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-第四話

 手を伸ばした先の天上は、瞬く間に雲の向こうへ消えていた。

『天上から追放する』

 言われたのはその一言だ。だがそれが何よりも、レサルに突き刺さった。

 自分は未熟で、天上に立つには足りない――――神々の椅子の中に、自分の席は用意されていない。そして用意されることも無い。この先、永久(とわ)に。

 それを突き付けられたのだ。

 自分がいるべき場所は天上では無かった。だから地上に戻れと言うのか―――あの、苦しみしか待っていない場所に。

 自分を守ってくれる母は死んだ。自分を導いてくれる師は幻想だった。神の力を持っていたが為に誰もが離れて行った。あの地上で、自分は限りなく独りだった。

 だから―――

 指先から力が抜け、レサルは落下に身を任せて目を瞑る。

 これが走馬灯というやつならば、そんなものを見返したくはなかった。

 突き付けられた言葉一つ一つが、自分の目にかかっていた靄を晴らしてゆく。だがそれは同時に自分の幼さを突き付けられるようで、息が苦しくなった。

 もういい。

 レサルは完全に脱力した。体勢が崩れて頭が下になり、遥か先に、地上が見えてくる。

 レサルは微笑みすら浮かべて、意識を手放した。



 額に誰かが触れている。

「――――本当に馬鹿だね、君は」

 聞こえてきたのはソールの声だ。まだ自分は生きているのか、とレサルは心内で舌打ちをした。全身が気だるく、額に触れている手を振り払う気力も無い。

「父さんは放っておけと言ったけれど、僕はそうはさせないよ。―――僕は君みたいな餓鬼が嫌いなんだ。そんなに人間が嫌いなら、もっとずっと嫌いになれば良い」

 額の、触れられている部分が熱くなる。

「……その呪いは、人を心から愛して、愛されなければ解けないからね。もし自分が間違っていたと僕の前で謝罪をするなら解いてあげるよ。君の自尊心がそれを許すとは思えないけど」

 すっ、と額の手が離れる。

「……あれ。モルスも呪いに来たのかい?」

「まあそんなところだ。起きろ、戦神の息子」

 肩を蹴られ、レサルは呻く。渋々体を起こすと、節々がひどく痛んだ。目を擦るレサルを見下ろしていたのは、ソールと、全身を布で覆った女だった。声からすると、会議の場に居た女の神らしい。

「久し振りだな。お前は忘れているだろうが。死の世界の神、モルスだ」

 モルスは腕を組む。レサルが怪訝な顔になると、短く息を吐いた。

「神々にも掟はある。まだ作っている途中だがその中で数少ない絶対の掟をお前に教えてやろう。それを今回特別に、神でもないお前に適用してやる」

 モルスの細い指先が、レサルの額に当たった。

「―――天上を、その時の上位の神々によって追放された神。それは地上で、許されるその日まで彷徨い続けなければいけない。永久の孤独と彷徨(ほうこう)の苦しみが罰だ」

 また、額が僅かに熱くなる。レサルは額を押さえた。

「ではな。精々苦しむといい」

「じゃあね、僕の可哀想な弟。――――心壊れるまで、生き地獄を味わうといい」

 ひらっ、とソールが手を振り、二人の姿は光となって消えた。後に一人残され、レサルは呆然と虚空を見つめる。

 もう一度額を押さえると、僅かに残った熱が掌に感じられた。

 立ち上がって辺りを見回す。どうやら、天上への術を使った場所のようだ。少し先には、見覚えのある木がぽつりと立っていた。

「……ちっ」

 レサルは視線を巡らせ、街道の先の街へと足を向けた。

 あれから数日、いい加減ほとぼりは冷めているだろう。神々が自分を地上に追放したのなら、地上で生きるしかない。そしてそれには、憎かろうと見下していようと、人と関わることが必要になる。

 また旅でもしようか。そうレサルは考える。生憎行くべき場所も帰るべき場所も無い。

 逃げ出して、追い出されて――――もうこの世界の何処にも、自分の居場所はなかった。



 街の大通りに足を踏み入れると、喉の奥が苦いもので満たされ始めた。その不快感を飲み下し、レサルは、自分を遠巻きにする街の人々の視線を無視して真っ直ぐに借家へと向かった。

