北へ
昭和二十八年七月十二日。
第一艦隊は北へ向かっていた。
軽航空母艦「隼鷹」を中心に、駆逐艦「雪風」をはじめとする護衛艦艇がその周囲を進む。
目的地は津軽海峡西方。
任務は、国籍不明潜水艦の捜索および識別。
それだけだった。
相手が何者なのかは分からない。
そもそも、本当に潜水艦が存在するのかさえ、まだ確かではなかった。
隼鷹の飛行甲板では、第一〇一海軍航空隊が発艦準備を進めていた。
濃紺のTBM-3S「海燕一型」が並ぶ。
相沢慎一少尉は、その一機の横で北方海域の海図を確認していた。
「相沢」
振り返ると、黒木少佐が立っていた。
「今回の任務について、一つだけ覚えておけ」
「はい」
「見つけても、勝手に敵だと思うな」
相沢は少し意外に思った。
「ソ連潜水艦ではないのですか」
「可能性はある」
黒木は答えた。
「だが、可能性と事実は違う」
海の向こうにはソビエト連邦がある。
ウラジオストクにはソ連太平洋艦隊がいる。
だからといって、海中にいる潜水艦すべてが敵になるわけではない。
「俺たちは戦争をしに行くんじゃない」
黒木は言った。
「確かめに行くんだ」
やがて発艦命令が下った。
一機。
また一機。
海燕が隼鷹を離れ、北へ向かっていく。
相沢の機体も飛行甲板を離れた。
眼下には海しかなかった。
どこまで飛んでも海。
時折、漁船や貨物船が見える程度で、それ以外には何もない。
演習とは違う。
演習ならば、どこかに必ず相手がいる。
今回は違う。
何時間探しても、何も見つからない可能性がある。
捜索開始からしばらくが経った。
隼鷹から新たな情報が入る。
大湊から出動した警備艦艇が、漁船から詳しい証言を得たという。
目撃された艦影は一つ。
灰色。
甲板上に大きな構造物は見られず、発見から間もなく海面から姿を消した。
潜水艦である可能性は、さらに高くなった。
そのころ。
駆逐艦「雪風」でも情報が共有されていた。
戦時中から残る細長い船体。
その上には、かつて存在しなかったレーダーが載っている。
艦内ではソナー員たちが海中へ意識を集中させていた。
だが、何もない。
海は静かだった。
午後二時過ぎ。
状況が変わった。
『海燕二号より隼鷹』
無線から声が響く。
『海面上に艦影』
相沢は顔を上げた。
『位置――』
数字が読み上げられる。
相沢は海図へ目を落とした。
自分たちの捜索区域から、それほど遠くない。
数分後。
さらに通信。
『潜水艦と思われる』
そして、
『潜航を開始した』
相沢の表情が変わった。
本当にいた。
隼鷹のCICでは、海図上に新しい印が書き込まれた。
日米合同演習で何度も繰り返した作業だった。
しかし今回は、その印が意味するものが違う。
演習用の米潜水艦ではない。
何者なのか分からない潜水艦が、日本近海を航行している。
「雪風へ位置情報を送れ」
命令が飛ぶ。
通信員が動く。
今度は合同演習のような混乱は起こらなかった。
海燕から隼鷹へ。
隼鷹から雪風へ。
情報が流れていく。
雪風が進路を変えた。
相沢たちも現場へ向かう。
やがて眼下に雪風の艦影が見えてきた。
その先には何もない。
潜水艦はすでに海中へ姿を消している。
そして雪風から報告が入った。
『水中目標を探知』
隼鷹CICの空気が変わった。
「追跡を開始せよ」
「ただし――」
艦隊司令部から続けて命令が出る。
「攻撃行動を禁ずる」
相沢はその言葉を無線で聞いた。
敵かもしれない。
しかし、まだ敵ではない。
雪風は水中の目標を追う。
上空では海燕が周辺海域を監視する。
隼鷹はそのすべての情報を集めていた。
演習で学んだことが、今、本物の海で使われている。
やがて東京から新しい電文が届いた。
米海軍に照会した結果、この海域を行動中の米潜水艦は存在しないという。
アメリカではない。
では、誰なのか。
CICの海図上で、国籍不明潜水艦を示す印がゆっくりと北へ動いていた。
その先にある海。
日本海。
そして、そのさらに向こう。
ウラジオストク。
黒木は海図を見つめていた。
「……北へ帰るつもりか」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
そのころ、相沢は海燕の操縦席から海面を見下ろしていた。
何も見えない。
だが、その下には確かに誰かがいる。
名前も分からない。
国籍も分からない。
目的も分からない。
ただ一つ。
その潜水艦が北へ向かっていることだけは分かった。
相沢は初めて実感した。
自分たちが向き合うことになる相手は、もう八年前の敵ではない。
新しい時代の海は、すでに動き始めていた。




