陸の3 鍵穴にKURE(クレ)5-56
時計の針を十年ほど巻き戻す。
玄関扉の鍵の「回り」が悪いことに気づいた。鍵を挿して回そうとすると、鍵穴内部でなにかが引っかかる。シリンダー錠に問題があることは明らかだ。
回りは日を追って悪化する。そのうち完全に回らなくなり、施錠、解錠ができなくなるだろう。
URの賃貸住宅は、ふすまなど建具や電気周りなど備品に規格品を採用し、使い回している。だから、新たに入居しても、そこが新築物件で第一号の入居というような状況でもない限り、錠前が新品だとは限らない。ただ、同じ部屋のお古を次の入居者にも引き継がせると合い鍵を使った犯罪を誘発する原因になるから、別のどこかで、退去などなんらかの理由で使わなくなった、使えなくなった物を見繕ってきて取り付ける。
入居してそう歳月が経たないのに問題が発生したシリンダー錠は、どこかで使われていたゆえその期間を加え耐用年数を過ぎたのだろうと、当時のおれは思った。
だから、二号棟一階の団地管理サービス事務所に、修理か取り替えを依頼しに行った。常勤する女性職員は、おれの入居時の二人とは替わっている。
鍵穴が回らないのだと訴えたおれの目の前に、女性職員は、スプレー缶を差し出した。米国発祥で国内メーカーが製造する潤滑剤「KURE 5-56」だ。
「これでどうしろと?」
「あれ? 使い方が分かりません? これは『KURE 5-56』という潤滑油で、動きが悪い機械にさします」
「鍵穴に、そんなことしていいの?」
「はあ? 回りが悪いんでしょ? このノズルで、シュッてさしてください」
建物でも金庫でも車でも南京錠でも、鍵穴への潤滑油、例えば「KURE 5-56」の使用は厳禁だ。潤滑剤がほこりを付着させため込み、一時的に回復したとしても、かえって状態を悪化させてしまう。取り扱い説明書にも記されているはず。
だから、鍵穴への使用は、内部に子どもが取り残されたとかの緊急事態での救出や、使用後には廃棄処分にすることが決まっている場合くらいしか想定されていない。そういう理由から、警察官による職務質問でこの道具を所携しているのが見つかると、錠前破りが疑われる。
しかし、そんなことを女性従業員に言っても理解するまい。なにしろ彼女は、世界的にメジャーなこの商品を、おれが知らないとでも誤認しているのだ。
スプレー缶とそれ専用であろう細いノズルを受け取り、部屋に戻った。取り換えに応じてもらえず今後も引き続き使わされるかもしれないから、鍵穴内部を油まみれにするのを避けるため、まず鍵穴ではなく、鍵の方に、ノズルを使わず薄くスプレーした。鍵穴に挿す前に、ぼろ布で鍵の油を軽く拭った。そして、鍵穴に差し込む。やはりスムーズに回らない。
もう一度、鍵にスプレーした。最初より濃い目にだ。今度は拭わなかった。鍵穴に差し込む。スムーズに回らない。
女性職員が言うように、ノズルを装着し、鍵穴に挿すように押し当てた。
「ええい、ままよ」
どうにでもなれという意味の古語が、スプレーしながら口をついて出た。もうこのシリンダー錠は、使い物にならない。たとえ鍵穴の作動が回復してもだ。
幸いなことに、鍵穴は回らない。「KURE 5-56」の禁忌を知らない女性職員から言われるであろうことを予測して、ノズルで鍵穴にスプレーし、鍵を差し込み、の作業を繰り返した。抜いた鍵から、粘っこい潤滑油がしたたり落ちる。鍵穴からも垂れている。
管理サービス事務所に再び向かった。
「たっぷりスプレーしました? なんども繰り返しました?」
スプレー缶とノズルを受け取りながら女性職員は、予想通りのことを、面倒くさそうに言う。そして、やはり面倒くさそうに、鍵の交換のための申請用紙を出してきて、必要事項を記入するようおれに命じた。
翌日ごろ、UR関連事業所の作業員の男が、鍵の交換に来訪した。女性職員が不機嫌そうだったからUR側の負担で取り替えるのかと思ったら、一万円ほどの費用を請求された。
鍵穴が回らなくなるのは、この一度だけではない。記憶の限り、三回、交換している。その三度目に発生したUR側による凶悪・重大な、理解に苦しむ事件については、詳細を後述する。
本来の用途として使わず、もっぱら訪問者に配慮し密室を作出しないため開いて扉と枠の間に挟み込む、警視庁町田署生活安全課員二人組が奇襲してきた際にもそうした、防犯用金具のU字型ドアガードが損傷した。本来とは異なる用途で酷使したせいかもしれない。正常に開閉できなくなった。ねじが緩んでいるようだからドライバーでナットを締め付けようとしたら、パーツがいくつか音を立て外れ落下し、そのうちの細かいいくつかは行方が分からなくなった。
団地管理サービス事務所に、修理か取り換えを求めに行った。
ところが今度は、女性職員が、「防犯用金具のU字型ドアガード」が分からない。
「これですよね?」
彼女がなにかのファイルを開いておれに見せた図面は、扉が急激に閉まらぬようその上部に枠との間に取り付ける、アーム状の「ドアクローザー」だ。
「いや、そうじゃなくて、かつては鎖式が一般的だった、扉と枠をつないで一定角度しか開かないようにする、U字型の装置。ノブより少し高い位置にあるやつ」
「ご自身で取り付けた装置は、ご自身で修理なり交換なりしていただかないと」
「ぼくが入居した時には、あの装置はすでにあったんだよ。前の住人が取り付けたってこと?」
「そういうものは全部、取り外して引き渡しますから、前の方が残していったものではありません」
「じゃあ、この団地の備品として最初から付いてたものじゃないか」
「いいえ。そんなものはついてません。ほら」
同じファイルの、扉内側の全面が映る写真を、彼女は示す。確かにドアクローザーは映っているが、U字型ドアガードは映っていない。
「ちょっとぼくの部屋まで見に来なよ」
「行きません」
「なぜ?」
「行く必要がないから」
「なぜ必要がないの?」
「ご自身で設置した物は、ご自身で責任を持ってください。そんな物をわたしたちが見ても、なんの意味もありません」
「これじゃない?」
口論している間に、もう一人の女性職員が奥で、すっとんきょうな声を上げた。口論相手の職員が振り返り、すっとんきょうな声の主の手元に寄って行ってファイルに見入る。
「そのファイルを見せろ」
おれの要求に、二人とも応じない。
「内部で確認します」
口論相手は言う。
「内部ってどこ?」
「URの『神奈川西住まいセンター』です」
「なにを確認するんだ?」
「その『ユージガタドアガード』が実在するかどうか」
「だって、そのファイルに載ってるんだろ?」
「……」
「あんたが『存在しない』と主張してた物が、実際は存在してたんだろ?」
「……」
「ぼくが勝手に付けた物じゃないって分かったろ?」
「……」
女性職員は二人とも、なにもしゃべらなくなった。
「なんとか言えよ」
「……」
翌日ごろ、UR関連事業所の作業員を名乗る男から電話があり、その日のうちに、URの規格品であるU字型ドアガードを交換に来た。
(「陸の4 お客様にご注意申し上げます」に続く)




