第2部 血まみれの愛 9
妙子はビルに設置された大型モニターで放送されている国会中継を、他の見物人とともに注視していた。
モニターには参議院本会議場が映し出され、国会議員たちが万歳をしていた。下のテロップに、〈改正ヤフノフスキ保護法は可決されました〉と表示されていた。
人々の反応は様々だった。あからさまに喜びの声を上げる若者、あんなの全員殺しちまえばいいんだよとつぶやく男、ちらりと画面を見て、足早に歩いて行く女性。この結果を悪いと思っているのは、この中で私くらいなんだろうと妙子は思う。
しかし、事件が起きてわずか三週間で法案が提出され、一ヶ月の審議で可決とは、あまりに早すぎる。妙子は法案の作成を主導したであろう朝倉の姿を思い浮かべた。
あの人のことだから、事件が起きる前からこの法案をあらかじめ用意していたのだろう。ただ、それを根回しさせて、異例のスピードで可決させるような能力までは持っていないはずだ。ここまでできるには、政府が一体となって行わなければ不可能だ。
モニターの画面が自動車の広告に変わり、見ていた人々が散らばりだした。妙子も発散しようのない焦燥感を抱きながら、自宅へ帰るため駅へ向かった。
途中、近道になるので大通りから狭い道へ入った。前には若い女性が一人歩いており、反対側から眼鏡にスーツ姿の中年男が向かってきていた。
女性と男がすれ違おうとしたときだ。男は女性に右の拳を振り上げ、殴りかかる仕草をした。女性は小さく悲鳴を上げてのけぞる。それを見た男はフンと鼻を鳴らし、再び歩き出した。無言で睨みつける女性を無視して、男が歩いてくる。妙子は警戒しながらすれ違ったが、関心ないらしく、そのまま歩き去って行った。
「〈JSを見分ける十の方法〉というのをご存じないですか」
背後から不意に声を掛けられ、妙子は反射的に振り向いた。
痩せて長身の男が立っていた。柔らかなシルエットのスーツとノーネクタイ、短く刈った髪にあごひげを生やしている。線を引いたような細い目は、怪しげな笑みを浮かべていた。
「詐欺師が書いたデマ本ですが、案外売れているんですよ。あの男がやったのは、その中に書いてある見分け方の一つです。なんでも、JS患者へ殴る振りをすれば、反射的にアグノーを出すんで、JSなのがわかると言うんですね。大桑さんから見ればお笑い草かも知れませんが、信じている人も多いんですよ」
「あの……失礼ですが、どなた様でしょうか」
「これは申し遅れまして申し訳ありません。私、〈月刊リアルカルチャー〉で記事を書いている矢阪と申します。亡くなったご主人には、懇意にさせていただきました」
差し出された名刺と、矢阪の顔を交互に見る。不審げな顔をしているのが自分でもわかるが、矢阪は気にしていない様子だ。
「で、私になにかご用でも」
「お急ぎでしょうから、歩きながら話しましょう」
矢阪が歩き出したので、妙子もつられて歩き出す。
「今日はどんなご用でこちらへいらっしゃったのですか」
「それ、あなたに話す必要があるんですか」
「全然ございません。ただ、さっき大桑さんと会食していました黒木さんですか。あの方とどんな話をしていたか興味がありましてね」
妙子の足が止まった。「どうして私が黒木さんと会っていたのを知っているんですか」
「たまたま私もあのレストランで食事をしていましてね。ふふ。そんなに不審そうな目で見ないで下さいよ。さあ、行きましょう」
二人は再び歩き出した。一体この男は何者なんだと妙子は思う。偶然あのレストランに居合わせただなんて、あまりに見え透いた嘘をつく。
「これはあくまでも私の推測なんですが、大桑さんは黒木さんへ就職の斡旋をしてもらうよう依頼していた。しかし、体良く断られてしまった」
妙子はあまりの空々しさに、怒りを越えて苦笑いを浮かべた。同時に、これが彼のテクニックなんだと思う。ストレートに自分が監視されていたことを告げられていたら、もっと反発していたに違いない。いつの間にか、自分が矢阪のペースに引き込まれているのを感じていた。
「黒木さんは例の研究所で総務部長をしていた人ですから、それなりに人脈もある。しかし、今は文科省管轄の公益法人で理事を務めている身ですから、正直言ってそれほど影響力はない。しかも斡旋の相手が大桑さんだ。例の研究所へ就職なんて無理でしょう。違いますか?」
「その通りですわ。あっさり断られました」
妙子は素直に認めた。別に隠すほど重要な情報ではない。
「どうしてそんなにも研究所へ入りたがっているんですか」
「中にいる子供たちが心配なんです。少しでも役に立てるのではないかと思いまして」
「本当にそれだけなんでしょうかねえ」
「それ、どういう意味ですか」
矢阪は意味ありげな笑いを浮かべた。
「まあいいでしょう。私の提携先なら大桑さんを関係先へ就職させるのは可能かもしれません。JS絡みで医師を一人捜しているというのです。大桑さんは医師免許をお持ちだ。よろしければ当たらせてもらいますが、いかがです?」
「どうして私なんかに手間を取らせるんですか」
「就職できたら、職場で起きた出来事について色々お話をお聞かせ願いたいのです」
「スパイというわけですか」
矢阪は苦笑いを浮かべる。
「単なる情報提供ですよ。もう一つありまして、ご主人が遺された資料がごさいますね。あれを精査させていただけると助かります」
妙子は思わず肩をすくめた。
「一体、何を知りたいの」
「詳しいことはわかりません。ただ、生前の山原さんの行動に関して不明な点がありまして、調べさせていただきたいのです」
「私からも条件を付けさせてもらってもいいかしら。あなたの提携先を教えてほしいの」
「もちろん〈月刊リアルカルチャー〉編集部ですよ」
「嘘でしょ、月刊誌が官庁へ就職を斡旋できるほど融通が利くなら、あたしもこれほど苦労しないわ」
矢阪はわざとらしく声を上げて笑った。
「私としては〈月刊リアルカルチャー〉としか言いようがないのですよ。これ以上詮索するようでしたら、この話はなかったことにしていただきたい」
「少し、考えさせてください」
「わかりました。ただ、それほど待っていられる時間もありません。来週のどこかで、私どもから接触させていただきます。そのとき返事をいただければと思います」
矢阪は軽く会釈をして足を速めていった。
あの男のバックには、どんな組織がいるのだろうか。
妙子は男の後ろ姿を見ながら、自分が何か巨大な力に絡め取られたような気がして、急に不安を感じ始めていた。