 息が苦しくなる。胸に手を突っ込まれて掻き回されているようで、吐き気が喉をせり上がってくる。足元から、百足が這いあがってくるような、芥虫(ゴキブリ)が群がっているような―――今すぐその場から逃げ出したくなる不快感だ。

 額が熱い。レサルは壁に手を当て、その場に膝を付いた。

「レサル?」

 聞こえた声は、あの青年だ。この街で、唯一――――友人と言えないこともない、人間だ。

「レサル、お前帰ってきてたのか。あの爺さん怒ってたぜ」

 だが。その声―――一言ごと、一音ごとに、耳に砂を捻じ込まれるような不快感が伴ってくる。或いは以前だったら自分は安堵していたのか。

「……なあ」

「ん?」

「悪い……ちょっと、離れ……」

 手が汗で滑り、レサルはその場に蹲る。

「おい、大丈夫かよレサル! ……顔色ひでえぞお前!」

 青年の指先が肩に触れ――――体の奥底から、不快感が爆発した。

「触れるなああああっ!」

 叫ぶと同時に腕を振る。ただ手を振り払うだけのつもりだった。

 だが――――指先から迸った不可視の力は、そのまま青年の胸元を抉っていた。

「っ……え……」

 声をあげたのは、レサルだった。余りにも鋭利な切り口は血を拭き出すことなく、切れた布の奥にはぷつぷつと血の珠が浮き上がる紅い線がある。

 ほぼ反射的に、レサルは両手を突き出してその線に触れさせていた。口の中で短く呪文を唱え、傷直しの魔術を発動させる。

 だが。青年の肌に触れた指先が、腐ってしまいそうに痺れた。今すぐ逃げ出したい―――否、殺してしまいたい。この不快感は殺せば消える。だから――――

「……レサル?」

 ぎりっ、と軋むほどに強く歯を食いしばり、レサルは手を青年から離した。そのまま、呼び止める声も、周りの人間達も全て無視して、来た道を駆け戻る。

 右目であらゆる景色を見ていた時とは違う。額と右目は熱い。だが、こみ上げる不快感は、流れ込んでくる景色に酔ってのことではなかった。

 まるで人間達が全て、虫の塊になったかのような――――声を聞きたくも無い、見ていたくも無い、それどころか近くにいることさえ耐えられない。

 すぐにでも離れなければ、際限なく殺してしまいそうだった。

『そんなに人間が嫌いなら、もっとずっと嫌いになれば良い』

 ソールの言葉が蘇り、これが『呪い』なのだとレサルは悟る。

 人間は嫌いだ。自分は神の血を引く者なのだから、同じ世界にいる必要はない。出来ることなら関わり合いたくも無い。

 それは自分の本心だ。今も、変わった訳ではない。

 だが―――だからと言って、殺したい訳ではないのに。

 足音が追って来ていた。あの青年のお人好しは底なしか、とレサルは苦々しく笑う。

 レサルはしかし、足を早めて街を出た。未完成な門を抜けて街道を逸れ、草花を蹴散らして走り出す。

 次に顔を見たら、殺してしまう。

「―――くそっ!」

 レサルは心内でソールを罵った。まるで虫も殺したことの無いような純朴そうな少年の見た目で、救いの無い呪いをかけてくる。

 呪いを解く条件は、人を愛し、愛されること――――だがそのどちらも、この呪いを受けている以上はまるで不可能だ。

「っ……ああああああああああああああああっ!」

 苛立ちと、怒りと――――僅かな後悔。叫びは虚しく響き、自分の感情を自覚してレサルは更に追い詰められる。

 ソールに謝れば、ソールの言葉が本当なら呪いは解かれるだろう。だが、それは自分が間違っていたと認めることだ。自分からあらゆるものを奪ってきた人を嫌い、憎んだことを。

 自分に縋れたのは、空の向こうに行く、その目的だけだった。それそのものが思い上がりで、間違っていたことで―――そのために人間を切り捨てたことは、最も愚かだったと。

 それを認めてしまったら、自分はもう―――ここに立って、生きている意味を見失ってしまう。居場所は無い。頼れる誰かもいない。自分が持っているのはこの身と、思い通りにならない神の力と、子供だましの魔術だけだ。

