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弐拾の6 赤ら顔で二十五万円

(わろ)とったで」

「そうですか」

「なんも言わんねん」

「…そうですか」


 おれの身柄について四十番の男、野村が柵越しに尋ねたものの、留置管理課員で唯一確認できる巡査の階級章の牢番は、おれの求めを受け入れた。約束を守った。


「前にも同居だった人がいて、釈放されたって言ってましたね」

「うん、おった。じいさんな」

「その人は、どうやって出ていったんですか」


 野村の関心をおれの釈放話からそらすため、他人の釈放話を持ち掛けた。


「前触れもなくいきなりやった。『釈放や』て先生(すぇんすぇい)に言われて、そのまんま」

「そうですか」

 検察の勾留請求と裁判所によるその許可に至らなかったか、勾留期限内の起訴を検察が見送ったかだろう。

「ちいと待ってな。よう思い出すわーー」

 食べかけの菓子パンを片手に、野村は遠くを見るように眼を細める。

「ーー荷物をまとめよったな。どっかの部屋に連れてかれて、荷物をまとめた()うてすぐに戻ってきたーー」

 まずい、と思った。

「ーー兄い、荷物はどないなっとる? まとめたん?」

「…まとめてませんね」

 うそをついた。

 うそは最少にしたい。うそを隠すために二番目、三番目のうそをつかなければなくなり、矛盾が露呈しアリ地獄にはまってしまう。

「そやったら、まだ釈放にはならへんで。あした地検に行っても、こっちに戻ってくる。警視庁の再逮捕も、先のことや」

 食べかけで残りのパンを、野村は口の中に放り込んだ。


 野村との最後の夜は、なに事もなく終わるはずだった。

 ところが、布団に入ってから、唯一の巡査に起こされた。


「弁護士の先生が、これから接見に来る」


 睡眠導入剤を服用した直後で、まだおれは寝入っていない。会うことにした。


 接見室では、国選弁護人、Z弁護士が赤ら顔で待っていた。

 アルコールを帯びているようにも見える。しかし、アクリル板に遮断され、においは分からない。

〈聴いてる?〉

 若い巡査部長と同じような尋ね方をされる。

「はい。略式起訴だって」

 若い巡査部長に対するのとは異なる応じ方をした。

〈罰金、二十五万円〉

「金額は聴いてません。上限の半額程度だとは認識してるんですけどーー」

 検事、大竹将之は、二十万円から四十万円と言っていた。

「ーー別件再逮捕を危惧してます」

〈もし検察がそういうつもりなら、処分保留でやり過ごすはずだよ。略式でも起訴の処分を出すってんだから、もう後はない〉

「あした地検の建物を出たら、警視庁の捜査員が待ち構えてるとか」

〈いくら神奈川県警(かながわ)と警視庁の仲が悪くても、そこまでは露骨にはやるまい〉


 Z弁護士は、おれにかけた脅しのような予測を自ら解除した。

 しかし、捜査機関やそれを取材する報道機関の間では常識の、Z弁護士も認める警視庁と神奈川県警の不仲が気になる。


 この二つの警察本部の因縁にはさまざまな要素が絡む。

 まず、大規模警察本部同士はどこも、覇権争いのため仲が悪い。だから、首都を守る国内最大の警視庁と、第二の大阪府警は常にいがみ合っている。

 東京と大阪では地理的に離れているから、直接対決の機会はまれだ。しかし、例えば、千葉県にある国内最大の成田国際空港(旧・新東京国際空港)は、一九七八(昭和五十三)年の開業前から激しい建設反対運動が続き、現在もテロ対策名目で、空港警備に当てるため全国から警察官が千葉県警への出向として集められる。彼ら出向組の勤務配置や宿舎は警視庁出身者、大阪府警出身者で完全に分離している。そうしなければ内部抗争が勃発し、空港警備どころじゃない。

