第十話
街から出て、街道を進む商人の荷馬車。その幌の中で、ヘヨカとミカは、布袋の間からもぞりと顔を出した。ミカは両手で荷物を抱え、傍らに伏せているヘヨカを見上げる。二人共、荷物の間に紛れながら布を被っている。
「……あの」
「話すのは後だ」
ヘヨカが仮面を押さえて舌打ちをする。ミカは身を縮めた。
幌の隙間から空を見上げると、陽は未だ高く上っていた。ヘヨカが素早く、布でミカを覆って陽を遮る。
「日の光に当たるな。見つかる」
「す……すみません」
「……今安全な場所を探す」
ヘヨカは仮面に手を当てた。そしてミカの視線に気付くと、「見るな」と言って布を被る。
衣擦れの音がして、布の向こうでヘヨカが仮面を外したのが分かった。ミカは布を被って床に伏せたまま、緩く唇を噛む。
初めて見たヘヨカの双眸は、吸い込まれそうに美しかった。美しい金色の左目。右目は、やはり美しい、しかし―――体の芯を鷲掴みにされて揺さぶられるような、恐ろしさを覚える星の色をしていた。青みがかった銀髪によく似たその色は、透き通っていて、子供のような煌めきすら感じられる。
日の光が入らない程度に布を持ち上げると、傍らのヘヨカの手が見えた。黒い手袋で覆われたそれに、そっと手を伸ばす。
ヘヨカは真っ黒な仮面で、あの美しい眼を閉じ込めていた。
血の繋がった親兄弟がおらず、忌避の視線と嘲りを受けながら生きてきた。それで仕方がないのだと目をつぶっていた自分と、仮面で目を隠していたヘヨカ。似ていると思うのは、おこがましいことだろうか。
ヘヨカの手に触れた指先が痺れ、ミカは手を引く。だが、ヘヨカの手がそれを捕まえた。
心臓が跳ねて、ミカは零れそうになった声を飲み込む。
「……ミカ、こちらに寄れ」
「えっ……でも、」
ぐいっ、と腕を引っ張られ、ミカはヘヨカと同じ布に入る。
「い、いけませんそんな、」
「己れが構わないと言っている」
「……ルーナ様に、聞いたのです……ヘヨカ様は、人に触れると不快だって」
「………………」
ヘヨカの吐息が聞こえ、ミカは顔を上げる。ミカを両腕で抱え込み、ヘヨカはやはり、仮面をつけたままミカを見つめていた。
「……お前を」
僅かに震える声で、ヘヨカが零す。
「己はお前が生まれてくるのを、五百年……四百九十八年と七月、待っていた」
「……え?」
「その愛しい魂を、ソールの呪いごときで手放すか」
ヘヨカはミカの頭を掴み、自分の胸元に押し付ける。
ゆっくりとしたヘヨカの鼓動が聞こえた。薄暗い布の中、互いの息遣い、心臓の音一つすらも聞き逃さない距離。ミカは震える息を吐き、体を硬くする。
ヘヨカは、自分が生まれてくるのを待っていた。自分の魂を愛しいと言った。
嘗て人を愛したことがあったという、ルーナの言葉がまた蘇る。
「……、」
ぎゅぅ、とミカはヘヨカの服を掴み、額を、その温かい胸元に押し付けた。
夜になり、街道沿いに設けられた医者宿で荷馬車は止まった。商人が宿の交渉をしている間に、ヘヨカはミカを抱えて荷台から降りる。気を張っていた反動なのか、ミカはヘヨカの服を掴んだまま寝息を立てていた。
被っていた布に息を吹きかけて、ケープの形に戻す。ミカのケープは布のままにして、ミカを覆うように広げた。フードを目深に被り、両腕でミカを支え、荷物を肩に掛けて歩き出す。
まだ細いというのに、月がうるさいくらいに明るく照っていた。舗装されていない街道は、道の左右を覆う草と土の比で、昼間のようにはっきりとその形が見て取れる。視線を遠くへと向ければ、うっすらと街の明かりが見えた。
