第八話
ひたすら山登りしています。
約束の時刻、ヘヨカは既に門の前で待っていた。
「あっ……お待たせして、申し訳ありません」
ミカは、胸に抱えた小さな紙袋をきゅっと掴んだ。ヘヨカは短く息を吐いて踵を返す。その手には、大きな―――しかし、白い花ばかりで揃えられた花束があった。
「大して待っていない。……行くぞ」
「あ、あの、」
「何だ」
「……いえ、何でもありません」
振り返ったヘヨカに、肩を竦めて俯いてミカは返す。開かれた門から外に出たヘヨカに続き、ミカは紙袋を鞄に入れて小走りになる。
「これからは、どちらに?」
「墓だ」
「へっ」
「……己れの、大切だった人の、墓だ」
ヘヨカは振り返らずに足を早める。街道から逸れて草を踏みしめ、ミカは、金具を軋ませながら閉じる門を振り返った。
門の上には、やはり太陽の刻印しかない。小さな月の神殿を思い出しながら、ミカは僅かに顔を曇らせた。
あの街の中心はソールの神殿だった。ルーナは、月の神という存在でありながら、街の中心から外れた、誰も行かないような路地の隅に、追いやられていた。
「ミカ」
名を呼ばれ、びくりとミカは大きく震える。振り返ると、少し先でヘヨカが待っていた。街の東南は緩やかな丘になっており、赤茶けた岩が所々剥き出しになっている。見上げてゆけば、丘の遥か向こうに見えるのは、天を貫くかというような灰色の岩山だ。
ヘヨカが立っているのは、その手前の丘のふもとであった。ミカは急いでその後を追う。ミカが傍らに追い付くまで、ヘヨカは黙って待っていた。
「……何だ、驚いたような顔をして」
「いえ……久し振り、だったので」
「……何がだ」
「その……あんなに普通に、誰かに名前を呼んでいただけたのが」
ミカは膝に手をついて息を整えると、笑みを浮かべてヘヨカを見上げた。
「不思議ですね。ソール様は、普通に呼んでくださったはずなんですけど」
「……あいつは名前に、記号以上の意味を見出さないからな」
ヘヨカは風に靡くフードを押さえて目深に被り直すと、仮面を掴んで踵を返した。
「記号、ですか」
「そうだ」
「でも……そうですよね。名前は、その人を表わす記号。他に、どんな意味が?」
「……例えば、己れが、これからお前はミカではなくフェールだと言ったらどう思う」
「えっと……ちょっと変な感じがします」
「お前自身は何一つ変わっていないのに、か」
ヘヨカの言葉に、はっとしたようにミカは顔を上げる。
「つまりはそういうことだ。ミカという名前は、今のお前の『全て』を示す。ソールの名前の呼び方は、家畜に付ける番号と同じだ」
「じゃあ、ヘヨカ様は、」
期待を込めてミカはヘヨカを見上げ、しかしその先の言葉を紡げずに口を噤んだ。
「……何度も言わせるな。お前は己れのお気に入りだ。それは、他でも無い、ミカ、お前だ」
ヘヨカが歩く速度を僅かに落とす。ミカはヘヨカの隣に並ぶと、仮面で固く閉ざされた横顔をじっと見上げ――――それから、おずおずと手を差し出した。
小さな白い手は、いつものようにケープを掴むのではなく、ヘヨカの手、その小指を掴んでいた。ヘヨカも手を握り直すことはせず、ミカがするのに任せている。
丘を連れ立って昇りながら、ミカは俯いて目元を拭った。
どうして、とミカは鼻を啜る。これは『嬉しい』気持ちの筈だ。さっきまでは『嬉しい』時は笑っていた。なのに、今どうして自分は、『嬉しい』のに、泣いているのか。
ヘヨカが無言で、柔らかく揉んだ紙の束を差し出す。ミカはそれを受け取って、際限なく溢れてくる涙を必死に拭った。
丘は途中から次第に岩肌が目立つようになり、草木の数が減っていった。こつこつとヘヨカのブーツの音が良く響く。振り返れば、遥かに続く草原の中に、壁に囲まれた街の姿が見えた。高い城壁も今は眼下となり、こまごまとした街の中の様子が見える。
やがて土を踏み固めただけの道は砂利道になり、それすらも、岩々に塞がれて途絶えていた。二人の行く手には大きな岩がごろごろと転がり、その間を水が流れている。水は山の方から、ずうっと下流へと続いていた。
「……ここも崩れたか」
「ここって……」
「去年までは川だった。……もう少しだ」
ヘヨカは岩の上を渡るようにして、その岩の向こうへと抜けた。ミカは何とか岩によじ登るが、意外な高さに足が竦む。
