第14話 儀式の前に(2)
「リリア様……?」
何が起こったかわからず、ミモザは目を見開いた。
リリアの笑顔が、ろうそくの火のようにすっと消え、代わりに柳眉を逆立てた。
「私ね、ミモザ様の事、とってもとっても、嫌いだったの」
これまでいろんな人に影口や悪口は言われてきたが、ここまで面と向かって、嫌いと言われたのは初めてで、どう反応していいか、わからない。
「だってミモザ様って、努力も一切せずに、なーんでも手に入れちゃうんだもの」
嫌悪を隠さずそう告げるリリアは、ひどく冷たい目をしていた。
「私、小さい頃からたくさん勉強したの。もっと爵位の高い男性と結婚するために、勉強だけでなく、貴族令嬢として大切なマナーや、自分に似合うメイク、人間関係。あらゆる努力をしたわ。男爵家という爵位にコンプレックスがあったのね。貴族と言えど、一番下の爵位だから、いつでも下に見られてきたわ。だから、いつか侯爵家と結婚して見せるって夢見てた」
そんなときに、リリアは父親に連れられたワートル家で、ミモザに会ったのだという。
「初めて会った日、ミモザ様、全身を泥だらけにしながら、土いじりに没頭されていたわ。きれいなドレスが汚れているのもいとわずに。侯爵令嬢とは思えない姿だったわ。そのときね、ミモザ様のお父上が笑ってお話されたの。『茶会や社交界のお誘いがたくさん来るのだけど、どれも行きたがらない』って」
確かにミモザは小さい頃から、お茶会や社交界の誘いをどれも断ってきた。
そういった行事に参加するようになったのはフランシス家に嫁いでからだ。
「私はこんなに努力して貴族令嬢でいようと努力しているのに、貴族としての誇りも持たず、ただ土をいじっているあなたに心底腹が立ったの。だから、あなたの眼の前で、育てている百合の花を一つちぎったの。覚えているかしら?」
まったく覚えがなく、いつの事だろうと考えていると、目の前のリリアが苦笑した。
「覚えてないのね。そうよね、あなたにとってはそれくらいの事なのよ。百合の花をちぎったあと、それを見た父様にとっても怒られてしまったの。私が怒られているとき、あなたは『わざとじゃないから大丈夫ですわ』って優しく微笑んでくれたわ。そしてその花を私の耳にかけてくれた。ちょうど今日のようにね」
リリアは、左耳にある百合を触った。
「屈辱だったわ」
短いけれどとても重い言葉が、ミモザの鼓膜を嫌に揺らす。
「あなたは私を下に見てたのよ。だから施したのでしょう? 私、あの日から、あの時から、あの瞬間から、ミモザ様のことが大嫌いになったわ。でももっと嫌いになったのは、あなたの結婚を聞いた日かな。お相手は次期侯爵様ですって? 怒りを通り越して笑いが出たわ。なんで努力も何もしてないあなたが、侯爵夫人になれるの。そんなことあっていいの? だめよ。だから私は努力したの」
そう言うとリリアは一歩ミモザに近づいて、耳元で囁くように呟いた。
「あなたの嘘の噂をた~くさん流す努力をしたの」
何を言われているか、わからない。
リリアの甲高い笑い声がミモザの耳朶を打つ。
「あなたの落ち込む姿を見たくて、泣きわめく姿を見たくて、いろんな噂を流したわ。そのうち噂には尾ひれはひれがついていったわ。あなたが植物を愛しているのは魔女だから、とか、もう可笑しくて仕方なかったわ。植物姫って陰で呼ぶように仕向けたのも、私。でも、あなた全然へこたれないんだもの」
「だから私、もっと酷いことしたの」
リリアは、まるでいたずらをした子供のように無邪気に笑う。笑うたびに、手に持っているグラスのワインが波打つ。
「ねぇ、ミモザ様。なんであなたがアデス様に愛されなかったか、わかる?」
