第十一話
通された浴場は、巨大な木の箱に湯が張られていた。ミカは驚いて女官を振り返る。
「あら……風呂は初めてご覧になりますか? かけ湯だけでは疲れも取れないでしょう。体を洗ったら、ゆっくりお湯に浸かってくださいな」
女官は服の袖をまくり上げて襷で留め、さあ、とミカの肩を掴んで浴場に押し込んだ。
「お召し物も洗って差し上げますから、こちらの籠に。お背中お流ししますよ」
「えっ、そ、そんな、」
「ご遠慮なさらず。テッラ様のお客人なのですから」
「でも、私の身体は……」
ミカは服を握って俯いた。ミカの帯に手をかけ、女官はきょとんとして首を傾げる。
「……私の父は竜なんです。太古より人と竜は相いれないもの……それに、顔だけでなく、身体中至る所に、竜の鱗があります。……とても、醜いんです」
「………………」
「ですから、お風呂はありがたくいただきます。でも、その……」
「……分かりました」
女官はミカから離れ、振り返ったミカに深々と頭を下げた。
「ご無礼を。お客人に不快な思いはさせません。外に控えておりますから、御用のときはお声かけください」
「……はい」
戸を閉めて、ミカはするりと帯を解く。服を籠に入れて隅の棚に乗せ、手桶を取って浴槽の湯をすくった。
日が西に傾き、東の空に月が昇る。神殿の奥の間、テッラの為に用意された部屋では、鮮やかな布がテーブル代わりに敷かれていた。その床に、座布団が並べられている。入り口から最も遠い側にテッラが座り、その向かいにヘヨカが座った。横長な布を挟む二人の距離は、手を伸ばせば届く程度だ。ミカはヘヨカの傍らに正座し、膝の上で手を握った。
テッラは立てた膝に腕を乗せ、黒い盃に酒を注ぐ。
「一人で呑んでも味気ねえ。だが天上の酒は人は呑めねえし、まして人世の酒じゃあ酔えもしねえ。半神のお前ならいいだろう」
料理が運ばれてくる中、くいっ、とテッラは盃を呷って息を吐いた。深い緑色の垂れ目が、ヘヨカと、その傍らで硬くなっているミカを見遣る。
「そうかしこまるな。逗留にあたってのお前の一番最初の仕事だぜ、ヘヨカ」
「己れはともかく、ミカにかしこまるなは無理な話だ」
ヘヨカは足を組んで返す。ミカは透き通るような水色の服を纏い、ヘヨカの服の裾を掴んでいる。長い水色の髪はまだ濡れており、紐で団子状に纏められていた。
「……それにこう見張られてはな」
ヘヨカは仮面の奥で目を細め、壁際の影に立つ男達を見遣る。皆が深緑の帯を肩からかけ、腰には剣を吊るしていた。
「ははっ、勘弁してくれや。お伽噺の死神がいるんだ、警戒くらいさせてやれ」
テッラが酒瓶を差し出し、ヘヨカは息を吐いて白い盃を差し出す。水よりも透明に透き通った液体が、なみなみと注がれた。
「……何杯付き合えばいい」
「俺の気が済むまでだ。なぁに、良い酒だ。悪い酔い方はしねえさ」
テッラがまた一杯盃を空け、ヘヨカも溜息を吐いて盃を口に付けた。
ミカには果実を絞ったジュースが出され、ずらりと並んだ料理に、ミカは困惑顔でヘヨカの服を引く。
ヘヨカはミカを見遣り、ミカの不安顔に目を瞬かせる。だが、すぐに仮面を押さえ、ふっと微笑んで見せた。
「遠慮することはない。どれも美味かろう」
「そうだぜ嬢ちゃん。遠慮しても腹は膨れねえ。嬢ちゃん痩せすぎだ、もっと食え」
「……はい」
「ヘヨカもヘヨカだ。ちゃんと食わせてるのか?」
「そもそもまだ旅を始めて半月も経っていないんだ。……元から痩せていた」
ヘヨカは一杯目の盃を空にする。
ミカは皿に山盛りになった白い蒸し饅頭を取る。真ん中から二つに割ると、ふわりと湯気が立ち、中に詰められていた肉の餡の香りが立ち上った。
思い切って大きく口を開き、ほこほこと湯気の立つ断面をひと齧りする。餡の味と包んでいる皮の柔らかさが口の中に広がり、ミカはぎゅっと目を瞑った。
頬いっぱいに蒸し饅頭を詰め込むミカに、ヘヨカは口元に手をやって視線を逸らした。その様子に、テッラは「ほほう?」と顎を撫でる。
