拾玖の3 厚生省が上告断念
胎内にいるときに母親が服用した「サリドマイド」の影響で、両肩から先がない状態で生まれた辻典子は、カフェ「プロント」のカウンターで、なにかを注文した。
店はセルフサービス式だから、客は代金を支払った後、注文の品を受け取り自らテーブルに運ばなければならない。おれは、すぐに立ち上がり駆け付けられる体勢を整えた。カウンターから商品が出てきたら、それを率先して受け取り、典子をテーブルにエスコートしようと考えた。
しかし、その必要はなかった。典子と二言、三言、会話を交わした若い女性店員は、にこやかにうなずき、器が載った小さなトレーを手に、典子を店内奥のテーブルに案内した。そして、紙容器をはがし取ったストローを、器に挿した。
真冬なのに、典子は冷たい飲み物を注文したようだ。器は透明な縦長のガラス製。ストローが挿しやすいようにであろう。
これが、カフェ「プロント」店員のこの心遣いが、正常な飲食店従業員の、社会人の、大人の、人間のマナーだ。
「プロント」だからできたのではない。具体的なマニュアルが存在するわけでもあるまい。若い女性店員は、誰から指示されるでもなく、誰かに相談するでもなく、典子の注文した飲み物を、典子と一緒に歩きテーブルまで運び、ストローを挿した。
二人の会話は聴こえない。困ったことがあったら、そうでなくても、用があったら呼ぶようにとでも、女性店員は典子に話しかけたはずだ。
「爪の垢を煎じて飲む」という慣用句が、スーパー三和店員や株式会社三和関係者、顧問弁護士、さらにUR都市機構周りの連中には、分かるまい。だから、彼らには、「プロント」店員の爪の垢を煎じて飲むことは生涯にわたってできない。従業員や経営陣の世代が代わっても、それは同じだ。
会合の始まる時刻が近づいたから、おれは典子を残し店を出た。エレベーターで向かった高層階の会場は開いていた。報道機関にも開放される関係者用傍聴席に、おれは陣取った。
典子がいつ会場に入ったのか、分からない。ヒアリングが始まる予定時刻には、すでに会場後方の席に着いていた。
ーー安全性に関わる情報が、医療機関に、患者に、迅速・確実に伝わるよう配慮をお願いしたい。誤って投与されぬよう、管理を厳重にお願いしたいーー
そんな通り一遍のことを、檀上の典子はスタンド式マイク越しに発言した。
審議会に招聘した関係者からのヒアリングなんて、そんなものだ。原稿は主催者、今回の場合、国側が作成する。あるいは、国側から厳しくチェックされる。
国の意向に沿わない発言内容は、議事録から削除される。発言者の存在自体さえ抹消される。次回から、同種のヒアリングに招かれなくなる。
典子への直接取材を、おれは試みるべきだった。そのための絶好のチャンスだった。せめて、別の機会の取材に向けて名刺を渡すべきだった。
クレジットカードのスキミングに遭ったエピソードで述べた通り、当時のおれは、「専門家が読む雑誌を出版する編集部」に在籍していた。そこでのおれのミッションは、例えばこの審議会取材でいえば、多発性骨髄腫の治療薬として藤本製薬が申請した「サリドマイド」の承認に向け、審議がどこまで進んだかの確認と執筆。
国によるアリバイ作りのためヒアリングに招かれた典子の発言内容になど、編集部も読者も関心がない。
だから、その編集部で仕事をする限りにおいて、おれの典子への接触は、単なる個人的な悪趣味、あるいは職務怠慢に過ぎない。
カフェ「プロント」に一人で姿を現した典子は、発言を終えると、厚生労働省職員に促され会場を離れた。おれは、典子を追わなかった。追うと、審議の続きを傍聴しそこねてしまうから。
映画『典子は、今』に本人役で出演した典子は、市役所に就職し社会人として充実した日々を送る中、以前手紙をくれた知人女性に会うため、休日を利用し一人で一泊二日の広島への旅行に出掛ける。道中、勇気を出し見知らぬ人たちに声をかけ切符の購入や食事を手伝ってもらいながら電車や船を乗り継ぎ、手紙の女性宅にたどり着く。
実際の典子も、母親から「なんでも一人でできるように」と養育されていた。
典子と対面、いや、目撃して半年ほどで、おれは会社勤めを辞めた。そのさらに半年後、二十六年勤続した市役所を、典子は退職した。
