弐拾壱の2 バスで運んでもらえない
待機室は、満員だ。座席のくぼみから五人掛け設計であろう木製ベンチ三基が、ほぼ埋まっている。フル稼働している冷房は、囚人の吐く二酸化炭素を酸素に浄化はしてくれない。
おれはベンチから腰を上げ、柵側に立った。柵越しに外の廊下をぼんやり眺めていた。
制服の警察官が頻繁に、私服の警察官がまれに廊下を往復する。検察庁内の詰め所にデスクがあってそこが本拠地の勤務員なのか、県警本部や各署から囚人を乗せたバスに添乗して来ているのか、あるいは、彼らのみでどこからか来ているのか、三通り存在するのだろうが、それぞれがどれに当てはまるのか分からない。
眺めていた先に、見覚えのある制服警察官がいるのが眼に入った。痩せていて小柄。おれがここで若く美しい清楚な「日直」女性検事に勾留請求され、隣の建物の横浜地方裁判所でそれを許可された日、マイクロバスに乗っていた、団体旅行の添乗員のような男だ。
隣り合う検察庁と裁判所の間を移動するバスの中で、運ばれる囚人はおれだけ、運転手もまだ乗っていなかったから、茶色い靴を履く際にはズボンのベルトも茶色を絞めるべきだと軽口で教示した相手の、茶色い靴なのに黒いベルトを絞めていたファッションセンスを著しく欠く野郎だ。あの日は私服だった。
この日は靴、ベルトとも黒の制服のこの男の胸の階級章を柵越しに視認しようと、おれは努めた。
階級章の上の個人識別章は、ほかの留置管理部門の勤務員同様、プレートを裏返しで挿入し、本来の英字二、数字三の五桁を隠している。五桁の代わりに、《神奈川県警察》の間抜けな文字が見える。
その下の階級章は、巡査長のものにも巡査部長のものにも見える。遠方でよく分からない。
警察官の制服の階級章は、適量に割りやすい構造の板チョコやカレールーのような、あるいは鍛え上げた腹筋のような凹凸でデザインされており、巡査長のそれは左右に凸が二つずつ、巡査部長は三つずつある。金色ではなく銀色基調だから、警部補以上ということはない。凸が左右にそれぞれ複数見えるから、巡査でもない。巡査なら、一つずつだ。
「なに見てんだよっ!」
甲高い声で団体旅行添乗員の男が近づいてきて、柵越しにおれをどう喝した。
お笑いタレント、青木さやか(一九七三-)から言われたのかと思った。彼女は、「どこ見てんのよ!」だったか。
「なにも見てないよ。外の空気を吸ってるんだよ」
おれは応じる。
団体旅行添乗員の男の階級章は、巡査長だった。近づいてきたから読み取れた。
「なんだとおっ!」
団体旅行添乗員の巡査長が怒鳴る理由は少なくとも四つある。
一つ目は、おれが彼の胸の階級章を見ていたから。
二つ目は、外の空気を吸っていたから。
三つ目は、外の空気を吸っているのだと応じたから。
四つ目は、タメ口だから。ですます調を使わないから。
「風通しが悪いんだよ。息が詰まるんだよ」
おれは動じない。
動じない理由は、青葉署を出発する際、バス車内での私服勤務員の横暴に嫌気が差し、彼らへの対応などどうでもよくなっていたから。そして、この日で勾留期限が切れるという安堵感と、別のどこかに身柄を拘束されるかもしれないという投げやりな気持ちがあったから。
地検に到着してバスを降ろされ、なんの識別方法もない白い半透明の袋を示され自分の物かと聴かれた際と同じだ。
「てめえ、どういう目に遭うことになるか、分かってんだろうな」
「きみもどういう目に遭うことになるか、分かってる? 想像できる? 想像してみなよ」
団体旅行添乗員の巡査長が感情的になる五つ目の理由が分かった。彼は、靴の色とベルトの色のアンバランスをおれが指摘したことを覚えている。おれから指摘されたことを覚えていて、根に持っている。あの時のおれだと認識している。
そして、甲高い声に、かすかな既視感を覚えた。
ーーこいつ、わざとやってるんだよ!ーー
二度目にここに来て検事、鈴木陽子の調べを受け青葉署に戻るマイクロバスの中で失神し、意識を回復した時に聴こえた声の主だ。
ズボンのベルトと紺色の紐でつながるポケット内の鍵を、団体旅行添乗員の巡査長はじゃらじゃら鳴らしだした。眼が血走っている。鍵を取り出そうとするらしい手が震えている。
待機室の扉を開け、室内でおれに暴力を振るうつもりだ。あるいは待機室から引きずり出し、どこかに連れ込み暴力を振るうつもりだ。
理由は、囚人が待機室で暴れたから。ほかの囚人に危害を加えているから。
しかし、手が震えているせいで団体旅行添乗員の巡査長は、鍵がうまく取り出せない。
騒ぎで、廊下の制服勤務員が集まりだした。
「やれっ!」
「負けんなっ!」
血気盛んな制服勤務員がけしかける。
「寒いんでしょ? 寒いですもんね!」
頭のすぐ後ろで声がした。振り返ると、片耳の一部が欠けた、丸顔の男だ。青葉署から一緒に連れて来られた、人懐っこい囚人だ。
「寒いんですよ。ここ、寒いんです」
丸顔の男は、柵の向こうに大声で訴える。団体旅行添乗員の巡査長は、眼を血走らせたまま、手を震わせたまま、どこかに姿を消してしまった。
面白くねえなあという表情で、集まっていた血気盛んな制服勤務員が散りだす。
身を挺し騒ぎを収めとりなしてくれた丸顔の男に対し、おれは無言でうなずいた。丸顔の男は両手錠のまま右手の親指を突き立て、おれに示す。今後はおれは、連続して二回頭を下げた。
会話は交わしていない。丸顔の男は再びベンチに戻り、隣の別の署から来た囚人との手話に興じだした。
夕刻近くになって、呼び出された。いつものように廊下で壁に手を突き身体捜検。いつもと違うのは、制服勤務員二人のほか、私服勤務員一人が付いた。私服勤務員は、青葉署で荷造りしたおれの物らしいポリ袋入り荷物を担いでいる。
略式起訴され、隣の裁判所に連れて行かれるのだろう。しかし、なんの説明もない。おれも、尋ねない。尋ねてもまともな回答は期待できないから。
ところがエレベーターの扉が開いたら、そこは駐車場ではなかった。人が行き来するホールのような場所で、そのまま廊下を歩かされた。向かった先は、南西隣にある裁判所の建物だ。
全国の裁判所と検察庁は、職員(主に検察官)や被告人、弁護人弁護士など刑事事件関係者が頻繁に行き来するから、隣り合わせの立地であるだけでなく、専用の通路でつながっている。地方の小規模都市ではあばら家のような建物だから専用通路が設けられておらず、露天を歩いて移動する。
専用通路がない田舎でも、事件の性質上、被告人の生命が外部から狙われているとか、報道陣が集まっているとかの場合、車両に乗せドア・トゥー・ドアで搬送する。
勾留請求の日、団体旅行添乗員の巡査長と一緒にバスで検察庁と裁判所の間を移動させられたのは、囚人であるおれが暴れるなどの事態を懸念してであろう。おれが暴れてもつつがなく両庁舎の間を移動させられるだけの陣容も、建物状の構造も、ここにはないのであろう。
そして、この日バスでの移動ではなかったのは、おれが暴れるという懸念がなくなった、あるいは、暴れてももはや問題ないという、どこかの誰かによる判断なのだろう。
(「弐拾壱の3 夏川夏子、里中智」に続く)




