弐拾の3 凶悪な犯行で結果は甚大
「あしたも地検に、呼ばれるらしいんですよ」
四十番の男、野村から聴かれる前に言っておいた。
「ほうかいな。勾留期限がもうすぐ切れるからやな。起訴されて再逮捕、再逮捕するのは警視庁かもしれんゆうこったな」
その日の検事、大竹将之による強引な取り調べの内容は、野村には話さないでおこうと思った。話すと、おれの事件の行方を推測されてしまう。あれやこれや詮索されない方が、野村と同居するこの部屋における平穏のため。つまり、おれの身の安全のためだ。
だから、決してうそではない最小限の情報を、自分から率先して提供しておいた。
「四十番、五十九番。運動、出るか?」
翌朝、樽の巡査長が柵の向こうから声を掛けてきた。
「辞退させていただきます」
おれは出なかった。野村は出た。
野村を連れて行った樽の巡査長がしばらくして戻ってきて、こんなことを言う。
「五十九番。具合でも悪いのか?」
「体調は、日常的に良くないですよ」
検事、鈴木陽子の取り調べを受けた日の帰りのバスで卒倒し、帰還した青葉署で介抱してくれた勤務員の一人がこの樽の巡査長だから、おれの健康状態を知っているはず。
「運動にも出られないほどにか?」
「ああ、運動はですね、きょうは地検に連れてかれるっていうんで、無駄な動きを省こうと思ってるんですよ。体調とは関係ありません」
「記録を見ると、きのうも運動に出てないな」
「きのうも地検に行ったんです。それでです」
そこまで話して、前日夕刻、帰署した際に身体捜検をしたのはこの樽の巡査長だったことを思い出した。あしたも地検に行ってもらうとも、樽の巡査長は言っていた。
だから、二日続けての地検詣でであることを、樽の巡査長は知っているはずだと、事情を説明しながら気づいた。
地検詣での日に運動を辞退するのは、おれ自身が体を動かしなくないのはもちろんだが、勤務員の牢番の仕事を増やしたくないという理由もある。
牢番を気遣っているわけではない。囚人を檻から出して運動をさせ、それを監視するのは彼らの重要な仕事だから、きちんとやってもらわなければならない。
しかし、過大な業務をさせたがために彼らがなにか著しい失敗をしでかし、その損害がおれに巡ってくるのが嫌なのだ。
例えば、運動場に出すから食事の配給が遅れる、薬を出すのを忘れる、催促しても、催促されたこと自体を忘れる。
そして、てんてこ舞いに陥った牢番は、怒りの矛先をおれたち囚人に向ける。八つ当たりされる。
運動の時間は、その日の交代勤務員の始業直後。そして、前のシフトの勤務員も「残業」している。二倍の人員で当たらなければならないほどの混乱ぶりが、見ていてよく分かる。
「だったら、いいんだけどな」
「ご心配をおかけして…」
「いや、いや…」
おれのお愛想を、樽の巡査長は、お愛想で返した。
前回かその前の交代勤務の晩、寝入りばなに野村の寝言で起こされ、どうしたのかとのぞき込んだのを、樽の巡査長が柵の外から見とがめ、顔を寄せ合ってこそこそ話しているとか、おまえらの病気なんか信じられないとか暴言を吐いている。おれがバスで卒倒したのを詐病と疑っているのだと、その時は思った。
しかし、おれの体調に関する対応の二転三転が、あまりにも著しい。樽の巡査長と相勤員の、顔色の悪い巡査長による前日の気遣いぶりと併せ、その理由は後に明らかになる。
地検行きのマイクロバスに乗り込む際には、顔色の悪い巡査部長、樽の巡査長の二人は残業を終えたようで、姿が見えなかった。
この日も乗車服姿の女性白バイ隊員の、いかめしい表情に、バス車窓越しに見送られた。バスは、野村が言うところのトンネルのような駐車場の港北署で囚人を一人ピックアップし、海に臨む官庁街に向かう。
放り込まれた地検の待機室で、あんパン、ジャムパン、クリームパンと森永の紙パックの牛乳を配られ、パン一つと牛乳だけ口に入れた。
