十日間
昭和三十八年八月二十八日。横須賀。
軍艦旗が上がってから、一日。
航空母艦鳳翔は、早くも港を出ようとしていた。
本来なら、就役したばかりの新造艦にはもっと時間が与えられるはずだった。乗員が艦に慣れ、航空隊が飛行甲板に慣れ、機関員が機械の癖を覚える。公試で「動く」ことが確認された軍艦を、艦隊の中で「使える」軍艦へ変えるための時間だった。
鳳翔にも、そのための日程が用意されていた。
だが、その日程は朝鮮半島で戦争が始まるたびに書き直された。
そして今、海軍が鳳翔に与えた最初の期間は十日間だった。
十日後に戦場へ送るという命令ではない。
十日後、どこまで使えるようになっているか報告せよ。
そういう命令だった。
*
午前七時。
鳳翔は横須賀を離れた。
飛行甲板には航空機が並んでいる。固定翼の対潜哨戒機、そして対潜ヘリコプター。どれも隼鷹で積み上げてきた経験の先に選ばれた機体だった。
艦橋では出港後すぐに訓練が始まっている。
「第一航空隊、発艦準備」
号令が飛ぶ。
航空管制室から飛行甲板へ指示が送られ、甲板員が機体を動かす。公試でも繰り返した作業だった。
しかし今日は造船所の技術者が主役ではない。
海軍の乗員だけで動かす。
それだけで、同じ作業が少し違って見えた。
高瀬少佐は艦橋後方から、その様子を眺めていた。
本来なら彼の仕事は終わっている。鳳翔は昨日、正式に海軍へ引き渡された。設計者が艦の運用へ口を出す段階ではない。
それでも最初の慣熟期間だけは、技術側から何人かが同行することになった。
「少佐」
航空士官が振り返る。
「何だ」
「やっぱり狭いです」
高瀬は呆れた顔をした。
「昨日も聞いたぞ」
「昨日より狭く感じます」
「航空機は増えてないだろう」
「人間が慣れてきたんです。慣れると文句が増えます」
高瀬は笑った。
「それなら順調だ」
飛行甲板の先で、一機目が動き始めた。
鳳翔から、海軍機が飛び立つ。
公試ではない。
航空母艦鳳翔の航空隊として行う、最初の訓練だった。
*
同じころ、朝鮮半島南東方。
隼鷹では、訓練ではない発艦準備が進んでいた。
朝鮮東岸で確認される不審な海上活動は、その後も続いている。日本海軍の任務は変わらない。海上交通路を監視し、船団を守り、必要な情報を韓国・国連軍側と共有する。
第一艦隊がこの海へ入って二週間近く。
艦にも、人にも、疲労が出始めていた。
相沢慎一大尉は航空隊の運用表を見ていた。機体を飛ばせば整備が必要になる。搭乗員にも休息がいる。それでも海上哨戒には穴を開けられない。
「鳳翔が就役したそうですね」
航空士官の一人が言った。
「ああ」
「こっちに来ますかね」
相沢は運用表から目を離さなかった。
「来られるならな」
「新造艦ですよ」
「だからだよ」
相沢が顔を上げる。
「俺たちは隼鷹を十年使ってる。この艦がどこで機嫌を悪くするか、みんな知ってる」
机を指で軽く叩く。
「鳳翔の連中は、昨日から自分たちの艦を覚え始めたばかりだ」
新しいことと、慣れていること。
戦場では、その差が簡単には埋まらない。
「まあ」
相沢は運用表を閉じた。
「覚えるのが早い連中なら助かるけどな」
*
鳳翔の最初の数日は、失敗の連続だった。
大きな事故ではない。
航空機を甲板上で移動させる順番が悪く、次の発艦が遅れる。通信の確認に時間がかかる。CICから航空管制へ伝わる情報の形式が、現場の欲しいものと少し違う。
一つ一つは小さい。
公試では見つけにくかった問題だった。
だが高瀬には、その光景に覚えがあった。
十年前。
響の上で、新しい装備を試していたころ。
機械は動いている。
人間も間違っていない。
なのに、全部をつなぐとうまくいかない。
春風を造る前にも、同じ問題にぶつかった。
そして今。
鳳翔でも、また同じことをやっている。
軍艦が大きくなっても、人間の仕事は変わらないらしい。
三日目の夜。
鳳翔のCICでは、訓練の反省会が続いていた。
「発見から艦橋への報告は早い」
航空士官が言う。
「問題は、その後です。航空隊が欲しい情報へ整理するまでが遅い」
「CIC側では必要な情報を全部送っている」
「全部送るから遅いんです」
一瞬、部屋が静かになった。
高瀬は壁際で聞いていた。
昔なら、そこで誰が悪いという話になったかもしれない。
今は違う。
「じゃあ何が必要なんだ」
CICの士官が聞いた。
航空士官が海図へ近づく。
「航空隊が今すぐ必要なのは、この三つです」
議論が始まった。
高瀬は何も言わなかった。
それでいい。
この船を造るのは、もう自分たちの仕事ではない。
ここから鳳翔を造るのは、乗っている人間だった。
*
九月一日。
朝鮮半島。
戦闘開始から、一か月が過ぎた。