とても楽しそうに話すリリアを、ミモザは何も言えないまま、ただ見つめる。
「わからないわよね。だってあなたには何の覚えもないんだからね。ふふっ、あなたがアデス様に愛されなかったのは、私がアデス様に、ミモザ様のことをたくさん話したからよ。例えば、ミモザ様はアデス様を裏で馬鹿侯爵とよんでいる、とか、ミモザ様は感情のないサイコパスで、ご令嬢をたくさんいじめているとか。全部嘘だけど、全部信じてくれたわ」
リリアはきれいな白い歯を見せて笑うと、ミモザの顔を覗き込むように顔を傾けた。
「ねぇ、ミモザ様。悲しい? 悔しい? 泣いていいのよ。私、あなたのその笑顔が崩れるところが見たいの」
ふと、あの頃を思い出した。結婚した当初は歩み寄ってくれようとしていたアデスの態度が、いつの日からか、急に変わった。
ミモザを見る目が冷たく、鋭くなった。朝食を一緒に囲むことがなくなり、寝室が別になり、会話がなくなった。
あれは自分のせいだと思っていたが、ああそうか。違ったのか。
「……は、……なら」
声がかすれてしまう。
「なんて?」
喉が張り付いてうまく声が出せないミモザに、リリアが少し苛立って聞き返す。
ミモザは唾をごくりと飲み込み、ゆっくりと顔を上げリリアをまっすぐ見すえた。
「私は、リリア様が今幸せなら、それでもう満足ですわ」
力強く放った言葉に、リリアの顔がぐわっと歪む。けれどミモザはひるまずに言葉を続けた。
「私、離婚したことでたくさんのことを学びました。いろんなことを知れました。離婚も今となってはいい経験ですわ」
離婚して、庭師として王城で働くようになって、初めて人を愛することがどういうことかを知った。それはきっと、あの離婚がなければ得ることができなかっただろう。
リリアのしたことは倫理的には褒められることでない。けれど、ミモザはそれを責めはしない。だって、リリアがいなければ、ミモザが庭師として働くことも、そして、ロウィに会うこともなかったのだ。
それに、確かにアデスに嘘を教えたのはリリアかもしれないが、それを信じたのはアデス自身だ。
アデスはミモザよりもリリアを信じたのだ。ミモザに確認もせず、リリアを無条件で信じている時点で、もう夫婦としては終わっていたのだろう。
きっかけはリリアだったかもしれない。けれど、それはあくまできっかけなだけで、遅かれ早かれ私たちはきっと終わっていた。
「だから、リリア様。もう私にとらわれるのはやめて。あなたはあなたの人生を送って」
ミモザは両の手で、リリアの左手を包むように触れた。
「あなたは私のことが嫌いでも、私はリリア様のこと、嫌いじゃないわ。だって、お茶会で誰もが私と口をきいてくれなかったとき、あなただけは私と話をしてくれた。あの優しさに私がどれだけ救われたかーー」
「馬鹿にしないで!」
ミモザの言葉を最後まで聞く前に、リリアが手を振りはらった。
「私の事、馬鹿にしてるんでしょ。だからそんな風に余裕なのよ。いつまでも自分が偉いと思わないほうがいいわ。今、私は次期侯爵の夫人。一方あなたはただの使用人。どちらが信用されると思う?」
そう言うと、リリアは持っていたワイングラスをゆっくり傾け、自分のドレスに垂らした。
真っ白の、百合のようなドレスに、どくどくと深い赤色のワインが染み込んでいく。
リリアはにこりと穏やかな笑顔を見せたあと、息を思いっきり吸い込んで吐いた。
「きゃあ! ミモザ様、やめてくださいませ!」
リリアの手から離れたワイングラスがパリンと床に落ちる音と共に、リリアの叫び声が、大広間まで轟いた。
