第七話
気付くと朝になっていた。ベッドの上で目を擦り、ミカは首を捻る。
確か自分は、眠れなくて食堂に降りて行ったはずだ。いつの間に、部屋に戻ってきていたのか。隣のベッドを見遣ると、横向きでヘヨカが眠っていた。顔の仮面をつけたまま寝たのか、紐がほどけていくらかずれている。
ミカは簡単に身支度を整えると、ヘヨカに近付き、そっと仮面を取った。
「…………?」
ミカは頭に手をやり、薄ぼんやりとした記憶に首を傾げる。正面から初めて見た筈のヘヨカの顔に、妙に既視感があった。
指先がヘヨカの頬に触れそうになる。だが、その薄ぼんやりとした記憶が、それを引き留めた。ミカは手を引き、仮面を置いて洗面台に向かう。
やがて、頭を掻きながらヘヨカが現れた。既に顔には仮面を着け、寝癖が立っている髪を手で撫でつけている。
「あ、ヘヨカ様! すみません、すぐ退きますね」
「いや……」
くあぁ、とヘヨカは大きく欠伸をした。そういえば寝起きのヘヨカを見るのは初めてだな、とミカはその様子を見上げる。
「今日のご予定は?」
「……昨日と同じく金を稼ぐ。役所に届けたから広場を使わせてもらおう」
「そうですか」
「お前はどうする」
ヘヨカが振り返り、えっ、とミカは言葉に詰まった。
「私は……ヘヨカ様に、付き従います」
「そうか」
ヘヨカは手早く着替えながら、ベッドを整え始めたミカに、仮面の奥から視線を向ける。
「昨日はよく眠れたか」
「えっ? はい……」
「そうか。夜中に起き出していたようだが」
ヘヨカもベッドを軽く整えながら言う。はっとしてミカは息を飲んだ。
はっきりとは思い出せないから夢だと思っていた。だが、もしかしたらこの記憶は現実のものなのか。だとすれば、しっかり寝たと思っていたのに嫌に体が重いことにも頷ける。
「……まあ、大方見当はつく」
「え?」
行くぞ、とヘヨカは荷物を持ってドアに足を向けた。ミカは慌ててケープを羽織り、ヘヨカの後を追ってそのケープの裾を掴む。
階下の食堂では、宿屋の主人が洗い物をしながら不思議そうに首を捻っていた。朝食を頼んで席に着いたヘヨカに、「ああそうだ」と主人は声をかける。
「旅人さん、これ、持ち物じゃぁないですか? こんな立派なの、うちには置いてないんですがねぇ」
主人が差し出したのは、白い陶磁器のカップとソーサーであった。丁寧に磨かれた白いそれは銀の線で模様が描かれ、差し込んできた朝日を反射して輝いている。
「……それ、」
ミカは腰を浮かせ、両手でそれを受け取る。それからまじまじと、両手で包んでカップを見つめた。「心当たりが?」と主人が屈んでミカに視線を合わせる。
「私のものではありませんが、何処かで……」
「銀模様の白磁はルーナの趣味だな」
パンにマーガリンを塗りながら、ヘヨカが唐突にそう言った。
「ルー……ナ……」
ミカはカップをそっと置き、その名を呟いて息を飲む。ヘヨカを見上げると、ヘヨカは仮面で表情を隠したまま、乾燥させた野菜と干し肉のスープを啜っていた。
「知り合いのですか?」
「え……はあ、恐らく」
「この宿への贈りものだろう。上客にでも使えばいい」
ヘヨカはジャムをミカに突き出し、その話を中断させる。ミカはジャムを受け取り、釈然としない、と言った様子で眉間にしわを寄せた。
主人は「そうですかい」とカップを持ってカウンターへと戻って行く。ミカは上目遣いでヘヨカを見ながら、パンを頬張った。
「広場で、って、何をなさるのですか?」
「己れのすることだ、分かるだろう」
「……?」
「……己れは道化師だ。お前も、芸の一つでも覚えるか」
ヘヨカは鞄から、いくつかの鮮やかなボールを取り出すと、驚くミカの前に置いた。
広場の隅で、ミカは組み立て式の椅子に座って体を硬くしていた。服は粗末なもののままだが、長い水色の髪は綺麗に結い上げられ、鱗が浮いている顔の右半分は道化師の仮面で隠されている。銀の月と星のチャームで長い前髪を仮面の上に留め、頬と唇には紅が差されていた。
