弐拾の5 おらんようになるん?
検事、大竹将之の部屋から待機室に戻り、そう時間が経たないうちに、再度呼び出された。
待機室前の廊下で壁に両手のひらを突き身体捜検査を受け、腰縄を打たれ、警察官詰め所を通り抜け、エレベーターに乗せられる。
向かった先は、地下駐車場だった。検察と青葉署を往復する際のいつものマイクロバスより小さい、紺色のワゴン車に乗せられる。
どこに行くのかとは尋ねない。尋ねてもまともな回答は得られないだろうから。
乗っている囚人は、おれだけ。警察官は、運転手ともう一人の制服勤務員二人だけ。計三人を乗せたワゴン車は、有料道路に入りMAZDAの看板を右手遠方に臨み、どこにも寄らず青葉署に戻る。
「青葉署は、来客用の駐車場を広く取ってるな」
二人組の制服警察官がそんな会話を交わしていたから、少なくともうち一人は青葉署員ではない。
いつもの地検詣でと異なり電車ごっご状態ではなく一人だけで留置施設に戻り、いつもの身体捜検を受け、居室に戻る。同居人の四十番の男、野村はいなかった。
すぐに居室から出され、手錠をはめないまま、逮捕された日に所持品検査を受け既往歴などを聴かれ、医務検診の日にサディスティックなじじい医師から往来妨害罪を宣告された小部屋に連れて行かれる。
「聴いてる?」
その日の交代勤務の若い巡査部長が言う。相勤務員の、留置管理課で確認できた唯一の巡査が同席する。
「なにをですか?」
検察による刑事処分のことであろうが、あえてとぼけて見せる。なぜなら、巡査部長が先にとぼけて見せたからだ。
おれの自宅兼仕事場に、「ごく」の付かない程度の「まれ」に来る彼らの同業者が、自分たちがなんの用で来たのか分かるだろうともったいぶって自慰行為にふけるのと同じ。たくさんあってどの案件のことか分からないんだよと、おれが毎回、応じるのとも同じ。
「釈放。あした、地検に行ってから」
「刑事訴訟手続き上、そうなるのは理解してるんですけどね」
「うん」
「身柄の拘束は解かれないかもしれないって疑ってるんです」
「どういうこと?」
「再逮捕されたり。青葉署じゃなかったり。神奈川県警でもなかったり」
「…そういうことがまったくないとは言いきれないけどさ、うちらは釈放の手続きを進めるよう言われてっから」
「そうですか」
逮捕された日、白髪の巡査部長とお茶目な巡査長に預けた衣服や所持品と、自弁で買って使った残りの切手、便箋、封筒が、目の前で示された。自弁で買った物の支払いで使った分を除く所持金は、一万八百十五円だった。
「今、着てる物はすべて官品?」
「いや、下着のパンツは自弁の物ですね」
「官品はあした、返してもらうから。服は向こうで着替えてもらう」
手続きはすぐに終わった。
「同室者にですね。同居人の四十番さんに」
「うん」
「悟られないように、ひっそり出ていきたいんです」
「言わなきゃいいじゃん」
「それで大丈夫ですか?」
「いえぇい、釈放だぜぇとかって一人で盛り上がって感情を逆なでるよりずっとましだよ」
「ご協力をお願いしたい」
「どんな?」
「お巡りさんたちからも、言わないように」
「……」
労役場留置された埼玉の川越少年刑務所は最多で十人ほどの雑居房、寝食も課される軽作業もそこで一緒にするのだと、すでに書いた。
罰金額によって留置される日数は最初から決まっているから、誰がいつ出ていくか、雑居の全員が認識している。部屋のカレンダーに、誰かが記入しているのだ。
ーーおれはあと〇〇日、××さんは、△△日ーー
そんな会話が毎日、交わされる。自分より早く満期が訪れる房仲間をうらやみ、遅い仲間を同情混じりにさげすむ。
払えない罰金の代わりに留置されているのだから、満期が訪れる前に、残りの日数分の罰金額を精算して納めれば、そこで留置を終えることができる。納める額が残りのうちの一部であっても、早期に刑務所を出ていける。
だから、親族などの接見があると、本人だけでなく房仲間はそわそわしだす。接見人がお金を入れてくれるのではないか、そのことで、釈放されるのではないかと。
収監される者のこうした価値観というか、感情を知っているから、わずか一晩のことでも、四十番の男、野村との関係を険悪なものにしたくなかった。野村を動揺させたくなかった。
もっと端的に言えば、野村から逆恨みされ危害を加えられるような事態に陥るのを避けたかった。
「じゃ、一式はこの袋に入れるから」
若い巡査部長がそう言い、唯一の巡査がその作業をする。まさにサンタクロースが担ぐクリスマスの贈り物でいっぱい状態の、透明度の低い白いポリ袋だ。
居室に戻った際にも、野村はいなかった。
「取り調べやってん。それから、弁護士の接見もあってん」
野村が居室に戻ってきたのは、おれが夕食を終えてからだ。野村の分の食事は手つかずで残されたまま。
「それで、どないなってるん?」
いつものように仕出し弁当のおかずと飯に一箸だけ付け、自弁の副食である菓子パンをかじりながら、野村は聴いてくる。
取り調べと弁護士の接見のため、野村が居室におらず、戻ってくるのが遅かったのは、おれにとって、二重、三重の意味合いで幸運なことだった。
まず、通常より早い時間帯に地検から戻ったのだと、野村に気づかれていない。それから、居室に戻ってすぐに小部屋に連れて行かれた場面も、小部屋から居室に戻った場面も、見られていない。
そして、野村の帰還が本来の夕食時間帯より遅れたことは、そこから始まり翌朝の地検行きまでの間の、おれとの接触時間を短縮する結果を産む。
野村との接触の時間が長ければ、それだけ、おれの釈放を野村に感づかせるリスクが高まる。釈放が知られた場合の、野村とのぎくしゃくした関係を維持しなければならない時間が長くなる。野村に、なんらかの悪意ある行動を惹起させるための機会を与えてしまう。
「あしたも地検に呼ばれてるんです」
「なんやてぇ。あしたで勾留期限が切れるんやろ?」
「はい」
「その後、どうなるねん」
「……」
分からない、とも答えていない。うそをつきたくなかった。うそは、それがばれた場合のリスクが大きい。
そして、野村はやはり、そわそわしだす。
「先生、先生」
仕出し弁当の器を戻さず、パンも食べかけ状態のまま、野村は外の廊下を歩く牢番を柵越しに呼び止める。
「こいつ、こっから出ていくん? おらんようになるん?」
パンを片手に立ち上がった野村は、パンを持たぬ手で座位のおれを指さし、柵の向こうの唯一の巡査に問いただす。強い口調だ。
そんなことより、おれを指す三人称「こいつ」に、ひどい敵意を感じた。それまでの「兄さん」「兄やん」「兄い」呼称は、なんだったのか。
釈放の予定を野村に言わないこと、そして、若い巡査部長と唯一の巡査にそれへの協力を求めたことは正解だったと、おれは胸をなでおろした。
(「弐拾の6 赤ら顔で二十五万円」に続く)




