-第一話
ぱちん、とストーブで木が爆ぜる音がした。
「レサル、もう起きられる?」
「ああ……」
「ごめんね……あたしの為に戦ってくれたんだよね」
「…………謝るな」
口を開き、しかしその先紡ぐ言葉が見つからずレサルは俯いた。
戦った。口で言えばその通りだが、実際あれ程無様なことはない。最後の最後に、神に助けられたのだ。自分で喧嘩を売っておいて、後始末は他人に任せた―――
「……くそ」
この歯痒さはいつぶりだろうか。他人に苛立つことは幾多あった。だが、自分の力不足に苛立つのは久し振りだ。
「でも、レサルの気持ち、無駄にしちゃった……」
「?」
「あの日、金色の神様が来てね」
エスメラルダはレサルに近付き、ベッドに腰掛ける。レサルは青白い顔で額に手を当てた。
「長さんがあたしを家に連れて帰ってくれて、目を醒ましたら、外から凄く怖い声がしたの。それで、レサルが竜と戦ってるって教えられて。耳を塞いで二人で震えてたら、突然部屋の中に人が現れてね。太陽の神様だって言ってた」
エスメラルダは俯き、レサルの手を握る。
「それで、こう言ったの。『流石の彼も七匹の竜には勝てない。襲われるかも知れない村も一緒に助けてあげる』って」
「……それで?」
「……それで、」
震えるエスメラルダの手を、レサルはそっと握り返した。エスメラルダは涙を拭う。
『本来君は死に、村の人は助かる筈だった。僕達神はあまり人の営みに入っていけないからね。その状態に戻す。……代償として、君の中にいるその命を貰う』
そう言って、ソールはエスメラルダの腹を指差したという。
『選ぶと良い。その命か、村人か』
「そう言われて、あたし……レサルとの子供がいたんだって凄く嬉しかったのに、……」
エスメラルダは、握った手を額に当てた。
「ごめんね、レサル……赤ちゃん、死んじゃった……ごめんね……」
「……メル」
「名前まで考えてたのにね……ごめんね、あたし……」
「メル」
レサルはエスメラルダの顎に指を当て、上を向かせた。涙でぐしゃぐしゃの顔を両手で包み、噛み付くように唇を重ねる。
「謝らなくていい」
「……でも、」
「俺が悪いんだ。……俺が、勝てると思ったから……俺が、」
慰めようと紡いだ言葉が、そのまま自分に突き刺さる。嗚咽が漏れそうになり、レサルは俯いて唇を噛んだ。抱き寄せたエスメラルダの震える肩が、ぞっとするほどか弱く感じられた。
「……最初から」
絞り出すように、レサルは呻いた。
「……俺だけが、居なければ良かったんだ」
吐き出された言葉は、エスメラルダの嗚咽に掻き消されてゆく。
結局泣かせてしまった。涙を拭うことも護ることもできなかった。凍てついていた心を溶かし、世界に色を付けてくれたこの少女に、結局自分は何も返せていない。
一緒に死んでしまいたいとすら思った。いずれ必ず、エスメラルダは自分より先に逝く。自分の魂は、もう何処にも――――死の神モルスが許さない限り、還ることはできない。
死なないからこそ、後のことを度外視して戦えると思ったのに。腕の一本、足の一本くらいなら失っても構わないとすら思ったのに――――五体満足で、自分はここにいる。
そして代わりとばかりに、生まれてくるはずだった命は消えていた。
世界を見通す力。神の眼を持っていながら、自分は――――こんなにも、無力だ。
「……俺だけが」
どす黒いモノが、じんわりと心の奥底に溜まってゆく。それが憎しみだと、今は知っていた。涙すら出ない目を瞑って、吐き出したくなるそれを飲み下す。
固く閉ざされた目が次に開かれたとき、その両の眼は酷く穏やかで―――しかし既に、光を宿してはいなかった。
家を出ると、春の風が吹いていた。ゆっくりと息を吸い、レサルは胸元を握る。
―――忘れていた不快感が、蘇る。その理由は自分自身が誰よりも知っていた。