「ヘヨカ、つかぬことを聞くが、お前酒に酔ったことはあるか? 今まで酌はさせたが飲ませたことは無かったよなぁそういえば」
「……ない。どうやら半分と言えど神の身、人の酒では酔わんらしい」
「そうかそうか。じゃあ、酔ったらどうなるかも楽しみだなぁ」
口を曲げるヘヨカに、テッラは二杯目を注ぐ。
「月が天窓にかかったら酌もして貰いてえなぁ。暗けりゃ人の顔も見えねぇ、仮面を取ればお前の顔は女にも負けねえだろう」
「……そこらの女官にしてもらえ。美人もいただろう」
「お前は、竜の酌をしろと言われて平常でいられるかい? ま、そっちの嬢ちゃんでもいいんだがな?」
テッラの言葉に、ヘヨカは舌打ちをして手を伸ばし、その酒瓶を取った。
「己れがやる。だが次にそのタチの悪い冗談を言ったら天上に送り返す」
「そう本気にするなって。このクソ真面目」
テッラは早くも三杯目の盃を空けていた。ヘヨカが酒瓶を差し出し、テッラの盃が酒に満たされる。
「……楽しいねえ。誰かと酒を酌み交わすのは三百年振りだ」
「……その前はいたのか」
「お前の父君だよ」
テッラの言葉に、料理を口に運ぶ手を止めてヘヨカは顔を上げる。
「……父が?」
「ああ。まあお前も千年前に一回逢ったっきりで、父親って感覚は薄いだろうがよ。ルーナには会ってないのか」
「……時折、月がうるさいと見ているとは分かる。だが言葉は久しく交わしていない」
「あいつ、父親の後を継いでるんだぜ。お前も腰帯に付けてる、その金の飾りがあるだろう」
「ああ」
「そいつを、あいつもつがいで持っている」
テッラはまた一杯盃を空け、深く息を吐いた。
ミカは視線を空に逸らし、記憶を辿った。ルーナに会った時、確かにその腰帯には金の飾りがあった。そして、父親の形見だと言っていた。
「お前の父、クリークはな。戦が少ない世になってから役目を無くして隠居したんだよ。地上に降りることも無くなって、天上でのんびりしてやがる。お蔭で俺達みたいに、司るものが消えない神々と会うことも少なくなった。それが三百年前だ」
「……何だ、生きているのか」
「神は不老不死だ。それくらい分かるだろうが。何だ、数少ない肉親に死んでほしかったってぇのか?」
テッラの言葉に、ヘヨカは盃を一気に傾ける。そして、空になった盃を見つめて首を軽く横に振った。
「だが、例え生きていても、二度と会うことはなかろう」
「……ま、人として育ったお前とは相いれないことも多いだろうよ。だが、神々の親兄弟だってちゃぁんと、人の親兄弟並には繋がりがあるんだぜ。……いや、人が神を模してると言うべきか」
「繋がりのあるなしじゃない。己れが許せない」
かんっ、とヘヨカは盃を床に置く。ミカが驚いたように身を竦めた。
「……ほお? 許せないっていうのは初耳だな。ソールの坊ちゃん相手に意地を張ってたのは知ってたが。父親は超えてやると思うもんじゃねえのか」
「……千年前の俺ならばそう言っていただろうな。だが己れは、半分は人間で、いかに星の目を持っていたとしても世界の全てを見通せば己れが壊れてしまう。矮小で脆弱な器だ」
いやに饒舌だな、とヘヨカは自分で自分を嗤う。新たに注がれた酒の、揺れる水面を見つめて、ああ酒のせいかと頷いた。
「父は勿論、兄にも決して敵わない。意地は張るが超えたいとは思わない。……己れは単純に、母の死を一言で片づけた父を憎いと思った」
ヘヨカは俯いて額に手をやる。酒が大分回ってきたらしい。
「そして……未熟者だと追い出し、身一つで世界に放り出すなら……何故殺してくれなかったのかと」
普段ならば吐露しない心内も、酒のせいだと言い訳して、口にする。
「人の身には過ぎた力もこの容姿も、無ければよかったと……モルスに呪われていなければ、殺せば死ぬ身だったんだ。……最初から、」
ぐっ、と唇を噛んでヘヨカはその言葉を噛み殺した。