国の不作為により子どもが犠牲になった薬害の例を、もう一つ挙げる。インフルエンザワクチンだ。全体主義的な防疫の観点から、日本では小児への接種を勧奨。予防接種法に基づき、小中学校での集団接種が一九七七(昭和五十二)年に義務化された。
予防接種は当時、個人の罹患防止よりも、集団における防疫目的だったことに着目しなければならない。なぜなら、集団接種義務化の十年以上前から、ワクチン接種により重大な副反応(副作用)が現れ後遺症が残ったとする国に対する被害訴訟が始まっていたからだ。
重大な副反応による後遺症が発現するリスクを国は承知していながら、いや、承知していたからこそ接種の義務化を敢行した。義務化しなければ防疫が達成できない。個人の権利を、安全を、生命を、集団の利益に埋没させた。
風向きが大きく変わったのは、一九九〇年代に入ってからだ。全国で提起された集団訴訟のうち、名古屋高裁が和解勧告。福岡高裁では、原告が和解申し入れ。これらを国は拒否していたが、一九九二(平成四)年十二月、東京高裁が国の責任を認め、二十億円余りの損害賠償を支払うよう命じた。
東京集団訴訟の原告は、接種で子を亡くしたり、重度の心身障害に陥ったりの計百五十九人。一審から約二十年が経っていた。国は、最高裁への上告を断念した。
上告手続きは、高裁判決から十四日以内に行わなければならない。年末年始に重なることから、判決後一週間で上告断念を報道発表した。
《(判決は)法律上の義務として、または実態上それと同様の状況下、異物であるワクチンを体内に注入し、その結果として健康被害が生じたという予防接種事故の特殊性に着目した理論展開。背後には、一連の予防接種訴訟における被害者救済という司法判断の流れがある。謙虚に受け止めるべきもの》
同年十二月十二日に発足したばかりの宮澤改造内閣で厚生相として初入閣した丹羽雄哉(一九四四-)は、保健医療局の官僚が作文したペーパーを読み上げ、「大臣コメント」とした。
上告断念も大臣コメントも、厚生省による筋書きは定まっていた。集団接種義務はその五年前の一九八七(昭和六十二)年には、解除されていたのだ。
「サリドマイド、インフルエンザワクチンだけじゃありませんよ。水俣病もカネミ油も、森永ヒ素ミルクも、被害に遭ってるのは、子どもばかりです」
おれは、オオタケに訴える。検事なら、法曹なら、これらの事件を、これらの事件に対する国や大手民間企業の責任問題を知っているはずだ。
水俣病は、熊本県水俣湾周辺の化学工場などから海や河川に工業廃水として排出されたメチル水銀化合物(有機水銀)により汚染された海産物を住民が長期にわたり日常的に食べたことで水銀中毒が集団発生した公害病だ。有害な水銀が魚介類の食物連鎖によって濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに八代湾沿岸の住民が食用に経口摂取した。
自身の摂取による発症だけでなく、妊婦が摂取することで、胎盤を経由して胎児に影響し、先天的に障害を持つ子が生まれた。「胎児性水俣病」だ。脳の発育が不十分だったり神経細胞が壊されたりし、感覚障害や運動失調などを発症する。多発地区では、脳性マヒ様症状の発生率が乳児の九パーセントに達したとの報告がある。
当初は原因が分からず、奇病とされた。終戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である、第二(新潟)水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病を合わせた「四大公害病」の一つであるとともに、「公害の原点」だ。また、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上初の大規模有機水銀中毒として世界に知れわたった公害病でもある。
皇后雅子(一九六三-)の母方祖父、江頭豊(一九〇八-二〇〇六)が一九六四(昭和三十九)年から七一(同四十六)年まで、水俣病原因企業のチッソ株式会社社長を務めた経歴が、孫の皇室入りの弊害の一つであったことを、今上天皇徳仁(一九六〇-)が報道メディアに対し公式に認めている。
(「拾玖の4 黒い赤ちゃん、白いミルク」に続く)




