第九話
朝焼けが、山の稜線を染める。秋の朝は空気が澄んでいた。ミカは寝袋から出て伸びをする。暁の空は金色に染まり始めていた。
焚火の方を見ると、ヘヨカは外套を羽織り、座ったまま腕を組んで眠っていた。仮面は外され、膝の上に置いてある。
ミカは物音を立てないよう、その向かいにしゃがんだ。
寝顔を見るのは二度目だ。開かれた眼を見たのは一度、それも横顔だった。左目は、綺麗な金色をしていた。静かな目で、二つの首飾りや腰の飾り、そして仮面を、とても大切そうに拭いていた。
改めて見ても、やはり整った顔をしている。双眸が開かれればどれ程美しいのか―――いつか、見せて貰えるだろうか。
朝の冷たい風が吹き、ミカはくしゃみをする。びくっ、とヘヨカの肩が動き、ミカは起こしてしまったかと肩を竦めた。
「ん……」
軽く身動ぎをして、ヘヨカは眉宇を顰める。それから手探りで仮面を握ると、目元に押し当ててから顔を上げた。
「……おはようございます、ヘヨカ様」
ミカが言うと、ヘヨカは「ああ」とだけ返事をする。
「眠れたか」
「はい。寝袋を使ってしまってすいません……」
「己れは慣れている。……街に戻って、お前の分も買おう」
「えっ、そんな、私こそ外套で十分です!」
「じきに冬になる。山沿いの風は、厳しい」
ヘヨカは手袋をはめた手でミカの頭を撫でる。
「……ありがとうございます」
ミカははにかむように笑った。
ヘヨカは立ち上がり、西の街を見下ろす。その仮面の奥で、色の違う双眸が細められた。
「……ヘヨカ様? どうかされましたか?」
「ああ……いや、何でもない。柄もなく昔の夢なぞ見たから、少し懐かしく思っただけだ」
ヘヨカは頭を振り、焚火に新たな枝を足して火を入れる。
昔の夢。その言葉に、ミカは焚火を見つめて俯いた。
当然ながら、ヘヨカには自分が知らない過去がある。その何かがあって、神々に呪われ、今もこうして生きている。
五百年以上の時を生きていると平然と口にするが、その時間は、人と同じように過ごすヘヨカにとって、どのようなものだったのか。
「……ヘヨカ様」
地面に座り、ミカは膝の上で手を握る。
「私は、ヘヨカ様の事情を存じ上げません。何も知りません。ですが、」
ミカは自らの胸に手を当て、顔を上げて真っ直ぐにヘヨカを見つめた。
「知っていきたいと、思っています。ヘヨカ様のことを少しでも知り、理解したいのです。勿論、私のような小娘に話すことは無いのかも知れませんが……」
尻すぼみになって俯いたミカの眼前に、器が差し出される。中には湯で溶かした粥が入っていた。ミカが顔を上げると、ヘヨカがそれを突き出していた。
「朝飯だ」
「あっ……すみません、ありがとうございます」
ミカが器を受け取ると、ヘヨカは自分の分も器に盛って匙を突っ込んだ。黙々と粥を口に運ぶ様子に、ミカは匙を持ったまま僅かに唇を曲げる。
精一杯の勇気を出したつもりだったが、その是非すら答えてはくれないのだろうか。
「あの」
「己れの過去は人に話すようなものではない」
口を開いたミカに合わせるように、ヘヨカがそう言った。
「……それにもう、名を棄てた身だ。過去は変わらぬ事実。現在はその残響に過ぎない。己れがお前を気に入った理由も、確かに過去にある。だがそれを知ってお前はどうする」
「……私は、ヘヨカ様のことを知りたいのです。そこに理由なんかありません」
「……そうか」
「ヘヨカ様はお優しい方です。どうして神々に呪われてしまったのか、どうして名を棄てたのか、どうして私に恩情をかけてくださるのか……知りたいと思うことは、罪ですか?」
ミカの言葉に、ヘヨカは黙って粥を啜った。
「罪ではない。だが己れの気が進まん」
「少しずつでもいいんです。いつかでも」
