-第三話
山のふもとの小さな家では、一人の少女が湯を沸かしていた。土壁で囲まれた一部屋のみの家の中には、入り口近くには小さなコンロと水瓶、中央には丸いテーブルと小さな椅子がある。水瓶の隣には調理台があり、棚には草や干し肉が入れられていた。その棚が背にしている壁には乾燥中の薬草が幾つも吊るされている。
その反対側の壁には凹室が掘られ、その中に、毛布を掛けられた青年―――レサルがいた。右目には包帯が巻かれ、顔は真っ白である。
少女は茶葉を薬缶に放り込み、鼻歌まじりに棚から茶こしを取った。
日に焼けた肌、墨を流したようなうねる漆黒の髪。そして、左目から頬にかけてはつるりとした黒い鱗で覆われていた。角のようなその上端が、前髪の間から突き出していた。両目は大きな金色で、手足は折れそうに細い。
「たーぁびびっとさーん! あっさでーすよ!」
鼻歌に歌詞を付けて、少女は淹れたての茶を持ってアルコーブに駆け寄る。
「……ん……?」
レサルがもぞりと動き、少女は顔を輝かせた。
「起きた! 元気? お茶飲める? 元気出るよっ!」
少女は矢継ぎ早に言い、目を瞬かせているレサルの手にカップを握らせる。
「―――っ、」
不快感で目が醒めた。レサルは体をゆっくりと起こす。毛布がずり落ちて、服が無くなっていることに気付いた。
「お前は……?」
「旅人さん、川岸で倒れてたんだよー。服はそこ」
少女は二杯目の茶を淹れて椅子に座る。
「俺の荷物は……」
「うん? 無かったよ。目はもう平気?」
「……ああ」
レサルは奥歯を噛み締めて吐き気を堪える。少女はレサルに背を向けた。レサルは服に手を伸ばし、そこに竜骨のナイフと金の装飾があることを確認してほっと息を吐く。
包帯が厚く巻かれた右目は、燃えるように熱かった。鋭利な刃で突き刺したのだから、それも当然か――――このまま見えなくなってしまえばどれ程楽だろうか。
「あたしね、エスメラルダっていうの。長いからメルって呼んでね。旅人さんは?」
「……レサルだ」
少女―――エスメラルダはちらりと振り返り、レサルが着替え終わっていることを確認すると、椅子を持ってレサルの傍らに戻る。
「旅人さん、綺麗な顔だね。あたしと全然違う」
「………………」
エスメラルダの顔の半分を覆っているのは、竜の鱗だろうか。
竜は年を経ると人に化ける。そしてごくまれにだが、人との間に子を成す。しかし生まれた子供は、竜にも人にもなれない『半端者』だ。
竜と人は、住む土地も、生きる時間も異なる。まして気まぐれで人の村を襲っては滅ぼす竜もいる。その竜の血を引く証である竜の鱗は、人に害をなす存在であると人々に忌避された。敬虔な神々の信者などは、竜と人の混血を、世界に呪われた忌子だとすら言うこともある。
飛竜、水竜、火竜、走竜―――様々な種と色がいる中で、エスメラルダの鱗は黒い。黒竜は特に気性の荒い飛竜の種だ。
「旅人さんの髪色、珍しいね。遠くの国の人?」
「……いいや」
「綺麗な月色の髪……絵本の死神さんみたい」
エスメラルダは笑った。
「そうだと言ったらどうする」
木のカップの中で揺れる茶色の液体を見つめ、レサルは言った。
「……ほんとに?」
ぐいっ、とエスメラルダが顔を近づけてくる。
「あ、ああ……」
「―――凄い! お伽噺の人なんだね!」
ぱあっ、とエスメラルダがまた顔を輝かせた。そのあまりに無邪気な様子に、レサルは気圧されて身を退く。
「あたし、あたしねっ! 次の春が来たら、お父さんがあたしを迎えに来るの。その前に、凄い人に会えて嬉しい!」
エスメラルダはそして、両手をベッドに乗せ、
「あたし、お父さんに食べられる生贄なのっ!」