「……何も――――」

 レサルは顔を上げ、遥か遠くまで続く地平をその目に映した。

「……俺にはもう、何も無いんだよ」

 一歩を踏み出す足が、泥沼に沈んでゆくように重い。果てなく続く地平と、それを覆う空が余りにも澄んでいて、憎い。まるで世界中に嗤われているかのようだった。

 認めてしまえば、自分は折れてしまうから。レサルは歯を食いしばり、欝々とする感情を押し殺した。



 風に身を震わせながら、レサルは木の下に座って焚火を見つめていた。

「――――よう」

 不意に。

 声と同時に、焚火の向こうに足が現れる。レサルがばっと顔を上げると、冷徹に自分を見下ろすルーナがいた。

「……あんたは、」

「お前の兄だ。覚えておけ」

 ルーナはそして、肩に担いでいたものをレサルに放る。レサルがそれを受け止めると、ルーナは地面の上に胡坐をかいた。

「これは……」

「旅荷物だ。必要そうなものを適当に見繕った。使え」

「どうして、」

「兄が弟を助けるのに理由がいるのか」

 ルーナは至極当然と言うように告げて、両手を焚火にかざす。

「あんたら神々は……俺を嫌っているだろうに」

「大半はな。まあ半分しか神ではない、了見の狭い阿呆が乗り込んで来たら嫌いもする」

 ルーナの声音はやはり淡々としている。レサルはゆるく唇を噛み、視線を逸らした。

「ソールとモルスに呪われたな」

「……ああ」

「どうやら面倒な呪いだと聞いている。さて、解くのに何年……いや、何百年かかるか」

「……どれだけ遅くても、あと五十年もすれば俺は死ぬ。一生解けないだろうさ」

「モルスは死の神だ。そのモルスが呪ったんだ、お前は死ねない」

「……は?」

「永久に魂はこの世に留まる。だからお前は、例えその肉体がどうなっても、死後の世界には行けない。神々が許すまでの時間、彷徨を続ける」

 ルーナはレサルを見遣り、顔色を失っているその顔に溜息を吐く。

「まあそれだけ長く彷徨えば、その内お前なりの答えが出るだろう。人を愛すか、それでも嫌うか。……だが忠告してやる。お前はソールを……この世界の光を司る神に嫌われた」

「あんたは、俺の……味方、なのか?」

「………………」

 身を乗り出したレサルに、ルーナはやはり冷たい視線を向ける。

「お前が願えば味方をしてやる。俺はお前を嫌いなわけではないからな。……だが縋るな。お前が渇望しているものは、お前自身で手に入れて見せろ」

「俺が……渇望している、もの……」

「驚いたな。無自覚とは」

 ルーナは立ち上がる。

「もう答えは、自分の中にあるだろうに」

「まっ、待ってくれ! もう少し話を、」

「俺と話していても何も解決しない」

 ルーナはレサルの言葉を遮った。そして、自分を見上げてくるレサルの双眸を、青みがかった銀色の目を細めてじっと見つめる。

「そんな心細そうな顔をしなくても、世界はお前を見捨てたりしないさ」

 僅かに、ルーナの顔が笑った。レサルが目を瞬かせると、ルーナは咳払いをする。

「神も人もまだまだ未熟だ。お前もそんな世界の一部だ。……なぁに、百年もすれば川の流れも変わる。長い目で見ることを覚えろ」

 ルーナは細い手を伸ばし、レサルの頭を撫でる。そして、僅かに唇を尖らせた。

「いずれお前の背を超してやるからな」

 ざあっ、と風が焚火を揺らす。その風に溶けるように、ルーナの姿が消えた。

 星空を見上げて、レサルはしばし黙った。

「俺が渇望している……」

 もう一度口にする。レサルはぎりりと奥歯を噛み締め、空を睨み付けた。握り締めた手の爪が掌に食い込んで、血が滲む。

 滲んだ涙を拭い、レサルは焚火を踏み消して荷物を担いだ。

「――――頼まれたって、折れてやるものか」

 ざりっ、と星空へと一歩を踏み出す。

 無理矢理積み上げた空への階段を、ソールが壊した。落下して死に飲み込まれようとした自分を、モルスが引き上げた。絶望に閉ざされた視界に、ルーナが風穴を開けた。

 もう何も拠り所が残っていなくても、自分はここに立って、生きている。

 それだけでまだ、歩いて行ける気がした。



 東から日が昇り、やがて沈む。月が昇って沈めばまた日が顔を出す。星は空を廻って時間を刻み、風は季節を回してゆく。川の流れは刻一刻と変わり、それに沿って人々がまた集う。揺蕩う水の如くに、変化してゆく世界の中で。