「……ヘヨカ様、あの」
「街の中ではヘヨカと呼ぶな。正体が知れると面倒だ」
「では、何と」
「……レ……いや、メーロだ」
「……分かりました」
ヘヨカはミカの前にしゃがみ、真っ白な仮面に赤で模様を描いて行く。
「あの、へ……メーロ様」
「何だ」
「ご存じだったんですか? 私が……その、夜中に、ルーナ様と会ったということを」
ヘヨカは筆を止め、細く息を吐いた。
「起きたお前には、魔法をかけられた跡があった」
「……あ、」
「記憶を混乱させる程度のものだろう。夜を司る神で、お前に興味があるのはあいつ位だ」
ヘヨカは筆を再度動かし始める。三日月のように湾曲した目の周りに描かれたのは、ひし形の模様だ。ミカは手の中のボールを撫でながら、相変わらずはっきりしない夜中の記憶を必死に呼びさます。
人に近付くと不快。人に触れるともっと不快。声を聞くことさえ不快。ならば、今ヘヨカは一体どれほどの苦痛を受けているのか。
ぐっ、と固くミカは唇を噛んだ。ヘヨカは手袋をはめた手でミカの頭を軽く叩き、立ち上がって踵を返した。昨日の内に既に噂が広がっていたのか、既に数人が見物に来ていた。
膝の上でボールを握り、ミカは俯く。
出会ってからまだ四日だ。それでも、ヘヨカが自分を大切にしてくれているのは分かる。
初めて、気味が悪いと言われなかった。成り行きとはいえ守って貰えた。気遣って貰えた。あの町から出してくれた。綺麗な外套をくれた。綺麗な景色を見せてくれた。敵対しているのにその神の神殿へ行かせてくれた。美味しいご飯を食べさせてくれた。
生まれて初めて、誰かの傍にいて笑うことができた。
だが―――「嬉しい」のだから笑いたいと思っても、自分が傍に居るだけで、ヘヨカを不快にするのなら。手袋越しの温もりでも、自分は求められない。
自分はヘヨカの「気紛れ」でここに居るだけ。何の役にも立ってはいない。
ミカは顔を上げ、ジャグリングをしているヘヨカをじっと見つめる。
せめて、何か一つでも芸を身に付けよう。いつかヘヨカに捨てられても、一人で生きていけるように。今のうちに、少しずつ、力を付けていこう。
ミカはヘヨカの手の動きを真似しながら、掌の中でボールを転がした。
翌朝、昨日と同じようにヘヨカの後をミカが付いて行こうとすると、ヘヨカはくるりと振り返って指先をミカの額に当てた。
「今日は、付いてくるな」
「……えっ」
「正午の鐘が鳴るまでに、東の……昨日入ったのとは反対の門に来い。小遣いだ」
ヘヨカは金貨を二枚、ミカの掌に乗せた。
「え、そんな、私昨日何もしていないですし!」
「綺麗な娘がいると男が群がっていた」
「えっ……」
「正午だ。道が分からなければ人に訊け」
ヘヨカは宿の主人に金を払うと、ミカを入り口に残したまま市場の方へと歩いて行った。
「……綺麗、かな」
ミカは俯き、今朝方ヘヨカが結ってくれた髪に触れる。前髪で顔を隠すことは譲らなかったが、後ろ髪はリボンで綺麗に結ばれ、すっきりとまとまっている。
髪を折り返して束ね、団子のようになっている結び目の髪に触れ、ミカは控えめな笑みを零して歩き出した。
朝市が開かれ、威勢のいい声が飛び交っている大通りを抜けて、噴水のある広場へ。昨日芸をしていた場所を通り過ぎ、人気のない路地から裏通りへと入った。
「……綺麗」
ぽつりとミカは呟く。
白いレンガ造りの路地の端と、両側の白い壁には植物の蔦と苔が這っていた。差し込んだ朝日に照らされる先には、壁に半円の穴が空き、底から坂が地下へと続いていた。近付くと、道の縁に刻まれていた水路から水が流れ込んでいることに気付く。地下水道というものを知らないミカは、さらさらと流れ落ちる水を見て首を捻った。
地下水道への入り口を通り過ぎると、更に道は二つに分かれていた。
右側の奥は行き止まりになっていて、小さい家のようなものが突き当たりに置かれている。丁度日の光が隙間から差し込み、そこだけを照らしていた。ミカはそれに近付く。