無邪気な笑みのまま、そう言った。
エスメラルダの家は、村から遠く離れていた。家のそばには小さな畑と井戸、鶏小屋がある。しかしほとんどの食料は村の男が三日に一度運んできており、エスメラルダは、鶏の世話と、薬草から薬を作ることを仕事としていた。
低い柵で囲まれた鶏小屋の傍らに座り、レサルはぼんやりと、餌を啄む鶏を見つめていた。食料を持ってきた男は、レサルを見付けて驚いたような顔になる。
レサルは包帯を外した右目に触れた。たった数日だというのに既に傷は塞がっている。瞼に刻まれた傷のために今は目を開けないが、この分だと見えなくなっているということもなさそうだ。
正確に数えてはいないが、星の廻りからすれば、この彷徨が始まって約五百有余年といったところか。折れてやらないと意地を張ったくせに、幾度も自らの体を切り裂いてきた。それでも冗談のように傷は治り、流れ出した血も、痛みも、まるで無かったかのように消えてしまう。焼け付くような痛みだけが、自分が生きてここにいるという証で、孤独と彷徨を受け入れた自分を呼び覚ます方法だった。
一握りの餌を柵の中に放り、またぼんやりと鶏を見つめる。
「メル、あの人は?」
「ん? あの人はね、お伽噺の死神様だよっ!」
背後から、そんな声が聞こえてくる。レサルは綿を千切って布で包んだ耳栓を詰め込み、目を閉じた。
死ぬことを理解しているか疑わしいほどに底抜けに明るい竜の少女と、その少女を生贄に助かろうとする村人達。
ただでさえ吐き気がするというのに、そんな事情を知らされて気分が良くなるはずもない。怪我が治るまで世話をする、と豪語したエスメラルダがどうにも引きそうになかったため治療を受けているが、呪いのことを知らないエスメラルダは、無遠慮にレサルに触れてはレサルを不快感の底に突き落としている。
何度殺しかけたか分からない。爪を掌に食い込ませ、唇から血を流してそれを堪えてきた。だがエスメラルダは、レサルが怪我をしていると知ると、そのたびに治療を施す。
お前のせいなのだと言って、理解するだろうか。
「あのぉ、旅人さん……」
背後から声がかかり、レサルは振り返らず「何だ」と言った。
「鶏を二羽……あ、死神って、本当ですか?」
「…………ああ」
レサルは鶏を捕まえると、その首筋に指を滑らせて落として見せた。一瞬の早業に、村人は息を飲む。
「メルを殺しに?」
「……違う。助けられた」
「あー……その、失礼とかあると思いますが、勘弁してやってくれませんか。あいつ、十二の時から成長してないんです」
村人の言葉に、レサルはむしろ納得する。
エスメラルダは見たところ、十七、八の少女だ。だがそれにしては言動が幼い。
「だから生贄か」
「……まあ、竜の子って言うのもあるんですけどね。お願いだからメルを殺さないでください。あいつが死んだら、また別の生贄を出さなきゃいけないんです」
「………………」
レサルはもう一羽鶏の首を落とし、村人に向かって突き出す。
「あ、ども」
「俺が殺すとしたら」
レサルは素早く手を引き、血濡れた手を拭いて頬杖をついた。その視線は鶏小屋の先を向いている。
「貴様らだな」
「―――――っ、」
ばたばたと村人の足音が去って行く。レサルは細く息を吐き出した。
「これだから、人間は」
落ちていた鶏の頭を拾い、立ち上がる。確かトサカを薬にすると言っていた。
家の戸を開くと、薄暗い室内で、エスメラルダが弾かれたように振り返った。
「あっ……レサル」
エスメラルダが目元を拭う。レサルは微かに目を見開いた。
「……泣いているのか」
「う、ううん、大丈夫。明るいだけがあたしの取り柄だもん」