あの日、エスメラルダの墓に置いてきたはずだ。逃げ出そうとする脆弱な心も、後悔も、過去は全て。
「……『最初から』? 何だよ、折角なんだ吐いてみろ」
「……いや。もういい」
ヘヨカはずれた仮面を直し、盃を傾けて酒と共に言葉を飲み込む。
「何もかも手遅れな愚痴だ」
傍らで、ミカはヘヨカを見上げる。普段は決して見せない、渦巻く感情がヘヨカの横顔には浮んでいた。
「手遅れだからこそ愚痴を吐くんじゃねえか」
立てた膝に肘を乗せ、額に手を当ててテッラは勝ち気に笑った。
「……いいかヘヨカ。何も俺が呑みてえから酒をお前にも呑ませてるわけじゃあねぇんだよ」
テッラはまた一杯盃を空ける。
「まあ呑め。食事が終わったらつまみを用意させよう」
「……ああ」
ほのかに上気した頬に手を当て、ヘヨカは盃に口を付けた。
もう何杯目だ、とヘヨカは空になった盃を睨みつける。既に布の上には料理は無く、代わりに多めの油で焼いた細長い芋と、四角く切り揃えられた果物があった。傍らに居たミカも寝に行って久しい。
「……天窓に月がかかったぜ」
テッラの言葉が、頭の中で響く。
「……そうだな」
ヘヨカは仮面の紐に手をかけた。
部屋の暗がりに、まだ男達は控えている。ヘヨカはそちらに視線を向けないよう、俯いて目を閉じた。仮面の紐が解かれ、膝の上に仮面が落ちる。
「……これで、満足か」
顔を上げると、おお、と周囲から感嘆の声が聞こえてきた。テッラは口の片端を上げる。
「ああ、悪くねえ」
「……己れの顔を見たいなど、物好きだな」
「綺麗なモン見ながらの酒っていうのはまた格別なもんだ」
テッラの言葉に、ふっ、とヘヨカの口元が笑った。
「まあ、面だけならば己れもルーナに似ているらしい、神を名乗れる程度だとは思っている」
「……それに、ずっとヘヨカでいるのは肩が凝るだろうよ」
テッラに言われ、ヘヨカは口をつぐんで盃を傾ける。
酒が回ってきたからか、ヘヨカの頬は赤く、目もとろんとしていた。何度か乱暴に掻いたせいで、銀髪も乱れている。服の襟元も大きく広げられ、だらしなさが目立った。
「そういやヘヨカよぉ」
「……何だ」
「お前、あの嬢ちゃんのことを随分甘やかしてるみたいじゃねえか」
「……何が悪い」
ヘヨカはじろりとテッラを見上げた。
「悪かねえよ」
テッラは笑う。ヘヨカはくいっと盃を空けた。
「むしろ、あれだけ甘やかされても少しも増長しねえ嬢ちゃんだ。もっと甘やかしてもいいと思うぜ。年相応に甘えることを覚えねえと」
「……そうだな」
片膝を立て、ヘヨカは腕をそれに乗せて息を吐いた。
「お前意外と下戸だったんだな」
「……うるさい」
テッラが盃を空け、ヘヨカがそこに酒を注ぐ。
「あの嬢ちゃんからしたら、お前は何考えてるんだか分からねえんじゃねえか? 仮面付けてやがるし、無口だしなあ」
「……大したことは考えていない」
「ほお」
「……髪結いの時も……飯の時も……大体、己れはミカのことしか見ていない……いつでも、ミカは可愛い……」
ヘヨカは額に手を当てて首を軽く振る。その様子に、テッラはにやりとした。
「直接言ってやれよ、そういうことを」
「……気恥ずかしい」
「言わなきゃ伝わらねえぜ?」
「……伝わらなくていいんだ」
ぽたり、とヘヨカの盃に雫が落ちた。テッラは笑みを引っ込め、自分の盃に新たな酒を注ぐ。俯いたまま、ヘヨカは揺らぐ水面を見つめた。
「神々に呪われた己れは、災厄の元になる」
「……やれやれ。治ってねぇなあ、そういう変に卑屈なところよぉ。お伽噺そのままに、でーんとふてぶてしく構えてやがればいいのによ」
「できるものか」
「お前は神の子だろうが」
「だが我が子を殺したんだ」
ヘヨカは空になった盃を握り、乱暴に膝を叩く。
「奪ってばかりで、浅慮で愚鈍だ。意地こそ張れど、そんな俺がどうして愛せよう」
「……そういうことか」
テッラは納得したように頷き、微苦笑を漏らした。
