弐拾の4 身柄の解放が最優先
国内で検察庁が事件処理する年間約八十万人の被疑者のうち、公判請求されるのが一割の約八万人。その二倍の十六万人が、略式起訴されている。残りの七割は、起訴猶予など「不起訴処分」と、ごく少数で家庭裁判所送致。
検察が略式起訴すればそれを受けた簡易裁判所が、書面上だけの裁判で、被告人に罰金刑の命令を出す。おれが埼玉の川越少年刑務所で労役場留置されることになったいきさつはこれで、埼玉県警から書類送検された所沢区検察庁が略式起訴。それを受けた所沢簡易裁判所が罰金二十五万円の命令を出した。
当時のおれは二十五万円なんて払えないし、よしんば払えたとしても払いたくなかったから、取材のため刑務所に入った。
「今回は、前科もないことから、公判を開かない方向で進めることにした」
おれには、前述の通り、罰金前科がある。警察の取り調べでも検察の取り調べでも最初に尋ねられ正確に答えているし、検察庁には記録が保存されている。
しかし確かに、検事、大竹将之は、そう言った。
軽微な道路交通法違反は前科に当たらないという複数の文献を読んだことがある。でも、そのうちのいくつかは明らかに、罰金と反則金を混同していた。
交通違反で警察官に取り締まられる際、点数六点未満の違反はブルーの、六点以上に該当する場合はピンクの用紙を交付される。前者を青切符、後者を赤切符と俗称する。六点以上の違反は最低でも免許停止処分を受けるから、赤切符と交換で免許証を現場で預けなければならない。
そして、青切符と赤切符の最大の違いは、前者だけの場合、行政処分としての反則金を納付すれば、刑事処分をまぬがれる。後者は、それだけで刑事訴訟手続きがスタートする。
おれは酒気帯び運転だから六点(当時)で、赤切符。自動的に書類送検され区検に呼び出され略式起訴され隣の棟の簡裁で罰金の略式命令を受けた。
今回の事件との違いは、身柄を拘束されたかそうでないかということ。
罰金と反則金を混同している文献の著者は、行政処分としての反則金を納めたのに、刑事処分の罰金を納めたと誤認しているふしがある。
大竹将之の発言を、おれが聴き違えたのかもしれない。
いずれにしても、聴き返したり真意を尋ねたり訂正を求めたりはしない。前科はないと検事が言っているのだから、それはそれで通してもらう。前科がないということはそれが正確でも誤りでも、おれにとって有利な材料なのだから、そのままでいく。
「もちろん、希望するのなら、公判を開くこともできる。今ここでそう申し出てもいいし、裁判所の命令を受けてからでもいい」
大竹将之は続ける。
「略式のメリットは、指定された日に裁判所に出向くなどの煩雑さがないこと。半面、審理が開かれないから、裁判官に対して言いたいことが言えない。意見を主張する場がない」
おれにとっては極めて初歩的な、常識でさえある手続きを、やはり噛んで含めるように大竹将之は説く。
「威力業務妨害罪の法定刑は、罰金だと上限五十万円ですね」
「そう。初犯だと、二十万円から四十万円の間で落ち着く」
「いずれにしろ、ぼくにとっては大金です」
「大金を納めてもらわないと、罰にならない。刑罰は公平だ」
人間に与えられた時間は公平だという戯れ言が存在する。しかし、余命が短期の者にとっての二十四時間と、そうでない者の二十四時間は、重みが異なる。だから、身体の自由を奪う懲役、禁固、拘禁といった「自由刑」の刑期は、公平とは言えない。
それよりさらに、ある金額の軽重は、人により千差万別。二十万円の受け止め方は、まるで異なる。だから、「財産刑」である罰金は、極めて不公平だ。
もちろん財産刑のインパクトを別の方法に置き換えるための抜け道というか技はあって、例えば罰金を一日五千円換算で国に買ってもらう労役場留置がそれだ。
この仕組みは国にとってかえって「持ち出し」が多く赤字で非効率なことから、知る人ぞ知る情報に抑えたまま、ひっそり執行していたものを、大竹将之が《無職》と書き替えた自称ノンフィクション作家のおれは、一般向け書籍で体験記として暴露。本は版を重ねて売れ、青葉署刑事課強行犯係巡査長ピロシキ田中が感心するほどの影響力を社会に与えた。
罰金と労役のどちらを選ぶかという損得勘定という行動様式が一般化した。
おれには、考えがあった。略式起訴され裁判所で略式命令を受けても、従わず、刑事訴訟法に基づき改めて公判を開いてもらう。それが可能だと、大竹将之自身がおれに説き認めている。
そして、この事件がいかにでたらめであるかを、公判における審理で訴え、裁判記録として残してもらう。
三和顧問弁護士の藤間崇史や、検察側は、端緒が検察であることを認めないであろう。認めなくても、アスキーアートでプライドを傷つけられ、顧客からの信頼を失墜させられたことへの報復であると、被告人であるおれは、証言台で主張する。
どんでん返しの判決は期待できまい。略式と同じ罰金刑を言い渡されるか、あるいは懲役刑。懲役でも実刑はあるまい。執行猶予が付くだろう。そうすれば、罰金の支払いがまぬがれられる。
怖いのは、別件による追起訴だ。再度の身柄拘束を伴うかもしれない。巡査長、ピロシキ田中が認識するこの事件の「続き」だけではないかもしれない。おれがとうに忘れているなんらかのトラブルを持ち出されるかもしれない。
捜査機関とは、あるいは法曹とは、警察とは、そんなものだ。
ーーなんでぼくたちには捜査権限がないのかって、悔しく思いますよーー
事件記者時代、新入社員の後輩がそうこぼした。
警察、検察がその職権権限をもって入り込めるエリアに、物理的にも社会構造的にも、おれたちは入り込めない。
ーーおれたちゃ、民間人だからな。「取材権限」をフルに活用しろーー
そう指導したのだが、この後輩記者と同じ悔しさをおれもずっと抱いていた。事件取材経験者なら、誰しも同じ思いだろう。
そして、権限を持った捜査機関や、在野でも法曹の恐ろしさ、えげつなさを、おれたちはよく知っている。目的のためには、手段を選ばない。法を犯した者を裁くため、あるいは口を割るためには、いくら法を犯しても赦される、それらが赦されるという価値観で、彼らは動いている。これらの違法性が代々、司法の場で免責されているのは、判例から明らかだ。
冤罪が発生する最大の原因は、ここにある。
死刑制度が残存する日本では、その執行後に冤罪が証明されても、もはや不可逆。死刑制度を廃止するとか執行停止するとかで解決できる問題ではない。違法捜査の許される、推進される、勧奨される文化が、社会制度が、風土に、土壌に根付いてしまっている。
そんな事情から、検察が略式起訴と言っているものを、すぐに覆すことはしない。公判を開くことになると、起訴後も勾留が続く可能性が高い。
まず、身柄の拘束を解かせること――。
それを最優先に位置付けた。そうしなければ、おれに有利な材料つまり証拠を確保、収集できない。
「それでいいか」
大竹将之が、念を押す。
「略式起訴で済むのであれば、それでお願いします」
半分本当、半分うそだ。
裁判所で略式命令を受けたおれが、陰で舌を出し手のひらを返し、公判を開くことを求める恐れがあると、検事なら、法曹なら、捜査機関の一員なら、大竹将之は十分に予見できるはずなのだ。
(「弐拾の5 おらんようになるん?」に続く)




