弐拾壱の3 夏川夏子(なつかわなつこ)、里中智(さとなかさとる)
裁判所の窓口で、私服警察官が、なにかの書類を裁判所職員に手渡し、おれには一枚ペラの紙を渡す。
《起訴状》
新聞記者時代に散々、眼にした書式だ。初期のころは、B4版で横置き縦書きだった。世界標準に合わせ平成十年ごろ、A4版縦置き横書きに変わった。
おれが受け取った、検事、大竹将之の署名がある、被告人欄におれの本籍地、現住所、職業、氏名、生年月日が活字で打ち込まれたその起訴状も、A4版縦置き横書きだ。
《公訴事実
被告人は、令和5年2月3日午後0時58分頃、横浜市青葉区奈良町1670番地224株式会社スーパー三和奈良北店内レジカウンター前において、同レジカウンター内で接客業務等を行っていた同店従業員穂積恵美(当時52歳)に対し、商品が入った買い物かごを2回手でたたいて、同買い物かごを同レジカウンターから落下させるとともに、同商品を同レジカウンター上等に散乱させた上、同レジカウンターを足で一回蹴り付けるなどし、同人らにその応対や同店内の原状回復等の対応を余儀なくさせ、同人らの正常な業務の遂行に支障を生じさせ、もって威力を用いて他人の業務を妨害したものである。
罪名及び罰条
威力業務妨害 刑法234条》
レジ係店員は、漢字《穂積》を通常に読めばやはり、「ほずみ」ではなく「ほづみ」。名前の《恵美》は、読みが「えみ」か「めぐみ」か分からない。
当時五十二歳という年齢は、対峙した際には、もう少し若く感じられた。しかし、いずれにしろ更年期を経ている。
「ほづみえみ」だとしても「ほづみめぐみ」だとしても、婚姻などにより姓が変わったのだろうと想像した。「み」が重複しているからだ。
出生時に姓の一部を名に重ねて付けるとは考えにくい。せっかく五十音ある日本語の仮名を、命名で十分に生かし切れていない。
しかも、姓一字目の《穂》から部首の「のぎへん」を取ると、そのまま名一字目の《恵》になるのも不自然。
漫画家、水島新司(一九三九ー二〇二二)のテレビアニメ化、実写映画化された代表作『ドカベン』に、夏川夏子という女性が登場する。読みである仮名表記だけでなく、「夏」の漢字も、姓と名で重複している。
同じ作品に、里中智という男が登場する。読みの「さと」が重複する。
女性の容姿を描くのが苦手だったキャリア初期の水島が、一九七三(昭和四十八)年のおれの誕生日をタイトルにした作品を描いた同業者の里中満智子(一九四八ー)に作画を手伝ってもらっていた縁から、この登場人物の命名に当たり、里中のフルネームの一部を借用したという。
熱血スポーツ根性ものの一種であるこの野球漫画で水島は、登場人物の命名がずさんではないか、いい加減だったのではないかと感じられる例がいくつもある。
高校野球部監督は、江戸幕府を開いた歴史上の人物と同じ、徳川家康。実写映画版で水島は、徳川役で自ら出演している。
そして、主人公の山田太郎。あまりにもありふれたフルネームだ。官庁や金融機関などに提出する用紙の記入例で、この名前がよく使われる。女性の場合、山田花子である場合が多い。
英米圏では、ジョン・スミス、ジェーン・スミスがこれらに該当し、偽名やコードネームとして、あるいは匿名を名乗る際や、身元不明の遺体を指す際に使用される。ブラッド・ピット(一九六三ー)、アンジェリーナ・ジョリー(一九七五ー)が、双方とも暗殺者である影の仕事をお互いに知らぬ夫婦を演じる米国映画『Mr.&Mrs. スミス』(二〇〇五)は、このことが、テーマや役名、タイトルの背景だ。
しかし、関連取材を進めていくうちに、日本語の読み、つまり仮名表記を姓と名で重複させるケースは現実世界でも決して珍しくないことを知った。
例えばシンガーソングライター、あいみょん(一九九五ー)の、積極的には開示されていない出生名がそうだ。
