境界線
昭和二十八年七月十二日、午後四時二十分。
津軽海峡西方。
国籍不明潜水艦の追跡が始まってから、すでに二時間近くが経過していた。
海面には何も見えない。
ただ、その下を一隻の潜水艦が北へ向かっている。
その存在を追い続けているのは駆逐艦「雪風」。
上空には第一〇一海軍航空隊の「海燕」。
そして後方には、軽航空母艦「隼鷹」を中心とする第一艦隊がいた。
隼鷹のCIC。
海図上には国籍不明潜水艦の位置が記録され続けていた。
「雪風、目標との接触を維持」
報告が入る。
「進路、依然北寄り」
第一艦隊司令部は、その動きを黙って見守っていた。
攻撃は禁止されている。
命令はただ一つ。
――追跡せよ。
だが、問題があった。
このまま進めば、潜水艦はやがて津軽海峡へ近づく。
日本にとって重要な海上交通路である。
「東京からは?」
「まだです」
艦隊司令部から軍令部へは、すでに何度も状況報告が送られている。
しかし軍令部、政府も簡単には判断できない。
相手の国籍が分からないからだ。
そのころ相沢慎一少尉は、交代のため隼鷹へ戻っていた。
飛行待機所へ入ると、黒木少佐が海図を見ている。
「まだ追っているんですか」
「ああ」
黒木は海図から目を離さない。
「雪風が離していない」
相沢は少し迷ってから尋ねた。
「もし、領海へ入ったらどうするんでしょう」
黒木が顔を上げる。
「どうすると思う?」
「……警告して、それでも従わなければ」
そこで言葉が止まった。
黒木は続きを言わなかった。
代わりに椅子へ腰掛ける。
「昔なら簡単だった」
「簡単?」
「敵だと決めれば、あとは戦うだけだ」
黒木は淡々と言った。
「だが、今は違う」
相沢は黙って聞く。
「海軍は、戦争を始めるためにあるわけじゃない」
黒木は海図を指した。
「俺たちが勝手に国を戦争へ引っ張ることもできん」
その言葉には、妙な重さがあった。
午後五時十二分。
状況が動いた。
雪風から緊急報告。
国籍不明潜水艦が進路を変えた。
北東。
津軽海峡方面。
隼鷹のCICが騒がしくなる。
海図上の線が引き直される。
このまま進めば、日本の領海へ接近する可能性がある。
第一艦隊司令部は東京へ緊急電を送った。
『国籍不明潜水艦、津軽海峡方面ヘ進路変更』
『指示ヲ請ウ』
返答を待つ時間が、異様に長く感じられた。
雪風は追跡を続ける。
上空の海燕も離れない。
しかし攻撃はできない。
相沢は飛行待機所の時計を何度も見た。
やがて通信員が駆け込んできた。
「軍令部より緊急電!」
黒木が立ち上がる。
命令が読み上げられた。
『内閣承認』
『領海侵入時、浮上及ビ退去要求ヲ実施セヨ』
『武力行使ハ、自衛上緊急ノ必要アル場合ヲ除キ禁止ス』
相沢は、その言葉を聞いて少し驚いた。
命令を出したのは、海軍だけではない。
東京にいる政府が決めたのだ。
黒木は短く頷いた。
「それでいい」
「いいんですか?」
相沢が思わず聞く。
黒木は相沢を見る。
「何がだ」
「軍令部だけで決めなくて」
一瞬、沈黙があった。
黒木は小さく息を吐いた。
「だからいいんだ」
そして言った。
「海軍が国を動かす時代は、昭和二十年に終わった」
午後六時。
太陽が西へ傾き始める。
雪風は依然として潜水艦を追っていた。
距離を保ち、相手の動きを監視する。
潜水艦は津軽海峡へ向かっているように見えた。
ところが。
午後六時十八分。
「目標、変針!」
報告が飛び込んだ。
海図上の線が再び変わる。
北西。
津軽海峡ではない。
「離れていく……?」
相沢が呟く。
潜水艦は日本沿岸から離れる方向へ進路を変えていた。
雪風は追跡を継続。
海燕も上空から監視する。
しかし潜水艦が再び日本側へ向かうことはなかった。
午後七時四十分。
第一艦隊司令部から命令が出た。
『追跡中止』
雪風が針路を変える。
上空の航空隊にも帰投命令が出された。
結局、一発も撃たなかった。
潜水艦の国籍も確認できなかった。
名前すら分からなかった。
夜。
相沢は隼鷹の飛行甲板に立っていた。
空には星が出ている。
海は静かだった。
昼間、この海の下に潜水艦がいたとは思えない。
黒木がやってきた。
「納得できない顔だな」
相沢は苦笑した。
「分かりますか」
「若い奴は大体そういう顔をする」
相沢は海を見る。
「結局、何も分かりませんでした」
「そうだな」
「相手が誰だったのかも」
「ああ」
「何をしに来たのかも」
「分からん」
相沢は少し黙った。
「じゃあ、今日の任務には意味があったんでしょうか」
黒木はすぐには答えなかった。
やがて、暗い海を見ながら言う。
「相沢」
「はい」
「今日、日本の船は一隻も沈まなかった」
相沢は黒木を見る。
「こちらも撃たなかった。向こうも撃たなかった」
黒木は続ける。
「そして、あいつは日本から離れていった」
それだけ言って、黒木は相沢を見る。
「海軍の仕事としては、それで十分な日もある」
相沢はもう一度海を見た。
士官学校では、海戦について学んだ。
勝敗についても学んだ。
敵艦を沈めれば勝利。
味方が沈められれば敗北。
分かりやすかった。
だが今日の出来事には、そんな明確な答えはなかった。
撃たずに終わった一日。
何も起きなかった一日。
それを守ることも、海軍の仕事なのかもしれない。
翌朝。
東京。
海軍軍令部では、今回の接触について報告書が作成されていた。
国籍――不明。
艦型――不明。
目的――不明。
ただし、行動記録と目撃情報から、ソビエト太平洋艦隊所属艦である可能性が高いとの分析が付け加えられた。
報告書の最後には、別の一文があった。
『現有駆逐艦ノ対潜能力ハ、将来予想サレル北方海域警備ニ対シ十分ナラズ』
そして、その報告書は軍令部から海軍省へ送られた。
数日後。
海軍省。
艦政本部の会議室に、一冊の薄い書類が置かれる。
表紙には、こう書かれていた。
――昭和二十八年度 新型駆逐艦建造計画。
戦争を生き残った「雪風」と「響」に、いつまでも日本の海を任せるわけにはいかない。
帝国海軍はようやく、自らの手で新しい軍艦を造ろうとしていた。