何事かと、人が続々とバルコニーに集まる。人々の眼は好奇に満ちていて、その先には、肩を小刻みに震わせしゃがみ込むリリアと、リリアを見下ろすように立っているミモザがいる。
誰も何があったかは聞かないのは、誰がどう見ても状況が一目瞭然だったからだろう。
「ちょっとすみません、通してください」
人ごみをかき分ける男の声が聞こえた。聞き覚えのあるその声が徐々に近づいてきて、ミモザとリリアを前に歩みを止めた。
「一体何をしているんだ!」
怒気を孕んだその声の主はミモザをねめつけると、リリアに駆け寄った。
「リリア、大丈夫か。怖かっただろう。一人にしてしまって済まない」
そこにいたのは、ミモザの元夫で、リリアの現在の夫であるアデスだった。
リリアを大切そうに抱くアデスは、リリアを見上げて、きっと睨んだ。
「ミモザ。君は離婚してもなお、彼女のことをいじめているのか。君が裏で彼女にした仕打ちは全部知っている。彼女は優しいから、君にそのことを責めるのはやめてくれと言ったが、今日という今日は許せないぞ」
そう言うとアデスは立ち上がり、ミモザの腕を掴んだ。
「君を警備隊に引き渡す。これまでのリリアへのいじめ、そして暴行もすべて話し、牢に入れてもらう」
一体これまで自分はどんなことをリリアにしたことになっているのだろう。これまでだったら、それすらも受け入れていたかもしれない。自分なんて、と卑下していたかもしれない。けれど、今日だけは勇気を持つとマーガレットと約束したのだ。やってもない罪で牢屋に入れられるなんて、本当は御免だ。
「離してください! 誤解があるようです」
しっかりと声を張るが、ミモザを掴むアデスの手は緩まることはない。
ミモザが振りほどこうとすればするほど、アデスは一層ミモザの腕を強く握る。ぐっと力を入れられた時、アデスの爪がミモザの肌にめり込み、痛みが走った。
「痛っ。旦那様、お願いです。話を聞いてください!」
「旦那様と呼ぶな! 私はお前の夫ではない。お前と結婚していたのは、私の人生において、最大の汚点だ!」
そう言うと、アデスはミモザの腕をグッと力任せに引っ張り、無理やりに警備隊のもとへ連れて行こうとした。あまりに強く腕をひかれたので、体勢が崩れそうになる。
その時、黒い外套がばさっと、音を出してミモザの前に立ちはだかった。背中越しで顔は見えなかったし、腰まであった銀髪は短く切られていたが、それが誰の背中か、ミモザには一瞬で分かった。風がふわりと吹き、懐かしいキンモクセイの香りが漂う。
「ロウィ様……」
そこには、黒い外套を身に着けたロウィがいた。
「離してください」
ロウィはアデスの腕をつかむと、低く鋭い声でそう言った。
「誰だお前は」
長身のロウィに凄まれて怯んだのか、ミモザの腕をつかむアデスの手が少しだけ和らぐ。めり込んでいた爪が少しだけ浮いて、ミモザは眉間の皺を少し解いた。
「ミモザの……同僚です」
「同僚……? ふっ、ということはお前も庭師か。俺は次期侯爵だぞ。庭師風情が口を出すな」
アデスはロウィに軽侮の視線を向けると、再度ミモザの腕を強くつかんだ。前よりも深く、爪がミモザの肌を抉る。あまりの激痛にミモザは顔を歪めた。
その時、ロウィが声を放った。
「離せ、と言ったはずだ」
怒りが滲んでいる、重く、圧のある声だった。
アデスの腕をつかむロウィの腕は青筋が張って、怒りで震えていた。
アデスの腕からピキッという骨の音が聞こえたとき、アデスがミモザの腕を離し、ロウィの腕を振り払った。
「お前、俺にこんなことして、どうなるか分かっているのか!」
アデスの叫び声は、バルコニーだけでなく、大広間にまで響く。会場はしんと静まり返り、多くの人たちがミモザたちに視線を向けている。