裁判所窓口の外の廊下に簡素ないすとテーブルがあって、そこに座って待つように言われ、両手錠をはめられたまま起訴状を何度も読み返した。
しばらくして付き添いの私服警察官が裁判所職員から書類のようなものを受け取り、そのうちの一枚をおれに示した。
「名前を確認しろ。間違いないな」
起訴状と同じA4版縦置き横書きだ。
《略式命令》
用紙のそのタイトルの上に、《令和5年》に続き平仮名一文字、数字三桁の事件番号が記されている。タイトルの下は、こうだ。
《被告人 森史×
本籍(国籍等)、住居、職業、生年月日及び事件名は、起訴状の記載を引用する。
上記被告事件について、次のとおり略式命令をする。
主文
被告人を罰金20万円に処する。
この罰金を完納できないときは金5,000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
ただし、端数が生じたときはこれを1日とする。
この罰金に相当する金額を借りに納付することを命ずる》
接見に来た国選弁護人、Z弁護が言う金額と異なる。検事、大竹将之が幅を持たせて言った額には、下限で収まる。
落とすといけないから預かると私服警察官は、おれが確認した二枚の用紙を取り上げ、おれをいすから立ち上がらせた。二人の制服警察官は、いつの間にか姿を消している。
そして、両手錠を外される。
「着替えてもらうから」
初めて目的と行き先を言われ、裁判所建物内のトイレに案内された。掃除が行き届いていないのか換気の問題か、悪臭がひどい。
「ここで着替えろ」
そう言って、私服警察官が担いでいた白い透明度の低い大きな袋を渡された。前の日に青葉署の留置施設で若い巡査部長と唯一の巡査が荷造りした物だ。
ところが、素材が厚手のためか結びが固いからか、自力でほどけない。
「お巡りさん、開けてくんないかな」
トイレの入り口付近にいる私服警察官に頼んでみた。
駄目だという。囚人の荷物を勝手に開けたと後で問題になるのを危惧しているのだろうとその時は思った。
「破いていい?」
これも駄目だという。
「じゃあ、開けられないよ。中身が出せない。着替えられない。今、着てるのを返却できないよ」
「しょうがねえな。上の方を少しだけだぞ」
許可をもらい破ろうとしたのだが、あまりに厚手で、おれの手では破れない。結びを解くことさえ私服警察官は手を貸せないというのだから、破ってもらうのは論外。
刃物があれば、刃物の代わりでもあれば、穴をあけられるはず。その穴を広げれば中身を取り出せる。例えば、鍵の先端とぎざぎざの部分を使う。
しかし、つい今しがたまで手錠でつながれていたおれが、鍵など持っているはずがない。家の玄関の鍵は、この厚手ポリ袋の中。鍵かなにか貸してくれ、も私服警察官には通用するまい。
悪戦苦闘の結果、結び目を少しずつ緩め開封することに成功した。
トイレ個室の便座ふたの上にポリ袋入りの荷物を置き、囚人服から、逮捕され青葉署に連行された時の服に着替えた。灰色の半袖シャツに黒い夏物スラックス、黒い革の短靴だ。着替えを見られてもどうってことはないから、個室の扉は開けたまま。
荷物の中には腕時計や携帯電話が入っていたが、まだ身柄は拘束中だとかいった思わぬトラブルに発展するのを恐れ、触れていない。
「終わりましたよ。お待たせしました」
おれがそれまで着ていた囚人服を受け取り、私服警察官は点検する。
「あれ? なんでシャツが二枚あるんだ?」
「重ね着してたんですよ。寒いから」
「なんで勝手にそんなことをするんだっ!」
「勝手に? 青葉署の留置場で、寒いって訴えったら重ね着しろって言って一枚を渡されましたけど?」
ちぇっと不満そうに舌打ちして、私服警察官は、おれが渡した囚人服一式を、畳んで準備していたなにか別の袋をどこかから持ち出し開き、それに乱暴に詰めた。
(「弐拾壱の4 水谷豊『火曜サスペンス劇場』シリーズ」に続く)