 大阪府警に次いで三番目に大きい神奈川県警は、管轄が警視庁と隣り合っているから、常に戦闘最前線、互いに総攻撃態勢だ。

 四十七都道府県警のうち警視庁と北海道警を除く四十五府県警は、全国に六つある警察庁管区警察局のいずれかの傘下に入る。神奈川県警は、関東管区警察局だ。そして、神奈川県警は、ライバルの警視庁が管区警察局の傘下に入らず警察庁直轄であることが気に食わない。

 同じ関東管区警察局管内で警視庁と管轄が隣り合う埼玉、千葉、山梨の各県警は、警視庁との間で、神奈川県警ほどの深い溝はない。いずれも警視庁や神奈川県警と比べ小規模だからだ。

 関東管区警察局は歴史的経緯から、そこを担当エリアとしないにも関わらず東京都心に置かれていたが、二〇〇〇(平成十二)年、埼玉県与野市(現・さいたま市)の「さいたま新都心」に移転した。その際も、神奈川県内への移転を、管区警察局に属さない警視庁が横やりまがいに強く反対したとされる。管区警察局を置くことによる神奈川県警の勢力増大を避けるためだ。


 じゃあそういうことで、とかなんとか言って、Z弁護士は上機嫌で帰っていった。

 略式で罰金の命令が出て釈放されても、改めて公判を開くよう求める腹積もりであることは、Z弁護士には言わなかった。赤ら顔だったからではない。接見を短時間で切り上げられたからでもない。相手がZ弁護士だったからでもない。

 国選であろうと私選であろうと、弁護人と依頼人(クライアント)の利害関係は、完全には一致しない。誤解も生じる。弁護人弁護士が良かれと思ってやったことが、依頼人にとって裏目に出るのは日常茶飯事だ。

 今回のおれの考えというか策略を弁護士に話すと、それが思わぬ形で、おれの意図せぬルートで敵、つまり検察や裁判所や、三和顧問弁護士側に伝わってしまう、漏れてしまう恐れがある。

 そんなことになったら、彼らへの反撃に失敗してしまう。彼らが国家権力の威を借り濫用することで、再び身柄を拘束されてしまう可能性だって高まる。

 しかも、Z弁護士は、メディアを知らない。おれの食い扶持である報道に、執筆・出稿に、取材に疎い。あまりにも無頓着だ。だから、よけいに危うい。

 公判に持ち込む計画は、おれの身柄が完全に解放され、再逮捕などの恐れがなくなるまで誰にも明かさないことに決めた。


 翌朝、いつもと変わらぬ菓子パンが二個ずつ小窓から差し入れられた。いつもと同じ野村用の紙パックの牛乳のほかに、いつもとは違うおれ用の紙パックのコーヒーが追加で入った。


「そうか。兄い先週、なんやら注文しよったもんな」


 毎週末の自弁での注文で、二勾留目の最終日となるこの日の朝食用に、試しに用紙にチェックを入れておいた。注文する時はそんなつもりではなかったが、結果的に、野村との別れの(さかずき)のようなものだ。

 前の晩の副食のパンと同じように、野村は食べかけを片手に持ったまま立ち上がり、柵の外を見やる。


「兄いの歯ブラシ、あらへんで。先生が持っていきよった」


 おれたちの居室から柵越しに見える囚人用ロッカーのことを言っているようだ。この日の交代勤務(シフト)の白髪の巡査部長かお茶目な巡査長、あるいは残業組の若い巡査部長か唯一の巡査が、持ち出したのだろう。


 居室を出入りする際、施錠、解錠の様子を目視できない姿勢を取らされる。脱獄防止のためだ。本来なら居室の外では壁を向かされるのだろうが、おれと野村の居室正面は洗面台などのスペースで向くべき壁が近くにないから、居室の柵を向いて立つ。

 検察庁へ出掛ける際、野村と別れのあいさつをしようと試みた。

 しかし、柵の向こうの野村は、座位で体はこちらを向けているものの、自身の鼻毛を抜くのに夢中で、おれには視線をくれない。抜いた鼻毛はいつものように、畳を模したビニール製床材のすき間に入れるのだろう。便箋の表紙と裏表紙をヘラのように使って、埋め込むのだろう。


(弐拾壱 分水嶺(Divide)「1 ですます調をやめる」に続く)

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