「……これ」
小さな家は、ソールのものより遥かに小さな―――しかし、屋根には綺麗な刻印を刻まれた、神殿であった。刻印は三日月の形をしている。ミカはその小さな神殿の前にしゃがんだ。屋根の高さはミカの胸ほどで、しゃがんでようやく、その細やかな造りが見上げられる。
「月の神様の……神殿?」
「その通りだ」
声が突然降ってきて、ミカは驚いて顔を上げた。
「きゃあっ!?」
そして、すぐ近くにあったルーナの顔に驚いて尻餅をつく。ルーナは神殿の上にしゃがみ、頬杖をついて呆れたようにミカを見下ろした。
「全く……折角魔法をかけて忘れやすくしてやったというのに、お前は何処までも神に逆らうのだな」
「う……やっぱり、あの魔法はルーナ様だったんですね」
ミカは上目遣いでルーナを見上げた。
「それで、ソールに脅されていても、やはりヘヨカに着いて行くか」
「はい。どうせ、私は今一人では生きていけないですし」
ミカは頷き、それから俯いて胸元に手を当てた。
「それに……よく分からないですけれど、ヘヨカ様と居ると、この辺りが温かくて、気持ちが楽になるんです。……勿論、全く恐ろしくないと言ったら嘘になりますけど」
ミカは微笑み、改めてルーナを見上げる。その朗らかな笑みに、ルーナは目を細めた。
「多分、私、今『幸せ』です」
「出会って……たった数日の男と一緒で、か」
「はい。少なくとも、今までより、ずっと」
成程、とルーナは深く息を吐いた。
「余程、ヘヨカはお前を甘やかしているらしいな」
「甘やかして……?」
ミカはきょとんとして首を捻る。ルーナはミカのケープを指差し、それから結い上げられた髪の毛を指差した。
「特に理由もなく、お前に対してそれだけのことをしている。親の無償の愛情と似ているな。世間ではそれを『甘やかす』と言うんだ」
「そう……なんですか」
ミカはまた髪の結び目に手をやり、笑みをこぼす。
「ルーナ様……お聞きしたいことが」
「何だ」
「あの、私にも、ヘヨカ様に何かお返しができるでしょうか」
ミカは地面に座り直し、ルーナを見上げた。ルーナは驚いたように目を瞬かせる。
「私、まだ何も知らない小娘でしょうし、ヘヨカ様や、ソール様や、ルーナ様の事情は存じ上げません。でも、もし、この先もヘヨカ様が私を傍らに置いてくださるのでしたら、何かお返しは出来ないでしょうか」
「……出来ることはあるだろうな。だが」
ルーナは指先でミカの額を弾いた。ミカは両手で額を押さえて首を捻る。
「それは、お前が考えることだ」
「……ですが、」
「一つ神らしく言ってやると」
ルーナは仏頂面のまま指を一本立て、ミカを見下ろした。
「お前は自分で何かを決めるということを恐れているのではないか。誰かに付き従うばかりでなく、自分の頭で考えることも大切だ」
「……でも、私、ヘヨカ様のこと……何も」
「何も知らないというのは悪いことでは無い。これから知っていけるということだ」
ルーナの言葉に、ミカは大きな双眸を更に丸くし、息を吐いた。強張っていた肩から力が抜け、体全体が弛緩する。
「……ルーナ様は、ヘヨカ様の味方ですね」
ミカが微笑むと、ルーナはふいと視線を逸らした。ミカは立ち上がって服の砂を払う。
「沢山、色々教えていただき、ありがとうございました。あとは、頑張ります」
「礼には及ばない。信仰される神の仕事は人の背を押してやることだ」
ルーナはそっけなく言うと、煙のように姿を消した。ミカは深々と頭を下げ、踵を返して路地を戻る。市場は既に朝の食料市から、昼の、道具や装飾品を扱う市へと変わってきていた。
広場に出る瞬間、足が竦みそうになる。また誰かに忌避の視線を向けられるのではないか。そう思うと、その場からすぐに逃げ出したくなる。
「……っ」
だが、ミカはフードを目深に被ると、意を決して一歩、踏み出した。