「レサル……?」
眠そうに、目を擦ってエスメラルダが出てくる。それを振り返り、レサルは微笑んだ。
「おはよう」
「うん……こんな朝早くにどうしたの?」
「少し、やることがあってな」
レサルはエスメラルダの頭をぽんぽんと軽く撫でる。
「大丈夫だ。メルはまだ寝ていると良い」
「……うん」
欠伸を噛み殺し、エスメラルダは中へ戻って行く。レサルはそれを見送ってから、踵を返して歩き出した。
山の稜線を金色に染めながら、朝日が昇ってきていた。レサルは家の物置から借りてきたシャベルを地面に突き刺し、山のふもとに置き去りにしていた竜の遺骸に近付く。
血は既に地面に染み込み、辺りを赤黒く染めていた。黒光りする鱗は朝日を反射し、鋭い縁が鈍く光る。
大人の竜の遺骸が一つ、子供の竜の遺骸が五つ。竜の鱗、とりわけ黒竜の鱗は希少で鎧や武器になる。気性の荒い黒竜を捕え、鱗を剥ぎ取るには王の騎士団が十は必要だ。
「つっ……」
研がずとも剣のように鋭い鱗が、触れたレサルの指先を裂く。だがレサルはその指先を咥えて血を舐め取ると、懐から竜骨のナイフを取り出して鱗の隙間に捻じ込んだ。
竜の鱗は、鎧、盾、武器、装飾品に。爪も勿論武器になり、乾燥させて磨り潰せば薬にもなる。骨も爪と同じように加工でき、錆びることの無い刃として重宝される。飛竜の持つ翼膜は獣の革より硬く頑丈で、革鎧や船の帆、荷馬車の幌になる。肉はあまり需要が無いが、食べられないことは無いだろう。
どれにおいても、黒竜は特に丈夫で、希少だ。鱗の数枚でも流れの商人に渡せば、田舎町なら向こう一年は生きていられる金が手に入るだろう。
竜の頸筋から、一枚一枚鱗を剥いでゆく。大人の竜から、分厚くて大きな鱗を十数枚。子供の竜から、まだ柔らかい小さな鱗を十数枚ずつ。転がっていた子供の首は、うち一つをそのまま、剥いだ鱗の隣に並べた。翼膜は大人のものを半分だけ切り取り、剥いだ鱗と首をその上に乗せる。爪や牙、骨には手を付けず、仔竜の翼もそのままにした。
「……さて」
レサルは翼膜を持ち上げて、剥ぎ取った素材を挟み込む。そして上と下の翼膜をナイフで貫いて留めると、シャベルを持って竜の遺骸に向き直った。
希少な素材の塊である竜の遺骸が、六つ。そのどれも、殆どが原型を留めている。狩人にすれば垂涎ものだろう。だがレサルは表情を変えず、シャベルの先端で地面を削りながらその周囲を歩く。ぐるりと竜の遺骸を円で取り囲むと、レサルは目を細めて片手を突き出した。
ゆっくりと、地面から水滴が空へ向かって昇って行く。それは赤黒く濁った、竜の血だった。円に沿って内側から持ちあがった血は、半球の膜となって竜の遺骸を包む。
レサルが掌を空へ向け、手を振り上げると、半球は竜の遺骸ごと空に浮かび上がった。その途中で下半分も膜が張られ、完全な球となる。
レサルはシャベルを担ぎ、その球を浮かせたまま歩き出す。浮かぶ球はレサルのやや後ろを付いてくるように動き出した。
村へと下る道から逸れて、小川の木橋を渡る。そこから川に沿って遡り、山沿いにしばらく歩くと、エスメラルダの家は見えなくなった。
気性が荒くとも、村を一瞬で壊滅させるような力を持っていたとしても、決して竜は知恵の無い生き物では無い。
遺骸を降ろし、レサルはその場に立って待っていた。
東の空が燃えるような赤から金色へ変わり、やがて、藍色の空は透き通るような水色へと変化する。風は花の匂いを含み始めていた。
遠くの空から、黒い影が近付いてきていた。レサルはそれを見上げ、合図をするように両手を広げる。影は――――竜は、真っ直ぐにレサルの前へと降り立った。
「人の言葉は分かるか」
レサルが声をかける。竜は長い首をもたげてレサルの前に顔を近づけ、小さく頷く。
「―――竜が最も怒るのは、自らの縄張りに踏み込まれたとき……そして、仲間の遺骸を食い荒らされた時だと聞いている」