 際限なく回転する日月の下で、一つ、また一つと争いの火は生まれては消えて行った。大地が鳴動し、空が怒り、そのたびに人は嘆き、瓦礫の中に埋もれて行く。しかし時が経てば瓦礫は退けられ、人々はまた街を造っていった。

「……これで、全てだな」

 それでもなお、捨てられる町や村はある。不便な土地で、竜に襲われてしまった村などは一晩で壊滅し、弔われることも無く死体が腐っていた。

 レサルがいるのもまた、そんな村の一つだった。

 家々は薙ぎ倒され、逃げ惑う人々は武器を持ったまま黒焦げになっていた。気性の荒い竜が襲ったのだろう。

 シャベルを地面に突き刺し、レサルは汗を拭った。その視線の先には、ずらりと、一定の間隔で盛り上がった土に石が置かれたもの―――墓が、並んでいる。

 汚れた旅装束を脱いで、レサルは井戸水を頭から被る。誰もいない村で、動いているのはレサルのみであった。

 柱が傾いた家に入り、腐っていなかった干し肉を袋に詰める。紐で固く袋の口を閉じていると、ふと、机の上に置いてあった小さな本が目に留まった。

 こんな辺境に、絵本とは。レサルはそれを開き、溜息を吐いた。

 それは、神々の世界を追放された死神を描いたものだった。天上を追放された死神は、許されるまで延々人の世を彷徨うことになった。彼は人間が嫌いで、機嫌を損ねると殺されてしまう。彼に殺された人間は、通常の死の世界ではなく、救いの訪れない地下世界へ連れて行かれてしまう。

 そんな、よくあるお伽噺のように仕立て上げられた、自分の物語だ。

 レサルは静かに絵本を閉じ、丸椅子を持って墓へと戻った。

 今夜はこの墓を守りながら、魂鎮めの歌でも、歌おうか。

 そう誰にともなく呟いて、レサルは静かに空を仰ぐ。

 もう何も言うまい。

 この彷徨が幾年続いているか数えるのはとうに止めた。だが百年は優に越している。だからといって自分の心持が変わったかと言われれば、それは分からなかった。

 ささくれ立って、傷付けることで、憎むことで自分を守ろうとした自分は、まだ何処かに残っている。一度憎んでしまったものを、手放しで愛せと言われても無理な話だ。

 自分が求めているものはとうに気付いている。生きる意味でも、拠り所ではなく、誇れるものでもなく、認められる居場所でもない―――しかしそれはあまりに幼稚で、単純だった。

 そして、不快感に耐え切れず奪った命が、流した血で汚れた両手が、自分を更にそれから遠ざける。救われない暗黒の泥沼に、自らを沈めて行く。

 だから、もう何も言うまい。

 凍えてしまいそうに寒い夜も、泣きたくなるような暗い日々も、全ていなして、口を塞いでいればいい。その内に肥大化したお伽噺が、自分を化け物に仕立てあげるだろう。それでも構わない。

 自分勝手に人を憎み、殺しておきながら、愛して欲しいなど滑稽だ。



 いつか見た少女が、次に出会った時には老女になっていた。もうそんなに時が経ってしまったかと驚く自分と、遥か昔と変わらぬ見た目の旅人に怯える人間がいる。

 鼻に抜ける香りのする薬草を噛み、辛うじてこみ上げる不快感と吐き気を押し戻す。宿場町は溢れんばかりの人で賑わっていた。

 その中を歩きながら、レサルは包帯を巻いた右目に手を当てる。

 星はいつでも空にあるものだ。兄が月と太陽、自分は星――――神の目は、星が天上にある限り、見下ろす地上を須らく見抜く。遠い土地の風向きから、目の前にいる人間の心内まで、全てだ。

