白紙の駆逐艦
昭和二十八年七月二十七日。
横須賀。
駆逐艦「響」は、岸壁に静かに繋がれていた。
かつて第三十二駆逐隊に所属し、北の海から南方までを駆けた特型駆逐艦。
だが今の姿を見れば、戦時中の乗員たちは首を傾げただろう。
艦橋には新しいレーダー。
艦内には国産化試験中の通信装置。
そして船体各部には、用途の異なる測定機器が取り付けられている。
魚雷発射管の一部もすでに撤去されていた。
現在の響に求められているのは、敵艦へ魚雷を撃ち込むことではない。
新しい海軍が必要とする技術を、実際の海で試すことだった。
「また数字がずれているな」
海軍技術大尉、高瀬誠一は記録用紙を睨んだ。
二十八歳。
戦争が終わったとき、彼はまだ本格的に海軍技術者として歩き始める前だった。
だから彼にとっての海軍とは、大和でも長門でもない。
敗戦後の造船所。
部品の足りない掃海艇。
アメリカから渡された機器。
そして、それらをどうにか日本の艦艇へ組み込もうと苦労する技術者たちだった。
「大尉」
若い技術員が声をかける。
「第三測定点、取り直しますか」
「ああ。条件を変えずにもう一度だ」
「了解」
高瀬は響の艦橋を見上げた。
古い。
だが、役に立つ。
それが今の帝国海軍そのものだった。
「高瀬大尉」
岸壁から声がした。
振り返る。
海軍省から来た連絡士官だった。
「横須賀鎮守府司令部へ出頭してください」
「何かありましたか」
「東京からです」
一通の封筒を渡される。
高瀬は表面を見る。
海軍省艦政本部。
そして右上には、
『至急』
の文字。
高瀬は眉を上げた。
一時間後。
横須賀鎮守府。
会議室には、高瀬のほかにも数人の士官と技術者が集められていた。
机の上には一冊の資料。
高瀬はその表紙を見る。
『昭和二十八年度 新型駆逐艦建造計画』
「新型……」
思わず声が出た。
正面に座っていた艦政本部の担当者が口を開く。
「先日の津軽海峡西方における国籍不明潜水艦事件は知っているな」
「概要だけは」
「第一艦隊は対象を発見し、追跡した。だが同時に問題も明らかになった」
資料が開かれる。
雪風。
響。
松型駆逐艦。
海防艦。
そして供与された外国製装備。
現在の帝国海軍を支えているものばかりだった。
「艦が古すぎる」
誰かが言った。
担当者は頷いた。
「その通りだ」
戦争が終わって八年。
帝国海軍は生き残った。
だが、その艦隊の多くは戦争中、あるいは戦争末期に造られた艦である。
機関も老朽化している。
電力にも余裕がない。
新しいレーダーやソナーを積もうとすれば、別の装備を降ろさなければならない。
そして何より――。
「これから相手にする潜水艦は、もっと速くなる」
担当者が言った。
会議室が静かになった。
「今の艦を改装し続けるだけでは、いずれ追いつけなくなる」
高瀬は資料をめくった。
そして手が止まった。
そこには一枚の紙がある。
艦名もない。
図面もない。
ただ、要求だけが書かれていた。
新型駆逐艦。
国産。
外洋行動能力を有すること。
新型対潜装備を搭載可能であること。
将来の電子装備追加に対応できること。
第一艦隊主力艦艇の護衛が可能であること。
高瀬は顔を上げた。
「つまり……」
担当者が答える。
「造る」
「何をです」
「戦後の日本が、最初から設計する駆逐艦だ」
高瀬はもう一度紙を見る。
そこにはまだ、艦影すら描かれていない。
雪風の改良型ではない。
響の改装型でもない。
アメリカから渡される艦でもない。
白紙だった。
「期限は?」
高瀬が尋ねた。
担当者は平然と答えた。
「基本案を年内にまとめる」
高瀬は顔を上げた。
「年内?」
「そうだ」
「無茶です」
即答だった。
何人かが高瀬を見る。
「戦争が終わってから、大型水上戦闘艦を一から設計した経験がほとんどない。造船所だって民需中心に切り替わっています。兵装も、電子装備も――」
「だから君たちを呼んだ」
言葉を遮られた。
高瀬は黙った。
担当者は続ける。
「旧海軍の設計をそのまま使うつもりはない」
机の上に別の資料が置かれる。
アメリカ海軍。
イギリス海軍。
そして戦後に建造された各国の護衛艦艇。
「学べるものは全部学ぶ」
さらに、響の試験結果が置かれた。
「だが最後に造るのは、日本の海軍が使う、日本の駆逐艦だ」
高瀬は資料を見つめた。
八年前。
日本の造船所では、まだ巨大な軍艦が造られていた。
その多くは海へ沈んだ。
そして今。
自分たちの前にあるのは、一枚の白紙だった。
「一つ質問があります」
「何だ」
「この艦は、何と戦うんです」
担当者は少しだけ考えた。
「潜水艦だ」
そして付け加える。
「これからの日本の海で、一番多く出会うことになる相手とな」
会議が終わったあと。
高瀬は響へ戻った。
夕暮れの岸壁。
古い駆逐艦の船体が赤い光を受けている。
高瀬はしばらく、その姿を眺めた。
特型駆逐艦。
かつて世界でも有数の重武装を誇った駆逐艦。
魚雷を抱え、敵艦隊へ突撃するために造られた船。
だが、次に造る艦は違う。
敵を見つける。
味方へ伝える。
空母を守る。
船団を守る。
そして、海中の潜水艦を追い続ける。
「駆逐艦、か……」
高瀬は呟いた。
名前は同じ。
だが求められるものは、まるで違う。
響の向こうには、建造中の商船と造船所のクレーンが並んでいた。
戦後の日本が造る、最初の駆逐艦。
その設計はまだ、一線すら引かれていない。
高瀬は封筒を抱え直した。
帝国海軍はこれまで、残された艦で海を守ってきた。
だが、その時代もいつか終わる。
古い艦から、新しい艦へ。
その最初の一隻を造る仕事が、始まった。