ミカが身を乗り出す。ヘヨカは僅かに唇を曲げた。
「誰に何を吹き込まれた……」
ガリガリとヘヨカは頭を掻く。これはもしかすると、困っている顔だろうか、とミカはヘヨカを見上げた。
「……己れは」
ぽつりと、ヘヨカがミカを見下ろして呟いた。
仮面の奥で、目が細められる。その手がゆっくりと、ミカの頭を撫でた。驚いたような顔をするミカの頬まで手が滑り、ヘヨカの口元が緩む。
「優しくなんかない」
「……そんなことありません」
現にこうして自分に触っているのに、とミカは俯く。だがヘヨカは黙って首を横に振った。
「街に戻るぞ」
「……はい」
「……気になるなら、ソールかルーナにでも聞くといい。特にソールなどは、喜んで話すだろうな……嘲りながら」
ヘヨカは荷物を片付けて立ち上がる。ミカはヘヨカの小指を握り、歩き出したヘヨカの背を見上げた。
昼過ぎ、太陽神の神殿は当然のように人が多く集まっていた。正午を過ぎれば午後の礼拝がある。銀貨を握り、ミカは目深にフードを被って壁際を歩いていた。
不意に、人々の間にざわめきが広がる。ミカは振り返り、そこに立っていた青年の姿に息を飲んだ。金髪に金色の目の美青年、ソールだ。
「やあ。また来てくれたんだね、ミカちゃん」
「……ソール様……」
「どうせヘヨカのことだろう? おいでよ。奥でゆっくり話そうか」
「あ、あの!」
ミカが声をあげ、踵を返していたソールは足を止める。太陽神の登場に、周囲の人々は次第に静まりかえり、ミカとソールから遠ざかり始めていた。
「何だい」
「わ……私は、勿論、ソール様からすれば、何も知らない小娘だと思います。千年以上この世界にいらっしゃる神様とは違いますから。でも、」
震える手を硬く握って、ぐっ、とミカはソールを見据えた。
「誰に何と言われようと、私はヘヨカ様のお傍に居ますから」
真っ直ぐなミカの視線を受け、ソールは僅かに驚いたように口を開く。宣言を終え、ミカは気が抜けたように息を吐いた。
「そう」
しゃらん、と足の輪を鳴らしてソールはミカに近付く。ミカはびくりと体を竦めた。
「言ったよね。制裁の対象になるって」
「ええ……でも、私は自分の身が可愛いからと、恩を仇で返すようなことは出来ません」
「……もう一度だけ、チャンスをあげよう」
ソールは右手の人差し指と中指だけを立て、その先端をミカの額に向けた。
「ヘヨカに、拠り所があるのは困るんだよ」
「……それは、ソール様の事情ですよね」
微かに震える声で言う。
「そうだね。僕とヘヨカの問題だ。いわば僕の勝手だよ」
ソールの金色の目が細められ、指先に青白い光が迸った。
「だからこそ、君を排除するのも、僕の勝手だろう?」
ばちんっ、と、光が弾けて音を立てる。ソールの髪が風もないのに揺れ、周囲に光が満ち始めた。ミカは薄暗い壁際に退き、ケープを握る。
人込みを掻き分けて、番兵が現れた。その背後には、ローブを着た老人もいる。この神殿の司祭だ。司祭はソールを見、息を飲む。
「ソール様!」
司祭が声を上げた。
「ソール様、どうかお鎮まりください」
「悪いね、君達には関係無いから逃げているといい」
ソールが言い、轟っ、と風がソールを中心に渦巻いた。ひゅっ、とミカは息を詰まらせる。膝から力が抜け、普通の人間と同じ外見のソールが、まるで山のように大きく感じられた。
否応なしに、ソールが世界の光を司る最高神なのだと理解させられる。人と同じ姿をしていても、そこにいるのは自分のような小娘とはまるで違う、誰もが知る圧倒的な存在―――
前髪を留めていた、銀色の髪飾りがはじけ飛ぶ。ミカは目を瞑って体を硬くした。
「……成程、ヘヨカも無防備じゃないか」