エスメラルダは両手を頬に当て、ぐいっ、と持ち上げて笑って見せた。
「あたしが泣いたら、皆が困るから、ね?」
エスメラルダは、涙に濡れた笑みを浮かべる。レサルはしばし玄関に立ちつくした。
「あっ、トサカ! ありがとう、これでお薬作れるからねっ!」
エスメラルダはレサルに駆け寄り、その手から鶏の頭を取る。いつも通り鼻歌を歌いなが鶏の頭を洗うエスメラルダの、小さな背中をレサルは見詰め―――
手を伸ばして、その頭を軽く撫でた。
「きゃっ?」
エスメラルダは肩を竦める。そして振り返り、驚いたように目を見開いた。
「レサル?」
「……泣いても良いんだぞ」
「へっ?」
「俺はあの村の連中じゃない」
「………………」
エスメラルダは、頬へと降りてきたレサルの手に自分の手を重ねる。
どうしてこんなことをするのか、レサル自身も分からなかった。だが、目の前で震えて涙を拭い、それを笑顔で隠す少女を、無視はできなかった。
エスメラルダは俯き、遠慮がちにレサルに近付く。そして、その胸元に顔を埋め――――堰を切ったように、泣き出した。
喉を焼きながら、苦いものがせり上がってきている。指先は内側をミミズが這いまわって感じるし、耳は中で砂嵐でも起きているかのようだ。息は苦しくなり、一瞬でも気を抜けば、積もりに積もった不快感が目の前のものを全て引き裂いてしまうだろう。
この、泣き疲れて眠った少女を。
エスメラルダが握ったまま放さない上衣を脱ぎ、レサルは外に出た。いつの間にか外は夜、明るい満月が空に浮かんでいる。
泣きながら、エスメラルダは様々な思いを吐き出した。だがその中に、村人への恨み言は一つもなく、自分が生贄になることで村が救われるのならばそれでいいと、心の底からそう言った。涙はその重責と死の恐怖故であり、恨みつらみではなかった。
「――――自己犠牲、というやつか」
レサルはぽつりと呟く。
人はいつでも利己的で、誰かの為にその身を捧ぐことを心底行える者はいない―――いずれ誰もが、自分が大切だという本性を見せる。
そう信じて疑わなかった頃から、長く、長く彷徨した。
自分を何度も傷付けた。死ねない、ただその事に何十年も苦心した。人間との関わりを厭い、見捨てられた廃村に同情した。
もうずっと逃げてきたのだ。
「……頼まれたって、折れてやらない」
もう一度呟き、レサルは踵を返して家に入る。ランプに火を入れると、エスメラルダが目を擦って起き上がった。
「あ……ごめんね、寝ちゃったぁ……」
「いいや」
「お腹空いたね、何か作るよ」
エスメラルダはベッドから飛び降りて調理台に駆け寄った。
「メル」
その服の裾を掴み、レサルはエスメラルダを引き留める。エスメラルダは振り返り、首を傾げた。
「……疲れただろう。俺が作るから」
「えっ……ううんっ、そんな、レサルはお客様なんだから!」
「お前は俺の恩人だ」
エスメラルダは驚いたようにレサルを見上げる。レサルが頷きを返すと、へにゃっ、と顔を笑わせた。
「よかった、助けて正解だったんだね」
「……?」
「レサル、いつも遠くを見ていて辛そうな顔してたから、助けちゃ駄目だったのかなって」
エスメラルダは胸元で手を握る。
「レサル、生きてて嬉しい?」
「……ああ、嬉しい。……すまないな、嬉しいときどんな顔をしたらいいか分からないんだ」
「笑うんだよ」
エスメラルダは人差し指を口の両端に当て、にこっ、と笑顔を作って見せた。
「嬉しかったらね、笑うんだよ! にこって笑うと、もっと幸せになれるから!」
レサルは目を瞬かせ―――ぐいっ、と自分の口の片端を引っ張った。それがおかしかったのか、エスメラルダは手を放して笑う。