ソールの神殿のある街ほどではないが、それなりの大きさだろう。夜通し歩けば、陽が昇る前には辿り着けるだろうか。
「……己れも、人間臭くなったものだな」
自嘲気味にヘヨカは呟く。
以前ならば、ソールの挑発など全て無視していただろう。攻撃を受けても、或いは腕の一本くらいならばくれてやろうとも思っていた。自分の血が流れて済むのならばそれでいいとばかりに、好きに暴れさせていたはずだ。
だが――――自分の腕の中に、ミカがいる。そう思った瞬間に、ソールを逆撫でし、厳しい逃避行に追い込まれようとも、退けなくなった。
貫き通す自分の意地も、ミカを護りきれなければ、何の意味も持たなくなる。
足元が見えず、石に躓いてヘヨカはふらついた。ミカを強く抱え込み、辛うじて倒れるのを防ぐ。だが、紐が緩んで仮面が顔からずり落ちた。
「……、」
ヘヨカは仮面を拾うと、ミカの体と自分の胸の間に差し込んだ。そうして、何も遮るものが無くなった空を見上げる。
「……嗚呼……」
墓―――その中に眠る死者と向き合う時以外、この仮面を外すのは眠るときくらいだ。こうして目を開き、空を仰ぐなど、何時振りだろうか。
黒いもので遮られていない、何処までも広がる夜空の、なんと美しいことか。
「―――――、」
口を開き、ヘヨカは歩きながら、詞を呟いた。途切れ途切れの言葉はやがて一つの詩となり、旋律によって唄となる。
遠い昔に覚えた、子守歌だ。消え入りそうな声が紡ぐ音色が、夜風に溶けてゆく。涼やかな風が、足元をすり抜ける。草葉が擦れて、さわさわと音を立てた。
静かな旋律の子守歌は、やがて、遠い地で待つ家族へ向けた旅人の歌となる。
旅人は、宿の無い荒野を、天の星を目印に進む。月は旅人の行く先を照らし、いつか分かれた家族も、同じ月を仰いでいるのだろうか――――。歌いながら、ヘヨカは目を細めて月を見上げた。
父は戦の神―――戦を勝利に導き、国に平和をもたらす神。兄の一人は旅人の行く先を照らし、闇を守る月の神。兄のもう一人は世界をあまねく照らし、繁栄と再生の証となる太陽の神だ。母以外、誰一人として欠けていない。
だが、地上に立って空を見上げるのは、自分一人だ。
未熟者だと断じられ、出直せと地上に落とされたとき、その絶望は自分の道を暗黒に閉ざしていた。それほど、自分は神の子であることに縋っていた。
だが―――名を棄て、抱え込んでいたあらゆる思いも過去のものにして、身軽になってしまえば、それが如何に幼い狭窄な視野だったかが分かる。
ヘヨカは言葉を切り、足を止めた。軽いとはいえミカはヘヨカの胸元まで背丈がある。眠って力が抜けたその体は、少しでもヘヨカが力を抜けばずり落ちてしまいそうだった。自然と息が上がり、腕がじんわりと疲労してくる。
それでも、重なった胸から伝わる鼓動が、夜風に混じる吐息が愛しく、ヘヨカは口元をほころばせてまた歩き出した。
木を編んだ柵で、その街は囲われていた。門に当たる部分には番兵がいるが、二人共棒を抱えて座り込み、舟をこいでいる。
ミカを再度抱え直し、ヘヨカは足音を殺して柵を超えた。
白石の城壁で囲まれた、石造りのソールの街とは違う。近くの山林から切り出されたらしい木々で家は作られていた。道は焼き煉瓦で舗装され、夜空の下では街は闇に沈んでいる。
東の空は暁に染まり始めていた。ヘヨカは街の北側へと足を向ける。
「……ん……?」