昼食後すぐに呼び出され、いつものように制服勤務員二人に連れられ、エレベーターで検事の部屋に向かう。前日と同じ大竹将之が待っていた。
「検察としての刑事処分を告げる」
子を持てば分かる、子育ての経験を積めば分かるのだと前日の取り調べでおれが開陳したのに対し一瞬だけひるんだ様子を見せた大竹は、その事実を打ち消すかのように、強い口調で言い放つ。
左手薬指の細い金色リングははめたまま。それを右手の平で覆い隠すことも、この日はしない。
「本件犯行は極めて凶悪であり、結果は甚大だ。よって、裁判を受けてもらうことにする」
鋭い眼光の大竹将之は、おれから視線を外さない。おれも同様だ。
「ただ、裁判には二通りある。一つはテレビや映画でよく見る、法廷で開くもの。もう一つは、法廷ではなく、書類上で行うもの」
事件記者というおれの経歴を、大竹将之は知っているはずだ。知っていて、あえて噛んで含めるような言い草でおれの自尊心を傷つけようという狙いなのか、相手つまり被疑者が誰であっても同じ言い方をするのか、大竹将之の個性をおれはよく知らないから、分からない。
しかし、法廷ではなくうんぬんから、公判請求をしない略式起訴なのだろうと、噛んで含める言い草の途中、察した。
検察による刑事処分は、大きく「起訴」と「不起訴」に分けられる。不起訴処分について、まず述べる。
日本の刑事裁判は有罪判決率九九パーセントで、検察としてはその数字を崩さないのが至上命題だから、有罪判決が望めない事件は、起訴しない。「公判維持が困難と判断した」と、おれたち取材記者に対して説明する。
警察もまねをして、「公判維持が困難と判断した」とのたまう。起訴するのも公判を維持するのも、警察ではなく検察の仕事なのにだ。裁判所への被疑者の勾留請求を警察が行うものだと信じたまま定年退官した警視が幹部の社会だから、さもありなん。
不起訴処分の理由は、大きく三つ。起訴に近いものから、「起訴猶予」「嫌疑不十分」「嫌疑なし」。
「起訴猶予」は、本来なら起訴するべき事案なのだが、有罪判決を勝ち取る自信がないから、つまり公判維持が困難だから、起訴を見送る。極めて黒に近い灰色。
「嫌疑不十分」は、裁判所に採用されるだけの証拠を収集できていない場合。「証拠」には、被害者など事件関係者の供述調書も含まれる。
「嫌疑なし」は、なんら罪に該当する事実がなかった、裁判所に提出できる証拠を一切、獲得できなかった。
あざみ野のJS日本総合住生活、伊藤治社長宅前で、牛の巡査に、フィクション作品とノンフィクション作品の相違について力説するも理解を得られないエピソードを紹介した。その稿で、有罪と無罪を例に挙げた。
ノット・ギルティは、ギルティの対義語ではない。ギルティの対義語は、純粋無垢。
これを、検察による刑事処分に当てはめる。起訴処分は、検察が考えるギルティ。不起訴処分のうち、起訴猶予と嫌疑不十分は、彼らのカテゴライズでは、ノット・ギルティ。そして、嫌疑なしのみが、イノセンス。
検察は不起訴処分の理由を、おれたち取材記者に対し明らかにすることと、そうでないことがある。明らかにしないのは、手の内を悟られたくないからだ。
しかし、おれたちは必ず尋ねる。それが事件取材の仕事だ。読者、視聴者から委ねられた義務だ。
もちろん、明らかにされないことがある以上、報道でも触れられない、あるいは、触れるのが難しいこともある。
ところが、昨今のメディアの事件報道に接していると、記者が、取材者が、検察当局に不起訴処分の理由を尋ねていないのではないかといぶかる事例が多い。不起訴の三要素を知らないのではないかとさえ疑ってしまう。
逮捕、勾留されている事件で被疑者のおれは、なんとか「起訴猶予」でとどまらないかと願っていた。しかし、それはかなわなかった。
次に、検察の価値観では「ギルティ」の起訴処分について述べる。
(「弐拾の4 身柄の解放が最優先」に続く)




