弐拾壱の1 ですます調をやめる
電車ごっこは三人編成だ。おれとポマード巡査長との携帯電話論争に介入したそうだった、片耳の一部が欠けた丸顔の若い男も一緒につながれ、地検行きのマイクロバスに乗せられた。
「五十九番。ザイチョーだな?」
バス車内で、手帳機能を失った「警察手帳」を、バッジ面を表にしストラップで首からぶら下げた、人相の悪い見慣れぬ私服勤務員に尋ねられた。五十路に届いていそうな見てくれだ。
「ザイチョー? ってなんすか?」
三法曹のうち国家公務員である検事と裁判官を除く弁護士など、民間で働く者を表現する「在野」は、かつての政府である朝廷に仕えた官僚を指す「在朝」の対義語だと、すでに述べた。しかし、朝廷が存在しない現在において、「在朝」という用語も使われない。
同じ読みをする漢字を頭に描いた。「在庁」かもしれない。
人相の悪い私服勤務員は、おれの質問には答えず、別の質問を繰り出す。
「今、着てる物は全部、官品か?」
「下着のパンツは自弁の物だと思うんだけど…」
前日、牢番の若い巡査部長に同じことを聴かれ、同じように答えたはずだ。同じことを聴かれるということは、若い巡査部長との質疑の存在自体がおれの記憶違いかもしれないと不安になりだした。
「思うってなんだっ!」
怒鳴りつけられる理由は、二つ考えられる。一つは、自弁の物だという確信を持った回答をしないから。もう一つ。「ですます」調を使わなかったから。
留置管理部門の警察官とは、周囲の囚人の眼があるから彼らの威厳を損なわせぬよう、言葉遣いには気をつけていたつもりだった。前の日と同じことを聴かれたから面食らって、タメ口になってしまった。
「はいてる感触じゃ分かんないんだよ。最後に着替えた時は、自弁の物だったって記憶があるんだよ」
一度タメ口になったら、もう元には戻らない。
「なんだとおっ!」
「きのうも聴かれて、同じことを答えてるんだよ。同じことを聴く意図はなんだ?」
「きのうのことなんか知るかっ。自分のことが分からんのか。答えられんのか」
「おう。こういう状態で拘束されてるもんでな」
ナイロンのベルト二本プラス腰縄とつながれている両手錠をいっぱいまで引き上げて見せる。わずかしか上がらない。
一触即発だ。騒ぎに反応したらしく、バスの外にいた制服勤務員が乗り込んできた。お茶目な巡査長だ。無言でおれのズボンのゴムを引っ張る。
「見ろ。どうだ」
真新しい紺色の下着が見える。
「自弁ですね」
お茶目な巡査長に答えた。タメ口でではない。
ちぇっと、人相の悪い私服勤務員は舌を鳴らした。虫の居所が悪かったのだろう。おれへの暴行をお茶目な巡査長に阻止され、歯がゆいのだろう。あわよくば、囚人が暴れたから抑えつけたのだという理由で、おれに暴力を振るったというところだ。
お茶目な巡査長が乗り込んできて命拾いをしたのは、おれではもちろんない。おれの素性を把握していない、好戦的な五十路の私服勤務員だ。
人相の悪い好戦的な私服勤務員が複数の囚人の乗るバス内で威厳を損なったのは、自身に問題がある。吹っ掛けてきたのはこいつだ。
ザイチョーの意味は分からぬままバスは出発した。人相の悪い好戦的な私服勤務員とにらみ合っていたから、これまでの地検詣でで毎回バスを見送っていた乗車服姿の女性白バイ隊員が、この日もしかめっ面でいたかどうか、車窓から確認しそびれた。
地検に到着してバスを降りると、サンタクロースが担ぐような状態で中身が詰まっているらしい透明度の低い白いポリ袋が三つほど、地面に直に置かれていた。
「五十九番。自分の物で間違いないな」
バスを待ち受けていたらしい制服勤務員に尋ねられた。
「おんなじようなのばっかりで、どれが自分のか分かんないよ」
「なんだとおっ!」
怒鳴られる理由は、やはり二つ。どれが自分のか分からないからと、タメ口だから。
バス車内での私服勤務員の横暴に嫌気が差し、彼らへの対応などどうでもよくなっていた。この日で勾留期限が切れるという安堵感と、別のどこかに連れて行かれそこで身柄を拘束されるかもしれないという投げやりな気持ちがない交ぜだったのだと思う。
「これがおまえのなんだよ。そう書いてるだろ」
《青葉〈在庁〉Nо59》
大きな活字の紙が、袋に貼られている。貼られている部分は、おれの位置からは見えなかった。制服勤務員がぐるっと転回させたから見えた。
「書いてる内容で判断するのなら、いちいち聴くな」
「おまえ、いい加減にしろよっ!」
最後の怒号は、誰のせりふだったか分からない。電車ごっこのロープに引っ張られ、エレベーターホールに向かった。
ザイチョー問題は、解決した。やはり「在庁」だった。「庁」は検察庁のことだ。身柄を拘束しない「在宅」事件の対義語だろう。
代わり映えせぬ待機室に放り込まれた。しかし、それまでにはなかったことがある。片耳の一部が欠けた丸顔の、青葉署の囚人と同じ待機室をあてがわれた。
神奈川県内には五十四の警察署があり、四カ所ある地検支部での扱いの事件を除いても多くの署の囚人がここに集まるから、十人以上を収容できる各待機室に十分、振り分けられるはず。丸顔の男と同じ待機室になった理由が分からない。
人懐っこそうな丸顔の男は、初対面のはずの別の署の囚人とベンチに隣り合わせ、手錠で動きが制限される両手を器用に使い手話と唇の動きだけでのやり取りに興じている。
それで意思疎通が可能なようだ。相手の手話のような仕草と唇の動きに丸顔の男は破顔一笑で、丸顔の男の手話のような仕草と唇の動きに、相手も腰をかがめながら無言で大笑いしている。
おなじみのあんパン、ジャムパン、クリームパンのうち一つのみ食べ二つ残し、紙パックの牛乳は飲み干した。
〈食欲、ないんすか?〉
おそらくでたらめの手話と小声で丸顔の男が、向かいのベンチのおれに聴いてきた。
〈おいしくないからね〉
手話を使わず、小声で返した。丸顔の男と隣の男は、なにがそんなにおかしいのか、おれの返答に、そろって上半身を前後に振って無言で大笑いする。
〈きょうで出られるんでしょ?〉
丸顔の男はやはり、おそらく自己流の手話と小声だ。
〈どうかな〉
〈荷物を持ってきてるんでしょ? 出られますよ〉
勇気づけるようなことを、言ってくれる。
この男も、バスを降りて荷物を点検させられていた。しかし、ベンチの隣の男とのやり取りを観察した限りでは、丸顔の男は別の施設に移送されるようだ。起訴され拘置所行きかなにかだろう。
そしてやはり、ポマード巡査長との論議の時から、会話に介入したかったのだ。この日のバス内での横暴で好戦的な私服勤務員とのやり取りにきっと、この丸顔の男も溜飲を下げたのだ。
この男に対するおれの印象が見当違いではないことは、すぐに裏付けられる。
(「弐拾壱の2 バスで運んでもらえない」に続く)