竜はまた頷いた。レサルは目を閉じ、長い息を吐く。
「取引をしないか」
帰りがけ、木橋の上に、見覚えのある人影が立っていた。背が高く、全身を布ですっぽりと覆った―――しかしそれでも女だと分かる姿。死の神、モルスだ。
「……ソールの次はあんたか」
レサルは舌打ちをする。モルスは腕を組み、息を吐いた。
「そう邪険にするな。一つ良いことを教えてやりに来た」
「何だ」
「……人の魂は、生まれ、死に、私の元へ来る。そして死の国で安らかに、あるいは生前の罪を償う時を過ごし、やがて消えてゆく。そうして消えることでまた別のものとして生まれることができる」
「……何の話だ。説教なら」
「お前の子供のことだ」
モルスを押し退けて通り抜けようとしたレサルは、その言葉に足を止める。
「お前の子供は、生まれる前に魂を肉体から引き剥がされた。他の死者のように無に還ることなく、廻り廻って、また生まれてくる」
「……それは、つまり、」
「名も付けていたんだろう。それが明日か、百年後か、千年後かは分からない。だが必ずお前の子供はもう一度生まれてくる」
モルスの言葉に、レサルは目を見開いた。
ざあっ、と風がレサルの背を押す。レサルは真っ直ぐにモルスを見つめ、それから小さく頷いた。
「……何千年先だろうが、俺は待っている」
「そうか」
モルスの、僅かに見える口元が笑う。
「まあ、良い未来も見えていたようだ。それが来るまで待つと良い」
「………………」
レサルは踵を返し、モルスに背を向けた。
「警告してやるが、あの竜の娘、永くは無いだろう。患っている」
「知っている。……ソールの行動は、或いは慈悲だということも」
モルスの言葉に鋭く返し、レサルはふと振り返る。モルスの口元が、驚いたようにぽかんと開けられていた。
「―――それでも、傍に居たいんだ」
レサルはそう言い残し、足を早めてその場を去って行った。
家に戻ると、外でエスメラルダが待っていた。まだ冷たい早朝の風に身を震わせているエスメラルダにレサルは駆け寄る。
「寒いだろう、何をしているんだ」
「えっ? だって、レサルがなかなか戻ってこないから」
「……あー……はは」
レサルは、冷え切ったエスメラルダの両手を握る。それから、不思議そうに見上げてくるエスメラルダに、切なげな笑みを返した。
「中に入ろう」
「うん。何処に行ってたの?」
「少しな。昨日来た竜の仲間が来たから、遺体を返してきたんだ」
「ふーん。それで?」
「取引をした」
ストーブに火を入れ、エスメラルダがその上に薬缶を置く。レサルはカップを二つ出して茶葉を用意し、テーブルに置いた。
「もう竜が襲ってくることは無い」
「ほんと!」
ぱあっ、とエスメラルダが顔を輝かせた。
「凄いね、やっぱりレサルは神様なんだねっ!」
「……はは」
視線を落とし、レサルは控えめに笑う。
「レサル、これからもこの村に居てくれるの?」
「ああ。妻を守るのは、夫の役目、だろう?」
「守るって……もう竜は来ないんでしょう?」
「お前は危なっかしいから」
レサルが椅子に座って頬杖をつくと、エスメラルダは頬を膨らませた。
「そんな事言って、レサルの方こそ怪我ばっかりするくせに」
「……俺は、大丈夫だ」
自分が守るから―――せめて最期まで、そうして笑っていてくれ。
そのためなら、自分は精一杯道化を演じてみせるから。
墓標の代わりに、竜骨のナイフを地面に突き立てる。
「さよなら」
最期の時まで、握って放さなかった手を解く。代わりに、彼女が握っていた首飾りを、自らの首に掛けた。彼女の血から作り出した紅い耳飾りも、耳に括りつける。
首飾りは、自分が彼女に贈った、橙色の石に金の装飾のものだ。
「――――幾千万の夜の先で、きっと、君の子供を待っているから」
