第六話
宿の部屋は一つだけで、狭い部屋に二つのベッドが押し込まれていた。ミカは鞄をベッドに乗せ、向かいのヘヨカを見遣る。ヘヨカはケープを脱ぐと、仮面を押さえて溜息を吐いた。
「……そう言えば、ヘヨカ様は今日、何をしていらっしゃったのですか?」
「花を買いに行っていた」
「……花、ですか」
「……金が足りなかったので、ついでに稼いでいた」
ヘヨカは確かに手ぶらである。ミカは布団を被って着替えながら、「でも」と顔だけを布団から覗かせる。
「お金、沢山持っていらっしゃいましたよね?」
「最近高い買い物をしたからな」
「そうなんですか?」
ヘヨカは腰の飾りを磨く手を止め、ゆっくりとその指先をミカに向けた。
「………………」
さああ、とミカの顔から血の気が引く。
「あっ、あの、ヘヨカ様! その……きゃあっ!」
ミカはベッドから身を乗り出して、しかし手が縁で滑ってそのまま床へと転がり落ちる。下着姿のまま仰向けになり、「うう」と額を押さえて呻いた。
「……ふっ……」
ヘヨカは仮面を押さえて声を漏らす。それからミカから顔を逸らし、口元に手をやったまま肩を震わせていた。ミカはその様子を見上げ、驚いたように目を瞬かせる。
「……ヘヨカ様、笑っていますか?」
「早く服を着ろ」
言われて、ミカははっとして体を布団で隠す。血の気が引いた顔が一気に紅潮し、ミカはまた呻き声を漏らした。
夜遅く、なかなか寝付けなくてミカは階下へ降りた。月明かりの差し込む食堂で水差しを探し、カップを手にカウンターへ向かう。
水を一口飲んで息を吐くと、かたりと後方で何かが動く音がした。
「……?」
他の宿泊客か、とミカは振り返り―――そこにあった姿に、息を飲む。
窓からの明かりに照らされるテーブルに、一人の青年が座っていた。目は切れ長で、髪は顔の左右と後方に一筋のみ長い。右肩でだけ留めた奇妙なボロ布のマントを羽織り、長袖の黒服とズボンはシンプルなものであった。腰には飾り帯と、金のアクセサリーが二つぶら下がっている。髪色は青みがかった銀、双眸も同じ色だ。そして髪には金の羽飾りがあった。
「……ヘヨカ様?」
思わずミカは呟いた。
一度だけ、それも横顔だが、ヘヨカの素顔は見たことがある。青年の顔は、ヘヨカのそれよりいくらか冷たさが増していたが、それでも雰囲気はよく似ていた。
「……俺はヘヨカではない」
青年は机から降りてそう言った。ミカはしかし、その腰に揺れている二つの飾りが、ヘヨカと同じものであると気付く。
「ああ、これか。父親の形見だ。……ソールに会ったそうだな」
青年は飾りに手を触れて、それからミカに鋭い視線を向ける。
「……あなたは、神様ですか?」
「ああ。申し遅れた、俺は月の神、ルーナと言う」
青年、ルーナはそして胸元に手を当てて礼をした。ミカは驚いて目を丸くする。
「え、そんな、神様が頭を下げるなんて、」
「郷に入りては郷に従え、だ。人の姿をしている以上、人の模倣をする方が、都合がいい」
それで、とルーナはミカに近付くと、その近くの椅子に座った。
「お前はヘヨカとどんな関係だ」
「え……ご存じ、無いのですか?」
ミカも視線を合わせようと椅子に座る。ルーナは頬杖をついて顔をしかめた。
「俺の領分は夜だ。闇の時間だ。人は皆空の目が届かぬところに入ってしまう。ヘヨカとて例外ではない。……まあ、会話ができる程度の間柄だとは知っている」
ルーナは視線を更に鋭くした。尋問されている、とミカは俯いて手を握る。
「その……先日、ヘヨカ様がお泊りになった宿で、ヘヨカ様の御世話役をした者です。それで、どういうわけかヘヨカ様に買われて、今に至ります」
「……ほお。身の上は?」
「母が人、父は竜の孤児です。母は亡くなりましたし、父は何処にいるか、誰なのかすら分かりません」
「……成程。レサルが気に入る訳だ」
ルーナはそして、ふっと笑みを零した。
「……レサル?」
不意に出てきた名前に、ミカは怪訝な顔になる。ルーナは「ああいや」と手を振った。
「こちらの話だ。勝手に話すと奴に嫌われる」
ひらひらと手を振ってルーナは目を伏せる。