「へたくそ!」
「もう何年も笑ってないんだ、無茶を言うな」
「笑うなんて簡単だよ。綺麗なものを見て嬉しいから笑うの。可愛いものを見て嬉しいから笑うの。誰かと話して楽しいから笑うの。旅芸人さんを見て面白いから笑うの。雨が降ったら、今日は畑に水を撒かなくて良くなったって笑うの。晴れたら、お洗濯ができるなって笑うの」
エスメラルダは両手を広げる。
「この世界全部、ぜーんぶ綺麗なんだから、毎日笑って生きないと!」
あと半年もしない内に殺されると決まっている少女は、そう言って、太陽のように笑った。
ふらつきながら、レサルは家の裏手に回った。そこの地面を掘り、穴の中に嘔吐する。革袋から水を含んで口の中をすすぎ、穴を埋め戻した。口回りも水で洗い、立ち上がる。
「レサル、見て見て!」
エスメラルダの嬉しそうな声が聞こえ、レサルはすぐさまそちらへ向かう。
「へへ、どう? 綺麗?」
エスメラルダが両手で掲げていたのは、銀色の、管玉と丸玉を交互に輪にした鎖だった。
「どうしたんだ、それ」
「村の人がくれた材料で作ってみたの。村に商人が来たんだって。冬の間、薬草が育たないから暇でしょう? いっぱい作るから、その練習っ!」
エスメラルダはレサルに駆け寄ると、背伸びしてそれをレサルの首に掛けた。何の飾りも付いていないシンプルな鎖は、丁度レサルの鎖骨の辺りを通る。
「あげるっ!」
「……こりゃ、どうも」
「嬉しい? 嬉しくない?」
「嬉しいさ」
「嬉しかったら笑うのー!」
エスメラルダの両手が、レサルの頬を押し上げた。
「痛い痛い、分かった、分かったから」
レサルは指を口に引っ掛け、下手な笑みを見せる。エスメラルダは嬉しそうに飛び跳ねた。
背後に回したレサルの片手は、爪が掌に食い込むほどに固く握られていた。
「そう言えばレサル、最近前みたいに変な怪我しないね?」
「ああ」
「よかった。どんなにちっちゃい傷でも、放っておいたら危ないからね」
エスメラルダが笑って、レサルの掌には血が滲む。
大丈夫。レサルは自分に言い聞かせる。
怪我は魔法で治せばいい。吐くくらいならばもう慣れている。
この程度のことは、痛くも痒くもない。
この少女の笑顔を曇らせる程の事ではない。
「じゃあ冬になったら、一緒に作ろっか! レサル、手先器用だったよね。きっと綺麗なの作るんだろうなぁー」
「お前な……」
「文字も教えてもらったし、これで沢山、世界中の絵本が読めるねっ! 凄いなあ、レサルは本当に、何でも知ってるんだね!」
「大したことは……教えていない」
「ううんっ、沢山、たーくさん教えてもらったよ。何かあたし、レサルに教えて貰ってばっかりだね」
「……なら、その細工物の作り方を教えて貰おうか」
レサルが言うと、ぱあっ、とエスメラルダが顔を輝かせる。
「それじゃ、もっともっと材料買わないと! 金属のだけじゃないよ、あたしのお気に入りは橙色の石なの。ちょっと長くて、両端が丸くてね。夕焼けみたいな、凄く綺麗な色なの!」
「そうか」
「レサルの腰のやつも、綺麗な金色だよね。でもそれとおんなじくらい綺麗な飾りが沢山あるからね、いっぱい作ろ!」
「ああ、そうだな」
それから、と、エスメラルダはやりたいことを指折り数えてゆく。レサルはその様子を見、眩しそうに目を細めた。
「……?」
ふと、手から力を抜く。
不快感はまだある。だが―――痛みで誤魔化すほどでは無くなっていた。今まで、どれ程自分を人の波にさらしても、慣れることは決してなかったというのに。
「……そう、か」
レサルは胸元に手を当てて俯いた。
どうやらようやく、自分なりの答えを見つけられたらしい。




