二つの海軍
昭和二十八年六月。
軽航空母艦「隼鷹」の再就役から、一か月が過ぎていた。
横須賀沖を進む隼鷹の飛行甲板には、濃紺に塗られた艦上機が並んでいる。
機体側面に描かれているのは、白縁のついた日の丸。
かつて日本海軍の空母を攻撃した米国製艦上機、TBM-3Sアヴェンジャー。
帝国海軍での制式名称は「海燕一型」である。
だが、その名前で呼ぶ者はまだ少ない。
「相沢少尉」
声をかけられ、相沢慎一は振り返った。
「米艦隊が見えてきたぞ」
飛行甲板の端から水平線を見る。
最初に見えたのは、巨大な航空母艦だった。
その周囲を巡洋艦と駆逐艦が取り囲んでいる。
アメリカ海軍第七艦隊。
数年前まで、日本海軍にとって最大の敵だった海軍である。
相沢は無意識に息を呑んだ。
大きい。
隼鷹も決して小さな艦ではない。
しかし、水平線の向こうを進む米空母と比べると、その差は明らかだった。
「これが……アメリカ海軍か」
隣に立っていた古参士官が呟く。
「昔から、あんなものだ」
その言葉に相沢が振り返る。
第一〇一海軍航空隊飛行長、黒木少佐。
戦争中にも艦上機に乗っていた、数少ない旧海軍出身の搭乗員だった。
黒木は米艦隊を眺めたまま言った。
「問題は艦の大きさじゃない」
「では?」
「中身だよ」
黒木はそう言うと、艦橋へ向かって歩き出した。
今回の演習目的は対潜水艦戦。
米海軍の潜水艦一隻を仮想敵とし、日本側の艦艇と航空機が発見、追跡する。
参加する日本側の主力は隼鷹。
そして第一艦隊所属の駆逐艦「雪風」をはじめとする護衛艦艇だった。
一見すれば単純な演習である。
しかし帝国海軍にとっては、初めて経験する本格的な米海軍式対潜演習だった。
隼鷹の戦闘指揮所――CIC。
薄暗い室内に、レーダーや通信機器が並んでいる。
ここだけを見れば、相沢が教科書で見た戦時中の隼鷹とは別の艦だった。
中央の海図には、隼鷹、雪風、その他の護衛艦、そして上空を飛ぶ航空機から送られてきた情報が次々と書き込まれていく。
黒木が腕を組んでそれを眺めていた。
「昔なら、見張員が敵を見つける。航空機が敵を見つける。各艦がそれぞれ判断する」
相沢は黙って聞いていた。
「だが、連中は違う」
黒木は海図を指した。
「全部ここへ集める」
レーダー。
ソナー。
航空機。
護衛艦。
それぞれが持つ情報を一か所へ集め、艦隊全体で共有する。
言葉で聞けば簡単だった。
だが、それを実際の海上で行うのは別の話だった。
演習開始から二時間。
早くも問題が起きた。
『海燕三号機より隼鷹。海面上に異常を認む』
通信員が報告する。
「位置は?」
数字が読み上げられる。
海図上へ印がつけられた。
米潜水艦の可能性がある。
「雪風へ通報!」
指示が飛ぶ。
ところが――。
「雪風より確認要求!」
「何だ?」
「航空隊から報告された位置と、本艦から送信した位置に差があります!」
室内の空気が変わった。
通信員が記録を確認する。
航空隊から送られてきた情報。
隼鷹CICで整理された情報。
そして雪風へ送られた情報。
その間に、小さな食い違いが生まれていた。
一つ一つは些細な違いだった。
だが海上では、その些細な違いが大きな距離になる。
その間にも仮想敵は移動する。
「海燕三号機、目標を見失いました」
誰も声を発しなかった。
それから約一時間後。
艦内放送が流れた。
『演習判定を通達する』
相沢は顔を上げる。
『仮想敵潜水艦、第一艦隊防御線を突破』
一瞬の沈黙。
そして続いた言葉が、隼鷹の乗員をさらに黙らせた。
『軽航空母艦隼鷹――撃沈判定』
相沢は海図を見つめた。
こちらは一度、相手を見つけていた。
航空機も飛ばした。
雪風もいた。
レーダーもソナーもある。
それでも負けた。
黒木が小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「飛行長?」
「艦を新しくしただけじゃ、新しい海軍にはならんということだ」
黒木は海図上の隼鷹を示す駒を見た。
「こいつは、いい勉強になった」
翌日。
演習は再開された。
今度はやり方を変えた。
航空隊、隼鷹、護衛艦。
それぞれが別々に敵を探すのではない。
見つけた情報を隼鷹へ集め、そこから各艦へ伝える。
まだ米海軍ほど滑らかではない。
通信が遅れることもある。
間違いも起きる。
それでも昨日とは違った。
午後。
一機の海燕が海面上に異常を発見した。
情報は隼鷹へ。
隼鷹から雪風へ。
雪風が進路を変える。
やがて報告が入った。
『雪風、目標を捕捉』
CICにいた者たちの視線が海図へ集まった。
しばらくして、演習本部から判定が届く。
『仮想敵潜水艦――撃沈判定』
誰かが小さく拳を握った。
歓声は上がらなかった。
まだ一度成功しただけだ。
だが相沢には、それで十分だった。
夕方。
演習を終えた隼鷹は横須賀へ向かっていた。
相沢は飛行甲板から夕暮れの海を眺めていた。
遠くでは米艦隊が別の進路を取ろうとしている。
黒木が隣へやってきた。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがて黒木が口を開く。
「昔はな」
相沢が振り向く。
黒木は遠ざかる米艦隊を見ていた。
「あいつらをどうやって沈めるか。そればかり考えていた」
相沢には答えられなかった。
八年前まで、二つの海軍は太平洋の各地で戦っていた。
それが今では同じ海で、同じ潜水艦を探す訓練をしている。
「まさか今度は、あいつらから海の戦い方を教わることになるとはな」
黒木は苦笑した。
「悔しいですか」
相沢が尋ねる。
黒木は少し考えた。
「悔しいさ」
そして続けた。
「だから覚えるんだ」
「……はい」
「負けた理由まで忘れたら、今度こそ本当に何も残らん」
黒木はそれだけ言うと、艦内へ戻っていった。
相沢は再び海を見た。
隼鷹の右舷を、一隻の駆逐艦が航行している。
雪風。
戦争を生き残った駆逐艦。
そのマストには新しいレーダーが載り、艦内には新しいソナーがある。
だが、その船体は八年前と同じだった。
隼鷹も同じだ。
古い艦に、新しい装備。
古い名前を持つ、新しい海軍。
相沢は遠ざかる米艦隊を見つめた。
いつまでも教わる側ではいられない。
いつか、自分たち自身の艦を造る日が来る。
自分たち自身の戦い方を見つける日が来る。
その日がいつになるのか、相沢にはまだ分からなかった。
ただ一つだけ分かることがあった。
帝国海軍は戻ってきたのではない。
今までとは違う海へ、ようやく進み始めたのだ。