 年寄り達は、いつか見た旅人と同じ顔の自分に怯えている。擦れ違った商人達は、苦虫を噛み潰したような顔をしている自分を見て怪訝な顔をしていた。

 無関心、好奇、恐怖――――次々と突き刺さる視線がまた不快感を増幅させる。人が多い町に入ったのは幾年振りか――――呪いは少しもマシにはなっていなかった。

 そろそろ路銀を稼がなければいけない。適当に人が集まっている大通りの隅で、レサルは布を地面に敷いて陣取った。袋の口を開いて前に置き、指先を回して炎の珠を浮かばせる。

「兄ちゃん、ヘヨカかい?」

 通りがけに、誰かがそう声をかけた。レサルは顔を上げず、「まあ」とだけ応える。

「おーい、この兄ちゃんヘヨカだってさ!」

 そう、その誰かが声を張り上げ―――レサルはもう一枚、薬草を口に放り込む。

「へえ、炎のジャグリングか。上手いもんだ」

「右目は怪我かい? 町の外れに医者宿があるんだ。診て貰ったらどうだい?」

「旅人さん、明日は西の通りに来てくれよ! 宿なら紹介するよ」

「もっと数を増やせたりするのかい? 見せてくれよ」

「ヘヨカにしちゃあ地味だなあ。顔は派手だけどね」

「こんな辺境までよく来なすったね。隣の国の人かい?」

 集まってくる人々の匂いと、声と、姿がレサルを締め付ける。

「あんたぁ、五十年前も来なすったかね?」

 しゃがれた声がそう言って、レサルは手を止める。

「おいおいばあちゃん、馬鹿言っちゃいけねえよ。このヘヨカはどう見たって二十そこそこだろうがよ?」

「いや、その珍しい髪色と目の色は見間違えるはずがないわい。あの時も右目を隠していて、町の隅っこでしずかーに、しずかーに芸をしとったんだよ。あんたぁ、年を取らない魔法でも使っているんかね?」

 レサルは視線を袋に向けたまま、細く長い溜息を吐く。

「何の話か分からないな」

 レサルは指を鳴らし、炎の珠を水に変えてまた芸を始めた。今度は両手で弄ぶのではなく、空中に大きな水の珠を浮かせ、それを様々な形に変えて行く。

「……絵本の……」

 誰かがぽつりと言った。レサルは魔術に集中し、奥歯で薬草を磨り潰す。

 やがて袋が銀貨でいっぱいになると、レサルはそれを持って立ち上がった。何の気なしに見遣った大通りでは、人垣の向こうで、誰かが慌てて顔を逸らす。

 レサルは荷物を担いで踵を返した。



 顔も知らない誰かが、自分のことを語って行く。

 名も知らない誰かが、自分の過去を作って行く。

 人垣の一部でしかない誰かが、やがて果てしなく多い数となって、自分を死神だと指差すようになる。それを甘受したのは他でもない、自分自身だ。

「――――俺は何がしたいんだ」

 川の流れに写る、歪んだ自分を見つめてレサルは呟いた。

 腐ってゆく。心が錆びてゆく。自分から誰にも手を伸ばさず、誰も自分を顧みない。

 それを選んだのは自分だというのに、心の奥底が、冷え切った魂が、痛くて仕方がない。

 ほどけた包帯が落ちて、レサルは自分の右目に手を当てた。

「――――全部、」

 全部この目のせいだ。

 この目がなければ街の人間に化け物呼ばわりはされなかった。この目がなければ賊を皆殺しになどできなかった。この目がなければ旅に出る必要はなかった。この目がなければ、自分はずっと人の子だった。

 この目がなければ――――自分は、思い上がりなどしなかった。

「もう……逃げて……いいだろ……?」

 左手がゆっくりと、竜骨のナイフを握る。何度も欠けては研ぎ直し、すっかりすり減ってしまった刃だ。

 小さくなった刃が、誘う。

 もう自分勝手と罵られてもいい。重ねてきた罪の証を、背負い続けるくらいなら。

 心ごと、自分が縋り続けた神の子の証を、消してしまおう。

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