「おかしいとは思ったんだ。千年も彷徨って、別に馬鹿でもなさそうなお前がどうしてソールの坊ちゃんの呪いを解けねえのかと」
「………………」
ぐいっ、と目元を袖で拭ってヘヨカは顔を上げる。
「愛せねえのは、名前も知らない人間じゃなかったって訳か」
「……ああ」
ヘヨカは仮面に視線を落とし、その左目の下、涙の雫が描かれた部分に指を沿える。
「ソールの言う通りだ。……神の力を持とうが、一人も救ってこなかった。己れはどうしようもないくらいに無力な人間だ……手放しで他人を愛する勇気も無い」
ふっ、と自嘲気味の笑みを浮かべ、ヘヨカは仮面を握った。
「そんな俺が、一番憎い」
「……得心がいったぜ。不特定多数の人間でも、もうとうの昔に死んじまった人間でもなく、お前が憎くて愛せないのは、たった一人の名前を持った人間だったって訳か。……それじゃあ憎しみも晴れねえわけだ」
「ああ」
盃に新たな酒を注ぎ、ヘヨカは仮面を置いた。
「己れは、俺が憎い。……殺しても殺しても、しつこく背後に迫ってくる」
酒と共に、こみ上げてくるものを飲み下す。だが吐き出した言葉は止められなかった。
「……ヘヨカ」
「何だ」
「俺ぁもう満足だ。部屋戻って寝ろ」
テッラに言われ、ヘヨカは仮面を掴んで立ち上がる。
「……礼を言う」
「なぁに、お前は俺の酒に付き合っただけだ」
ぐしっ、とヘヨカは目を擦って鼻をすする。テッラは最後の一杯を呷り、ふはっ、と笑いを零す。
「青臭い愚痴も、良い肴だ」
「……ふん」
壁に手をついて、暗い神殿の中を客間へと向かう。扉を開くと、暗がりの中で、既にミカは寝息を立てていた。
「………………」
ミカは丸くなって、枕を抱きかかえるようにして眠っている。長い髪は一つにまとめられ、ベッドから床へと垂れ下がっていた。
ヘヨカはミカの髪の毛を持ち上げてベッドに乗せ、そっと、指先をその頬に触れさせる。手袋越しに、硬い鱗の感触が伝わってきた。
微かに上下する肩も、枕を抱く腕も、細い。自分が力を入れて掴めば容易く折れてしまいそうだ。肉はないが、それでも頬の色はやや明るくなったか。
ヘヨカはゆっくりとミカの頭を撫でると、短く息を吐いた。そして自分のベッドに乗り、酒臭くなった服を脱いで机に放る。
倒れ込むようにベッドに横になると、どろんとした眠気が襲ってきた。そのまま、引きずり込まれるようにヘヨカは眠りに落ちた。
肩を揺すられ、ゆっくりと目を開く。ぼんやりと、水色の影が見えた。
「朝ですよ。テッラ様が朝食だと」
「……ミカ?」
「ええ」
「……ん……」
ヘヨカは体を捻り、手を伸ばして仮面を探す。ミカがその手に仮面を乗せると、ヘヨカはそれで目元を隠して体を起こした。
「すまん」
「いえ……随分呑まれたようですね」
もそもそと服を着ながら、ヘヨカは「ああ」と呻いた。
「テッラは底なしだな……己れも酔ったのは初めてで加減が分からなかった」
大きく欠伸をするヘヨカに、自然とミカは微苦笑を漏らす。
着替えて客間から出ると、女官が待っていた。
女官に案内され、二人は昨夜の間に通される。
「よおお二人さん。朝飯はできてるぜ」
「……あれだけ呑んだのにまだ呑むのか」
テッラは胡坐をかいて盃を傾けた。
「まあいいーじゃねえの。ヘヨカぁ、今日はお前に神様らしい仕事してもらうぜ」
「……了解した」
ヘヨカは溜息を吐く。ミカはヘヨカを見上げて首を傾げた。
「ミカはどうする」
「えっ……私は……」
ミカはパンを握って俯く。
「……どうしたらいいでしょう」
ミカはヘヨカを見上げる。ヘヨカは仮面を押さえ、パンをちぎって口に放り込んだ。
「自分で考えろ」
「……ですが」
「嬢ちゃん。ヘヨカは今日忙しいんだ」
「……すみません」
ミカはまた俯いた。ヘヨカは汁物を啜り、早々に食事を終わらせて神官に連れていかれる。
やや遅れてミカも食事を終えると、ヘヨカはテッラに連れられ、神官達と共に礼拝堂の方へと向かっていた。
「……、」