ヘヨカの腕の中で、ミカが身動ぎをした。それに気付き、ヘヨカは一旦足を止める。しゃがんでミカを膝に座らせると、その間に仮面を目元に付けた。
「ふぁれ……ヘヨカさま……?」
「ああ、起きたか。すまんが少し急ぐぞ」
「へっ……は、あえっ!?」
抱きかかえられていることに気付いたのか、ミカは目を丸くする。
「ヘヨカさま……?」
「日が昇ってきた。光が差す前に―――」
足を早めていたヘヨカが、突然立ち止まった。寝起きに振り回され、ミカの頭がぐわんと揺れる。ほぼ反射的に、ミカはヘヨカの服を掴んだ。
「……?」
ミカは、ヘヨカと同じ方向に視線を向ける。
街の北側へ抜ける通りの突き当たりには、神殿があった。建物はやはり木でできており、周りの建物よりいくらか大きい程度か。しかし床は柱で支えて持ち上げられ、屋根の交差部分から突き出した飾り柱には、銀の金属の板がかかっていた。神殿の証、神の紋章だ。
その、ソールのものに比べればあまりに素朴な神殿の階段に、一人の男が座っていた。
「よーぉヘヨカぁ。そろそろ、来る頃だと思ってたぜ」
しゃがれ声で言った男は、深緑の布で出来た服を纏い、手には黒い盃を持っていた。髪は短い黒で、整えられていないかのようなざんばらだ。
「ソールの坊ちゃんに追われてんだろぉ。匿ってやるよ、来な」
暁の薄暗さの中でもはっきりと、ヘヨカの口がへの字に曲がるのが分かった。ミカは困惑しながら、男とヘヨカを見比べる。
「……すまん」
だが、ヘヨカは軽く頭を下げて男に近付いた。男は盃を傾けて空にし、豪快に笑う。
「礼が言えるたぁ殊勝になったもんだ。どら、その嬢ちゃん貸しな。一昼夜飲まず食わず寝ずだろう」
「断る」
ヘヨカの言葉に、また男は笑う。ヘヨカが階段の前に着くと、男は立ち上がって踵を返した。男に導かれるまま神殿に入り、ミカを床に降ろす。
「あの、すみませんでしたヘヨカ様」
「……かまわ……な」
「えっ、あの、ヘヨカ様?」
ミカを床に降ろし、膝を付いたままヘヨカはぐらりと傾いだ。ミカは両手でその体を支えようとするが、止めきれずにヘヨカは床に倒れ込む。
「きゃっ……ヘヨカ様、ヘヨカ様っ!」
「あー……」
男が振り返り、がりがりと頭を掻いた。
「安全な場所に入って、気が抜けたんだろう。寝床に運んでやるから、お前もついて来い」
男はそして、ヘヨカの体を軽々と担ぎ上げた。驚くミカをよそに、男はすたすたと奥へ進んでゆく。ミカはヘヨカの荷物と自分をくるんでいた布を抱え、早足で男の後を追った。
神殿の奥の部屋を開くと、簡素な寝台と小さな机のみの部屋だった。男はヘヨカをベッドに寝かせる。小さな窓にはカーテンが引かれており、部屋の中は暗い。
「ったく……神官どもも起きちゃいねえのに、客人たあちと面倒になりそうだ……昼にはこいつも起きるだろう。嬢ちゃんももうしばらく寝ておきな」
「……あ、ありがとう、ございます……」
ミカが深々と頭を下げる。男はにやっと笑い、無精髭のある顎を撫でた。
「なぁに、こいつとは三百年以上の付き合いだ。ま、起きたら言ってくれや。この地神様に運ばせるたぁいい度胸してやがる、と」
驚いてミカが顔を上げると、男はまたにやりとした笑みを見せて扉を閉めた。
ヘヨカが寝台から起き上がったのは、昼過ぎの礼拝が終わった頃だった。寝癖のついた頭に手をやり、ヘヨカはベッドに座ってぼんやりとしている。
「ヘヨカ様……?」
「……ん……ああ、すまん……まだ頭が寝ている……気分が悪い」