北朝鮮軍による一気の南進は起きていない。韓国軍も国連軍も戦線を維持している。
だが、戦争は終わってもいなかった。
軍事境界線周辺では戦闘が続き、沿岸では小規模な海上活動が繰り返されている。日本から韓国南部へ向かう輸送船も増えていた。
その日、第一艦隊へ新しい報告が届いた。
「船団規模、前回の一・五倍」
隼鷹のCICで、士官が言った。
黒木中佐が海図を見る。
「護衛は」
「現在の編成で可能です。ただし航空哨戒を増やす必要があります」
「増やせるか」
航空隊から届いた資料を見る。
数字は厳しかった。
不可能ではない。
だが、それを何週間も続けることはできない。
黒木は椅子へ座った。
「鳳翔はどうなってる」
「慣熟訓練中です」
「それは知ってる」
士官が別の資料を出した。
「三日前と比較して、航空運用回数は改善しています。艦隊通信訓練も予定より早いようです」
黒木が少しだけ眉を上げる。
「ほう」
「海軍省は、九月六日に中間判定を行う予定です」
黒木はカレンダーを見る。
あと五日。
「急かすなよ」
「我々がですか?」
「東京がだ」
黒木は海図へ視線を戻した。
「急がせれば、船が経験を積むわけじゃない」
*
九月三日。
鳳翔は伊豆諸島東方を航行していた。
この日の訓練は、これまでより複雑だった。
春風型駆逐艦二隻が参加し、陸上航空隊からも情報が送られる。鳳翔のCICがそれを整理し、航空隊へ渡す。
飛行甲板では発艦と着艦を繰り返す。
初日には止まっていた場所で、今日は止まらない。
初日には声を張り上げて確認していた作業が、手信号一つで進んでいく。
艦が変わったわけではない。
人間が変わった。
夕方、高瀬は飛行甲板からその様子を眺めていた。
艦長が隣へ来た。
「どう見えます」
高瀬は少し考えた。
「私に聞くことじゃないでしょう」
「造った人間の意見も聞きたい」
高瀬は飛行甲板を見る。
着艦した航空機が移動し、その横では次の機体が準備されている。
「三日前より軍艦らしくなりました」
艦長が笑う。
「昨日は?」
「昨日よりもです」
「明日は?」
高瀬も笑った。
「明日聞いてください」
そのとき通信士官が艦橋から出てきた。
「艦長。海軍省からです」
書類が渡される。
艦長が読む。
高瀬は、その表情が変わるのを見た。
「何です」
艦長は黙って紙を渡した。
そこには、九月六日に予定されていた中間判定について書かれていた。
その下。
『判定結果良好ナル場合、第一艦隊編入ヲ前提トシタル第二段階慣熟訓練ニ移行ス』
高瀬は読み返した。
第一艦隊。
つまり。
朝鮮の海だった。
*
九月六日。
横須賀。
十日間の結果が、海軍省へ提出された。
機関運用。
良好。
航空運用。
改善中。
艦隊通信。
良好。
CIC運用。
改善中。
乗員練度。
実戦配備基準には未達。
最後の一行が重要だった。
『ただし、艦隊行動下ニ於ケル慣熟訓練ヘ移行可能ト認ム』
会議室で、海軍大臣が報告書を読んだ。
「つまり?」
担当士官が答える。
「まだ戦える空母ではありません」
海軍大臣は顔を上げる。
「しかし?」
「第一艦隊と行動しながら、戦える空母にする段階には入りました」
部屋が静かになった。
朝鮮半島の地図。
第一艦隊の位置。
隼鷹。
そして横須賀。
鳳翔。
二つの印は、まだ遠く離れている。
海軍大臣はしばらく地図を見たあと、報告書を閉じた。
「政府に上げる」
*
同日夜。
鳳翔。
艦内放送が流れた。
翌朝。
出港。
目的地は、佐世保。
そこで補給と最終準備を行い、その後、第一艦隊との合同訓練へ移る。
まだ朝鮮半島へ向かうとは言われていない。
だが。
乗員の誰もが分かっていた。
佐世保から先に何があるのか。
高瀬は岸壁から鳳翔を見上げていた。
もう、自分が乗る理由はなかった。
十日間。
造船技術側として同行する仕事は終わった。
明日からは、完全に海軍の船になる。
「少佐」
艦長が飛行甲板から声をかけた。
「行ってきます」
高瀬は少し考えた。
そして答えた。
「壊さないでくださいよ」
艦長が笑う。
「保証はできません」
「困るな」
それで十分だった。
*
翌朝。
鳳翔は横須賀を離れた。
高瀬は岸壁から、その姿が小さくなるまで見ていた。
十年前、隼鷹は新しい海軍に航空母艦というものを教えるため、横須賀ではなく呉から再び海へ出た。
今度は、その隼鷹から学んだすべてを詰め込んだ空母が海へ出ていく。
まだ戦場へ向かうわけではない。
まだ実戦配備でもない。
だが、針路は西だった。
そのころ朝鮮半島南東方では、隼鷹が次の船団を迎えるため航空機を飛ばしていた。
古い空母は、新しい空母が来ることをまだ知らない。
二隻の距離が、初めて縮まり始めていた。