小さな墓の前で膝を付き、泣きそうに歪んだ顔を笑わせる。
―――ずっと、人が憎かった。神の力を持つ自分は、何もかも出来ると思っていた。そんな幼い傲慢を守って、少しずつ心を殺していった。
何も守れなかった自分が、今は憎くてしようがない。こみ上げてくる不快感が、誰もが神だと言う自分が、どうしようもなく人間なのだと突き付けてくる。
心ごと、神の力を消してしまいたいと思った。傷付くモノと原因を切り捨てて、また逃げようとした。それでも引き戻されて、逃げないで向き合って――――結果がこれだ。
目が、痛い。堪え切れなくなった涙が、頬を伝う。焼けてしまいそうに熱くて、何度も目元を拭った。
死ねない自分は結局、全てから取り残されてゆくのに――――
愛さなければ良かったなどとは言わない。後悔はしていない。だがどうしようもなく、心が泣き叫んでいる。
渇望していたものが、また手からすり抜けて行った。
「ふっ……う……あ、ああ、」
拳を握って地面に突き立てる。
「うわああぁあああああぁあああああ……」
いつぶりかも分からない大声で、心に溜まった涙を吐き出した。深く暗い水の底に引きずり込まれるように、息苦しさに喘ぐ。
曇天から、いつしか雨粒が落ち始めていた。
首に掛けた銀の鎖と橙の石飾りは、自分のしがらみであり、唯一の希望だ。
全てを諦めて口を塞いだあの頃とは違う。自分の弱さに目を瞑って、人からも神からも逃げていた頃とは違う。
名も、弱さも、全てこの墓の上に置いて行こう。どうしようもない自分を棄てて行こう。
消したいのは心ではない。神の力でもない。痛むことも、苦しむことも、寂寥に喘ぐことも、自分には必要な事だ。
消したいのは、道を間違え続けた人間だ。
「メル。……俺は、ヘヨカになるよ。いつか見たヘヨカみたいに、強くて、優しい人に。だから、弱くて愚かだった俺は――――もう要らないんだ。連れて行ってくれ」
墓標の前に立ち、レサルは右目に巻いていた包帯を解いた。それを墓標のナイフに括りつけると、代わりとばかりに、懐から取り出した白い板―――仮面を目元につける。
「今日を、新しい俺の――――己れの、誕生日にしよう」
自分が持っているのはこの身と、思い通りにならない神の力と、子供だましの魔術だけだ。それだけはこの先、きっと変わることは無いだろう。
それでいい。自分には何も無くていい。何かを抱え込んで歩いて行ける程、今の自分は強くないのだから。
道化師として、世界に嗤われて、世界を笑わせて――――それでいいと笑えるくらい、強くなろう。
レサルは―――名を棄てた青年は、静かに踵を返した。
薄暗い曇天は、雨こそ降っていないながら、青年の道先を薄暗く染めていた。
* * *
一休みしようと入った宿場町は、賊が巣食っていた。千年経とうが賊嫌いが治ったとは言い難く、青年は極力関わらないでいようと大目に金を払う。
宿の部屋に入って荷物を降ろすと、ドアがノックされた。返事をする間も無く、ノックの主―――少女が入ってくる。
少女は、青年の胸元ほどの背丈だった。俯いた顔を隠すよう長く伸ばされた髪の色は淡い水色、目は深い蒼だ。そして、前髪で隠されたその幼い顔の右半分は、髪に似た淡い水色の鱗で覆われていた。
仮面の奥で、青年は目を見開く。人ではないものの混ざったその容姿は、もう五百年も昔に先だった最愛の人を思い出させた。
「……失礼いたします。今日明日、それから明後日、お客様の御世話役を担当させていただきます」
少女は控えめな声で告げる。青年の頭の奥で、ずっと忘れずにいた言葉が蘇った。
『もし子供を授かったら、名前はどうしようか』
『フェール。男の子だったら、フェールがいいよ』
『女だったら――――』
「ミカと申します」
まるで、果てしなく長い時の間隙を嘲笑うかのように、彼女によく似た声で、その青い竜の少女は言った。




