倒れていた。体中が痺れたように感じたが、すぐ強烈な痛みへ変わっていく。
「油断してんじゃねえぞ。そこに立った時点で訓練は始まってんだからな」
慎重に体を起こす。心臓が激しく鼓動を繰り返すのを感じながら、館野を見つめる。
力はどんな風に見えてくるんだ。
じっと目を凝らす。しかし、そこにあるのは館野のにやけた顔だけ。
不意に、顔面へ強烈な圧力を感じたかと思うと、殴られたような衝撃へと変わる。床へ倒された。
「わかりやすいのを一発お見舞いしてやったんだが、だめか」
館野はポケットに手を突っ込んだまま俊を見下ろしていた。
「この程度がわかんねえと、腹に刺さってくる力なんかとても見えやしねえぞ。このまま戦場へ行ったら、一発で内臓がぐちゃぐちゃにされちまうな」
起き上がった瞬間、また飛ばされ、壁に激突した。
「くそおぉ……」
「俺はお前たちにいくら憎まれようと、なんにも思わないぜ。ただ、俺はこの先も生きていたいだけなんだ。お前らが一人前になって戦ってくれれば、俺だって生きる確率が高まるってもんだよ」
俊の体が浮き、向いの壁へ向かって飛ばされた。
ぶつかった瞬間、あまりの痛みで意識が遠のく。
館野は容赦しない。体をつり上げられ、再び投げ飛ばされた。今度は完全に意識が飛んだ。
気がついたとき、上からヌシと由衣が心配そうに見つめていた。
「よかった」
ヌシは意識を取り戻した俊を見て、ほっと息を吐き出した。
動こうとすると、関節が痛みで悲鳴を上げる。俊は呻いた。
「大丈夫? 無理に動かなくてもいいわ。今は浜口君が相手になってるの」
体のぶつかる鈍い音が響いていく。首だけ動かすと、机の脚越しを通して、倒れている浜口の姿が見えた。
「オラア、まだ見えねえのかよ」
浜口の体が浮かび、投げ飛ばされた。視界の外から、鈍い音が響いてくる。
俺たち、どうしてこんなことをしなけりゃならないんだろう。
思わず、涙があふれ出てきた。
結局浜口も、アグノーを見られなかった。由衣とヌシに引きずられて隅に移動する。
最後に訓練をしたヌシは、何度か飛ばされたが、大きなダメージを受けることなく合格となった。
「ヌシも見えてきたらしい。男連中は全員ドン臭えな。いいか、全員アグノーが見えないかぎり、この訓練がずっと続くからな。覚悟しとけよ」
館野は吐き捨てるようにつぶやき、射撃場から出て行った。
「あの野郎、絶対ぶっ殺してやる」
森山がつぶやいた。浜口は喋る気力もなく、床に倒れていた。息をしているので、死んでいないことだけわかる。
「どうしてヌシと由衣は見えたんだよ」
俊の問いかけに、ヌシは首をかしげながらも答えた。
「きっとあたしたち、アグノーを使ってあやとりをしていたからだと思う。あれをやると、アグノーを立体的に使わないといけないでしょ。だから、アグノーを把握する力が自然と付いていたんだと思う」
どうにか歩けるようになった俊と浜口は、起き上がり、階段を降りた。全身がひどく痛むものの、骨は折れていないようだった。
いっそ殺してくれればよかったのに。どれもこれも、JSになっちまったからなんだ。怒りが湧き起こり、再び涙がこみ上げてくる。
隣には、俊よりもひどいダメージを受けている男がいた。浜口だ。彼は意識を取り戻してから、ずっとしゃくり上げるように泣いていた。
「もう、こんなの嫌だよ……。やめにしてほしいよ」
最初はヌシや森山が、反論したり慰めていたりしていた。しかし、浜口の耳に入っていないらしく、ずっと同じ言葉を繰り返すだけだった。みんなも疲れきっていたので、いちいち反応するのはやめてしまった。
浜口はつぶやくことによって、ようやく心のバランスを保っていられたのだ。
だが、それに気づいたのはもっと後のことだった。
翌日も俊たちはマイクロバスに乗せられて、射撃場へ連れて行かれた。最初に訓練を受けたのは俊だった。
まだ体が痛むというのに、館野は昨日の言葉通り容赦しなかった。いきなり正面から殴り倒された。起き上がったところを掴まれ、放り投げられて壁へ激突した。痛む場所へ更に衝撃が加えられて、思わず悲鳴を上げる。
「俊、しっかりして、アグノーは必ず見えてくるわ」
朦朧とし始めた思考に、ヌシの声が響き、意識を振り絞って館野を見た。
館野の周囲を、何かが覆っているのが見えた。
ぼんやりと発光し、一定のリズムで揺らいでいる。宗教画に描かれる、オーラのようだった。
もしかして、これがアグノーなのか。
光の輪が変化し、ものすごいスピードで向かってきた。俊は避けきれず、まともに食らった。
はじかれて、壁にたたきつけられる。強烈な衝撃と痛みが走るが、さっきまでの不安と戸惑いはなかった。
体を起こすと、光が目の前に迫ってきていた。
見える。見えるぞ。
体を反らす。
直撃は免れ、横にはじかれた。
「ようやく見えてきたようだな」
今度は巨大な棒になったアグノーがしなり、右から襲いかかってくる。倒れ込み、それを避ける。
間髪を置かず、目前にアグノーが迫っていた。俊は避ける間もなく、壁とアグノーに押しつぶされていた。圧迫されて息ができなくなり、視界いっぱいに火花が飛び散る。意識が飛んでいった。
目を開けると、横で浜口が倒れているのが目に入った。痛む体を起こして、反対方向を見た。ヌシと由衣、森山が、疲れ切った顔で体育座りをしている。他には誰もいない。
「館野はどうしたんだ」
「塚原から呼び出しを受けて出てったよ。なんでも東京で規格外JS患者が発見されたんで、取締に向かったらしい」
「今日の訓練はこれで終了なのか」
「ああ、浜口が起きたらバスを呼ぼう」
俊は緊張がほぐれていくのを感じながら、再び床へ寝そべった。背中へ、コンクリートの冷気が浸透していった。ぼんやりと天井を見つめながらつぶやく。
「誰もいないなら、今のうちにみんなで逃げちゃおうよ」
「ばれずに公海まで逃げられるならな。携帯がつながる場所なら、塚原はここを破裂させられる」
森山は自分の左胸を叩いた。
「て言うか、一時間電波の届かないところにいたら、自動的に爆発するのよ。〈ハンドブック〉に全部書いてあったでしょ」
「やっぱりだめか」
俊は大きく息を吐いた。
「俺たち、どうしてこんな力を持っちゃったんだろう」
「山原は、神様からのギフトだとか言ってたっけな」
「そうそう」 ヌシが思い出したように、乾いた微笑みを浮かべた。「今考えれば、皮肉な話よね。自分がアグノーで殺されちゃっんだから」
山原の柔和な笑顔が思い出されてきた。
家族との面会で荒れたあの日、必死でなだめてくれた姿が、ひどく遠い日に思えてくる。
「あいつに言いたいよ。こんなもん、ギフトなんかじゃない。呪いだってさ。神様からの呪いなんだ」
「呪い?」
「そう、呪いさ。俺たちは呪われているんだよ。こんな力がなければ、俺たち普通に暮らしていけたんだし、社会も混乱しなかった。山原がギフトだなんて言ったのは、単なるファンタジーさ」
森山のつぶやき自体が、呪詛のように聞こえてならなかった。