ソールが呟き、ミカは困惑してそれを見上げる。ぱきっ、とソールは、転がっていた髪留めを踏んでミカに近付いた。
髪飾りは、ピンと飾りがバラバラになり、色もくすんでいた。星の装飾は割れている。ミカは唇を噛み、涙を浮かべてソールを見上げた。
しかし、一歩ずつ近づいてくるソールの圧に、ミカの膝ががくりと折れる。ソールの指先から、二度目の不可視の攻撃が迸り、視界が真っ白に染まる――――
「ミカ」
名を呼ばれたのは、その刹那だった。
白く塗りつぶされていた視界が、黒に変わる。背中が柔らかいものにぶつかり、崩れ落ちそうになった体は腰から支えられた。
「遅くなったな」
耳元で囁くのは、ヘヨカの声だ。
「……ヘヨカ様……?」
「ああ―――もう、大丈夫だ」
消え入りそうなヘヨカの声音に、ミカの体から一気に力が抜ける。
ミカの目を塞ぎ、背後から抱き留める形で、ヘヨカは出現していた。
「……やあヘヨカ」
ソールが手を降ろして言い、あれが、と周りの信者達が囁き始める。ソールが手を突き出して信者を黙らせ、ヘヨカはミカを抱き留めたままソールを見上げた。
「予想はしていたけど、本当にその子が大切なんだね」
「………………」
「いいよ。君の大切に手を出そうとした。怒っても良いんだよ? モルスには僕から謝っておくからさ」
「今更貴様の安い挑発に乗るほど阿呆ではない」
「ふうん? 人間のくせに神様に喧嘩を売った阿呆の台詞かな。随分と殊勝になったね」
ソールは腕を組み、首を傾げる。
「……人間のくせに、か」
ヘヨカはミカの頭を抱えて抱き寄せ、フードを降ろす。
「そう。人間のくせに。一言『ごめんなさい』と言えば許してあげるのに。もう千年だよ?」
「……貴様にだけは、死んでも屈しないと誓ったのでな」
「そういうのを、愚かって言うんだよ」
ソールが手を振った。光が弾け、不可視の力がヘヨカへと向かう。ヘヨカが右手を突き出した。その掌から力が左右へと分かれ、壁に当たって弾ける音がする。
「……理解に苦しむよ、本当に。何がしたいのさ。そんな形ばかりの道化の面を被って。冷静沈着で達観したように振る舞うくせに、自分の大切ばかり抱え込んで」
「……意地の問題だ」
「そのために自分が永久に救われなくなってもかい」
ソールの四度目の攻撃を、またヘヨカはいなす。ヘヨカの腕の中で、ミカは身を固めて震えていた。ヘヨカはミカの顔を胸元に埋めさせ、左腕で頭を掴んで更に引き寄せる。
「今更、己れが救われる道理が、あるものか」
ヘヨカは、衝撃でずれた仮面を直して呟く。ぎりっ、とソールの歯が鳴った。
「――――お前のそう言うところが嫌いなんだよ!」
ソールが声を荒げ、金色の髪が炎のようなまばゆさを放つ。ヘヨカは唇を噛み、右手を垂れ下げて指先を床に触れさせた。
「神の子であることが自分の全てのように言っていたくせにさ」
「……何百年前の話をしているんだか」
ふっ、とヘヨカの口元が笑う。
「己れを人間だと断じたのは貴様だろう。今も人間だと言って嘲るのは貴様だろう。……太陽神、そう言ったお前が、人間のように己れが振る舞うことを、どうして貴様が拒む」
「……気に入らないって言っただろう」
「……まるで」
ソールの嘲りを真似るように、ヘヨカは肩を竦めてみせた。
「まるで餓鬼の理屈だな」
「それは君も同じじゃないか」
「貴様と違って人間には終わりがある。……生憎、己れも血も涙もある身だ。永久に魂が救われなかろうが、今更知ったことか……餓鬼の理屈にも意地はある」
「……僕に屈しないことで、何かを護れるつもりかい」
「己れが護れるものなぞ……大してなかろうが」
だが。ヘヨカは仮面の奥で視線を鋭くしてソールを睨み据えた。