岩の大きさはミカの腰まであるかないかという程度だった。だが、普段よりその分だけ視点が高くなれば恐怖も生まれる。まして鋭い岩だらけの道なき道で、隙間はミカが落ちるには十分すぎる大きさだ。
恐る恐る一歩を踏み出すと、見かねたようにヘヨカが岩に上って来た。
「ほら」
ミカの少し先の岩の上で、ヘヨカは腰を落として両手を広げる。遠慮も忘れ、ミカはそこへ飛び込んだ。ヘヨカはミカを抱き寄せると同時に後方へ飛び、着地する。
「……あっ! す、すみませんヘヨカ様!」
「謝るな」
ヘヨカはミカを降ろすと、地面に置いていた鞄と花を掴んだ。ミカの心臓はばくばくと早鐘を打ち、申し訳なさと羞恥で顔が紅くなる。だがヘヨカは意に介した様子もなくすたすたと足を進めた。
間も無く、岩と草が混じる景色の片隅、地面から突き出した巨大な岩肌に寄り添うようにして、小さな黒い石が見えてきた。周りの雄大な景色からすれば余りに小さくささやかだが、近付いてみればその高さはミカの首元まであり、砂埃に汚れた表面には細やかに文字が彫られていた。ヘヨカは荷物を置くと、水筒の水を白い布切れに含ませ、丁寧にその黒石を拭いていく。刻まれている文字に、ミカは首を傾げた。
「あの……これは、どなたのお墓なのですか?」
「……字が読めないのか」
「う……すみません」
「……これは、アレグリア・メーロという女の墓だ」
「……それって、」
メーロ、という名前にミカはヘヨカを見上げる。だが、ヘヨカはいつも通りの淡々とした口調で続けた。
「レサル・メーロという男の母親だ」
「………………」
ミカは、怪訝そうに眉根を寄せる。
「ルーナ様の話にも、その『レサル』という方が出てきました。ヘヨカ様も、『メーロ』と名乗っていらっしゃいましたよね。……ヘヨカ様の、本当のお名前……では、ないのですか?」
遠慮がちにミカが言うと、ヘヨカは黙って首を横に振った。
「レサルは死んだ」
あっさりと、しかしきっぱりとヘヨカは言いきった。驚くミカをよそに、ヘヨカはやはり淡々と言葉を続ける。
「己れが殺した」
「……でも、ルーナ様は、まるで『レサル』という人が生きているような物言いでしたが」
ミカはそう言ってから、顔色を窺うようにヘヨカを見上げた。
「あ、あの、それが誰、とは聞いていませんが……」
「死んだ奴のことなぞ聞いてどうする」
吐き捨てるようにヘヨカが言った。平常のような淡々とした物言いではなく、確かな怒気を孕んだ声音に、ミカは身を竦める。
「すみません……」
ミカは俯いて、消え入りそうな声でそう言った。ヘヨカは黙って、一輪の白い薔薇をミカに差し出す。ミカが顔を上げると、ヘヨカはフードを降ろし、花束を墓石の前に置いた。
「あの、これ」
「悼まないことも墓前で怒ることも、死者への冒涜だ」
ヘヨカから薔薇を受け取り、ミカは改めて墓石を見遣る。ヘヨカは仮面に手を掛けると、それを外して俯いた。
「ここはこの人だけのものなのだから」
額を墓石に触れさせ、ヘヨカは黙った。ミカは戸惑いながらも薔薇を備え、数歩退いた場所に膝をつく。
いつの間にか日は陰ってきていた。正午に街を出て、そろそろ夕刻だろうか。随分と長く歩いてきて、腹も減った気がする。ミカは自分の腹に手を当てて、動かないヘヨカの背を見つめた。ヘヨカはまるで死んでいるかのように、静かに座っている。
ミカは膝を抱えて座り直し、俯いて口元を膝に埋めた。
墓前のヘヨカを見るのはこれが二度目であった。次第に肌寒くなる風の中、ミカはただじっとヘヨカの背を見つめていた。
殺した賊達を埋葬していた時には、この人は、お伽噺の通りの死神なのだと思った。だが、傍らで見ている限り、ヘヨカはそこまで恐ろしい人物には思えない。なにがしかの過去や事情を背負い、神々に好かれたり、嫌われたりしながら、誰か大切な人の為に墓前で祈る姿は、むしろ――――
『昔あいつは人を愛したことがあった』
不意に、ルーナの言葉が蘇る。
神々に近い存在としか感じられないときもある。だがヘヨカは、確実に人の中で生きている―――人として、生きているのだ。
嗚呼、とミカは息を吐いた。
死神、道化師、流浪人―――ヘヨカを表わす言葉は多い。だがそれは全て、ヘヨカの、分かりやすいほんの一部分にすぎない。
彼は人間だ。
何か特別な事情を背負っていたにしても――――どうしようもないくらいに、ただ一人の人間なのだ。