「……まあ、ヘヨカの我儘に巻き込まれているお前にすれば、迷惑千万だな。どれ、一つ昔話でもしてやろう。お前が一番知りたいことだ」
ルーナが指を鳴らすと、ルーナが肘をついているテーブルに、青白い光と共にティーカップが二つ現れた。
「ヘヨカがお前に絶対に話さないことだ。だからお前も、聞いたところで忘れなければいけない。……何を飲みたい?」
「それ、その、意味はあるんでしょうか」
「お前の気が済む。何を飲みたい?」
全てを見透かすような銀色の瞳に、ミカは髪を指先で弄りながら視線を逸らす。生憎今は、ヘヨカに作って貰ったケープは階上に置いてきていた。
「ミルクで」
「そうか。俺は紅茶でもいただこう」
ルーナがカップの縁を指で撫でると、底から湧き上がるようにして、ミカのカップに湯気の立つミルクが現れた。自分のカップも同様に紅茶で満たすと、ルーナはカップを持ち上げて息を吹きかける。ミカもカップを受け取ると、温かいそれを両手で包んでミルクを飲んだ。甘い、蜂蜜がたっぷりと入れられた味がする。
「ヘヨカは、人と関われないよう、神々に呪われている」
ミカが一息ついたところで、唐突にルーナがそう語り始めた。ミルクが喉につっかえたような気がして、ミカはぐっと喉を鳴らす。
「人を心から愛し、愛されなければ解けない呪いだ。だが残酷なことに、この呪いは、ヘヨカをお伽噺の『死神ヘヨカ』たらしめている。……人の姿も、声も、全てが不快に感じる呪いだ。そしてあいつは自分の力の加減というモノを知らない子供だ。故に、不用意にあいつに触れた人間はすべからく、残酷な死を迎える」
心当たりがあるだろう。ルーナに視線で問われてミカは頷く。
先日殺された賊達。その中で最も残虐に殺されたのはその頭であった。そしてその頭は唯一、ヘヨカに直接触れた人間でもある。
「人を愛し、愛されなければいけない。だが人に近付くと不快でならない。心がどれだけ相手を愛そうと願っても、体がそれを拒絶する。そういう呪いだ。……ソールやモルスも酷いことをする」
「……そのモルスっていうのは」
「死の神だ。ヘヨカは殆どの神に嫌われているが、その中でもあの神は筆頭だ。奴に嫌われているから、永久にヘヨカは死ぬことができない」
ソールの言葉が蘇る。ソールと同じく、モルスもヘヨカを許さないと言っていた。
「……それじゃあ永久に解けないままじゃないですか」
「不可能、という訳では無い。ヘヨカに対する罰として課された呪いだ、解けないことはない。事実、昔あいつは人を愛したことがあった」
ルーナは紅茶の表面を見つめ、目を細める。しかし、「それじゃあ」とミカが言って腰を浮かせると、ルーナは「だが」と遮った。
「あいつが『道化師』を名乗っている限り、その日は来ないだろうな」
「え?」
ルーナは窓の外に視線をやり、「時間か」と呟いた。
「神が人の世界に来られる時間は決まっている。それにそのミルクに魔法をかけておいたからお前はこの会話を夢にするだろう」
紅茶を飲み干し、ルーナは立ち上がる。
「ま、待って、待ってください、もう少し、」
テーブルの間を縫って窓へと歩き出すルーナを追い、ミカはルーナのマントを掴む。
「あなたは、ヘヨカ様の味方なんですか?」
「……それはヘヨカの判断に任せる。だが少なくとも俺は、可愛い弟を嫌ったことは無い」
ルーナはふわりと窓枠に飛び乗り、ミカの手からマントがすり抜ける。
「道化師は人を笑わせる存在だ。馬鹿をやって他人に笑われる存在だ。元来ひょうきんでもなければ知恵が無いわけでもないあいつは、自分でその名を自分に課した」
窓の両脇を掴んでしゃがみ、ルーナは、自分を見上げているミカに顔を近づけた。
「その意味が分かるか?」
「……いいえ」
「だろうな。お前はまだ幼い」
ルーナは薄く微笑むと、窓枠を蹴って空中に飛び上がった。月明かりに溶けるようにその姿が薄れていき、やがて完全に掻き消える。
ミカはしばし呆然と空を見上げていたが、やがてふらりと踵を返し、見えない糸で引っ張られているように階段へと向かって行った。