「ばぁか、腹ぁ減ってんだよ。飲まず食わずで夜通し歩いたんだろぉが」
扉の横に寄りかかって、無精髭の地神は言う。ヘヨカは仮面を押さえ、じろりとそちらに視線を向けた。
「すぐに飯は用意させる。ソールの坊ちゃんが来たら追い返してやる。養生しろ」
「……ああ」
「代わりに今晩からは働いてもらうぜ」
男の言葉に、ヘヨカは露骨な溜息を吐いた。
男が去り、ミカはヘヨカの傍らに座ってヘヨカを見上げる。
「あの、ヘヨカ様、あのお方は……」
「地の神、テッラだ。……以前から、何かと世話になっている」
ヘヨカは頭を掻き、緩めていた服の襟元を整えた。
「……ここは、ソール様の街からは遠いのですね」
「ああ。……まあ、ソールの神殿は至る所にある。一概に逃れられたとは言えない」
「どれくらい、逃げればいいのでしょう……」
「ソールの気が収まるまでだ。いつもなら七日もすれば落ち着く」
「七日……」
その数字が、長いのか、短いのかは分からない。だが、少なくとも七日は、身動きが取れないということだ。
「そら、飯だ飯。腹いっぱい食って元気になれ」
手に盆を乗せ、テッラが入ってきた。スープとパン、山盛りのサラダが乗っている。
「……ああ」
「それと、女官に話は通してやるから嬢ちゃんは風呂に行くといい」
「えっ……あ、す、すみません、お気遣いいただいて……」
「そこは『すみません』じゃなくて『ありがとう』だぜ嬢ちゃん」
テッラはぽんぽんとミカの頭を撫でる。ミカは身を竦め、蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」と呟いた。
テッラが再び出ていき、ミカは息を吐く。神々との対面は、何度繰り返しても緊張するものだ。例え人と似た姿を取っていたとしても、神々という存在は、余りに大きく、遠い。
ヘヨカが食事を始め、ミカはその傍らに座って口を閉じた。
「…………」
ぽすっ、とヘヨカの手がミカの頭に乗る。ミカは驚いてヘヨカを見上げた。ヘヨカは片手でパンを口に運びながら、ミカの頭をぐりぐりと撫でる。
「へ、ヘヨカ様?」
ミカが前髪の間から様子を伺うと、ヘヨカは手を離し、ミカを見遣る。
「神々の相手は疲れるだろう」
「……いえ、そんな」
「神連中は気分屋だが、人に干渉するとなれば代償がある。少なくとも、お前は安全だろう」
「そうなのですか?」
ソールが突然に攻撃を仕掛けてきたので、てっきり何でもできるのだと思っていた。ミカは首を傾げてヘヨカを見上げる。
「人は既に大地に根付き、生きて世界を造っている。それに神々の手を入れるなら、無制限と言う訳にはいかない。……昔、ソールは一つの村を竜の手から救う為に、一人の赤子の命を代償にした」
ヘヨカはパンをむしり、ミカに差し出す。ミカはそれを受け取って俯いた。
「その赤子が俺の子供だ」
「えっ!?」
突然の告白に、ミカは思わず声を上げる。
「ヘヨカ様……お子様が?」
「……少しおしゃべりが過ぎたな」
ヘヨカはミカから顔を逸らした。
「そのお子様とのことが……ソール様との因縁に繋がっているのですか?」
「いいや。……その赤子は……」
ぐっ、とヘヨカは口元を押さえて俯く。ミカが首を傾げると、口を噤んで首を横に振った。
「何でも無い」
「……そうですか」
「また少し寝る。お前も風呂に行ってくるといい」
ヘヨカは空になった盆を机に置き、靴を脱いでベッドに横になる。
「……はい」
ミカは荷物を抱え、丸まったその背中に困惑の視線を向けた。