「例え世界全てを敵に回し、己れが永久に孤独と苦痛に苛まれることになったとしても。千の別れと万の挫折を味わったとしてもだ。五百年の昔に己れが己れに課した生き方だけは、曲げるつもりはない」
「……いい、度胸だ」
怒気を押し殺した、震える声でソールが言う。
「そうやって、その子が死んだら今度はその子の墓も守り続けるのかい。永久に」
「…………」
一瞬、ヘヨカは言葉に詰まった。その瞬間、ソールの攻撃がヘヨカの頭を横殴りにする。
「っ!」
紐が切れ、ヘヨカの仮面が飛んだ。遠くで野次馬の誰かが悲鳴をあげ、からん、と仮面が落ちる音がする。
「遊びの時間は終わりだ……!」
「奇遇だな」
つぅ、とヘヨカのこめかみから血が流れ出した。ヘヨカは指先にその血を絡ませる。
「己れも終わりにしたいと思っていたところだ」
その指先が持ち上がり――――真っ直ぐに、ソールを指差した。
「去れ」
ヘヨカが命じる。
瞬間――――ソールの背後の景色に、亀裂が走った。
「っ!」
縦に鋭く一線。そこから光の筋が数多伸びて、巨大な魔法陣を形作る。大きな一つの円に六芒星と同心円、細かな文字。更にその円に付随するように三つ、外側に小さな円陣。ヘヨカにとっては因縁深い、神々の世界へ続く門だった。
開いた扉の奥、漆黒に満たされた場所が大口を開けてソールに迫る。片腕が漆黒に飲み込まれ、ソールは顔を歪めてヘヨカを睨み据えた。
「レサル・メーロ! まだ逃げるのか、お前は!」
ソールの怒鳴りを拒絶するように、ヘヨカは腕を振る。音を立てて魔法陣が閉じ、光は霧散して消えていった。
後には、何も残っていない。
満ちていた光が消え、神殿内がやや暗くなる。遠巻きにしていた信者達や、番兵の後ろで腰を抜かしていた司祭も、まるで息をするのすら忘れたようだ。
ヘヨカは、沈めていた腰をゆっくりと浮かせる。頬を伝った血が、顎から服へと落ちた。
痛いほどの沈黙を破ったのは、ヘヨカの溜息だった。
「ミカ、立てるか」
「……、」
「逃げるぞ」
へたり込んでいたミカは、怯えた表情でヘヨカを見上げる。ヘヨカは目を瞬かせ、それから自分の顔に触れて、はっとした顔になった。
ヘヨカは右目を片手で覆い、辺りを見回す。そして、やや遠い所に落ちていた仮面を拾い、埃を払って目元に押し付けた。ケープのフードを目深に被り直すと、再びミカの前にしゃがむ。ミカはケープを握り、震えて浅い呼吸を繰り返していた。
「……逃げるぞ」
「……す、すみません、ヘヨカ様……私、」
ミカの視線が、無残な姿になった髪留めへ向く。ヘヨカは息を吐き、その残骸を拾い上げて懐に入れた。
「すぐに直る。……立てないか」
「あっ、」
「ならいい」
ヘヨカが両手を広げ、ミカの腰を掴んで持ち上げる。
「えっ!?」
そのまま、ヘヨカはミカを抱えて立ち上がった。ミカの腹はヘヨカの肩に乗っている。戸惑うミカに構わず、ヘヨカは足早に神殿の出口へと向かった。畏怖の表情を浮かべる信者達が道を開け、忌諱の視線を受けながらもヘヨカは表情を変えずに階段を下って行く。
「……すまなかったな」
「えっ、」
「己れが巻き込んだ」
階段の最後の一段を下り、ヘヨカは息を吐く。
「い……いえ! そんな、私が撒いた種ですから……」
「……優しいのはお前の方だな」
ヘヨカの言葉に、ミカは唇を噛む。目の奥が熱くなり、鼻がつんとした。
「……逃げるのですか?」
「……この世の果てまで行っても、奴の目は常に太陽にある。夜が来ない限り安息の地はない。あれだけ荒ぶっていたのだから、掟など無視するだろう」
「じゃあ、」
「こちらには星の目がある」
ヘヨカは安心させるように、抱えたミカの腰をぽんぽんと叩いた。
「ほとぼりが冷めるまで、身を隠すぞ」
そう言うと、ヘヨカは仮面の奥で、右目をじっと細めた。