ミカは目を瞬かせる。ヘヨカは、仮面の代わりに目元まで覆う布を頭から被り、透けるほど薄い布を、服の上から羽織っていた。歩を進めるごとに揺れる布が、きらきらと廊下に光を零す。ミカに気付いたのか、ヘヨカは立ち止まった。
「……ヘヨカ様」
「……今日は、メーロと呼べ」
ヘヨカは、広い袖口を合わせて腕を組む。ミカは姿勢を正して頷いた。
「……仕事だ、行ってくる」
ぽすっ、とヘヨカの手がミカの頭に乗った。ミカが顔を上げると、ヘヨカは顎に手を当て、考え込むように指で何度か唇を叩く。
「もしやることが思いつかなかったら、礼拝堂の、人が群がっている場所に来るといい」
「えっ?」
「では」
ヘヨカは手を振ってまた歩き出す。ミカは撫でられた頭に手を当て、口元を緩ませた。
ヘヨカが見えなくなるまで見送ってから、ミカは客間に戻る。
「あら、お戻りでしたか。失礼します」
「いえ……ありがとうございます」
丁度女官が、ベッドのシーツを交換していた。ミカはぺこりと頭を下げる。女官はにっこりと笑って、洗濯籠を床に置いた。
「お洗濯も終わりましたから、置いておきますね」
「はい」
綺麗に洗濯されて戻ってきた服を、ベッドに広げる。足首までを覆う長いスカートの裾はほつれ、袖口も一部切れていた。ミカは鞄を漁って裁縫道具を取り出す。
「……あ」
鞄の中から、くしゃくしゃになった紙袋が出てきた。開くと、中には、銀色の羽のモチーフの髪飾りが入っている。
渡しそびれてしまった、とミカはそれをベッドに置いて溜息を吐いた。
ルーナに背を押されたあの日、市場で買ったものだ。その後すぐ街を出て、いつ渡したものかと思案していたのだが。
「……ううん」
ミカは自分の左耳の辺りの髪を掴む。ヘヨカに渡されたあのチャームには、どうやら護りの術の類が掛けてあったらしい。ソールの攻撃を受けて破壊されて以来、左の前髪は留めていない。それが、どうも落ち着かなく感じられた。
スカートの繕いを終え、ミカはベッドに座ってしばしぼんやりと天井を見上げる。
「随分、遠くまできちゃったなあ……」
育った宿場町から、ソールの神殿のある街へ。そこから更に別の街まで来た。以前の自分ならば想像もできなかったような旅だ。
「……あれ?」
ミカはふと目を瞬かせ、視線を落として指折り数える。
「……私、まだヘヨカ様と出会って……八日目?」
初日の夜に賊が来た。二日目に賊と戦い、墓を作った。三日目に旅に出て、ソールやルーナと出会った。四日目に道化師としての仕事を知り、五日目にアレグリアの墓に行った。六日目に自分はソールに自分の意志を伝え、この街まで逃げてきた。そして昨日、たっぷり一日休息に使い――――
「……まだ、十日も経ってないんだ……」
不思議、とミカは、何度も繰り返して数えながら呟いた。たったそれだけの日数だというのに、まるで一月も共に旅をしたかのように感じる。
一つずつヘヨカのことを知っていきたいと願った。まだそれは叶っていないが、それもこの日数を考えれば当然なのか。
だが、日を追うごとに、どこか遠い昔――――自分も覚えていないような昔に、ヘヨカを自分は知っていた―――そんな感覚が湧いてくる。きっとヘヨカの言っていたように、自分の魂は、かつてヘヨカと関わりがあったのだろう。
「……身代わりでも、私は構わない」
髪飾りの入った紙袋を胸元に握り、ミカは目を閉じた。
「私はヘヨカ様を、救いたい」
おこがましい想いだろう。自分ごときが飲み込めるような、容易い過去ではないだろう。それでも、ヘヨカのことを知っていきたい。受け入れて、少しでもヘヨカの心が楽になるのなら。あの仮面に閉じ込められていた美しい眼が、解放される手助けになりたい。
まだたった八日なのだ。幾月でも、幾年でも――――自分の持つ時間が許す限りは、ヘヨカの傍にいたい。
「……これは間違いなく、私の本心です……ルーナ様」
確かめるように呟き、ミカはベッドから立ち上がった。