怒り心頭なアデスと対照に、ロウィはいたって冷静に見えた。
「僕はミモザとリリア嬢の様子を、一部始終見ていましが、彼女にワインをかけたのは、ミモザではなく、彼女自身です」
ロウィの言葉に、人々がざわつく。アデスは焦ったように一層声を張り上げた。
「な、なに言ってるんだ! 出鱈目を言うな! この女がやったに決まっているんだ!」
アデスはミモザを指さして睨みつけた。
「この女はな、これまでもいろんなことをしてきたんだ!」
一体どんな嘘を彼女に言われていたのだろう。
そしてなぜ彼はそれを信じてしまったのだろう。
もっと話し合いができていれば。そうすれば誤解することもなかっただろうか。
今となっては、全部机上の空論でしかないけれど。
ロウィは、ミモザに対して向けられたアデスの人差し指をぐっと折るように握り潰すと
「あなたは彼女と三年も一緒に暮らしていたのに、彼女のことを何も知ろうとしなかったのですね」
と憐憫の目を向けた。
アデスの顔が、屈辱で歪む。
ロウィの言葉の直後、大広間から華やかなファンファーレが聞こえた。
「王様が来られるぞ」
「早く大広間に戻ろう」
やじ馬だった貴族たちは、バルコニーに背を向け、ぞろぞろと大広間に戻っていく。
一触即発と睨み合うロウィとアデスは互いに目を背けない。
「今からローワン王子の成人の儀が始まるから、一時休戦とするが、お前の顔は絶対に忘れないからな。儀式が終わったら覚えておけよ。逃げたら承知しない」
「ええ。私も、あなたの顔を忘れません。あなたも私の顔を忘れないでくださいね、絶対に」
ロウィは、「絶対に」と語尾に力を入れると、冷たく微笑む。
アデスは倒れ込むリリアを抱き、大広間に戻っていった。
やじ馬たちの隙間を抜けて、マーガレットがミモザに駆け寄る。
「ミモザ様、大丈夫ですか」
ひどく狼狽した様子のマーガレットは、ミモザの腕を見て、一層表情を曇らせた。
「こんなにひどい傷……今すぐ手当をしましょう」
腕には皮膚を抉った爪痕がいくつもあって、中から血が滲んでいる。けれど、不思議と痛くはなかった。
だって、ロウィが助けてくれたから。ロウィにまた会えたから。
せりあがった感情が喉に引っかかって、うまく言葉が出てこない。
ミモザは、マーガレットに大丈夫と伝えると、ロウィを見つめた。
「ロウィ様……。なんでここに」
名前を呼ばれたロウィは、面映ゆそうに振り返る。深紅の瞳が悲しそうに揺れていた。
「ミモザ……。実は――」
そうロウィが何か言いかけたとき、後ろからベイルが必死の形相でロウィに向かって走ってきた。
「全くあなたという人は。急いでください。時間がありませんよ」
「ベイル、ちょっと待ってくれ。今ミモザと――」
「待てません。早くいきますよ」
ベイルはそう言うと、ロウィの手を引っ張って行く。
せっかく久しぶりに会えたのに、このままの別れでは嫌で、ミモザが一歩踏み出し声を出そうとしたとき、ロウィが先に口を開いた。
「ミモザ!後で……後で話があるんだ! 成人の儀が終わってから、温室で待ってる……!」
それだけ言うと、ロウィはベイルに連れられて、人ごみの中に消えて行ってしまった。
ロウィの話とは何のことだろう。
もしかしたら、仕事で何かやり残したことがあるのかもしれない。引継ぎもなく、急な退職だったので、ロウィも気になっていたのかも。
どんな話だとしても、もう一度ロウィと話せることが嬉しい。
そして、ミモザもロウィに話がある。
たとえロウィにもうすでに美人の婚約者がいても、たとえロウィが自分を好きではなくても。この想いを伝えたいのだ。
はやる気持ちを抑えながら、ミモザはそう、覚悟を決めた。




