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海軍は再び翼を得る  作者: フジ
極東動乱
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32/33

十日間


昭和三十八年八月二十八日。横須賀。


軍艦旗が上がってから、一日。


航空母艦鳳翔は、早くも港を出ようとしていた。


本来なら、就役したばかりの新造艦にはもっと時間が与えられるはずだった。乗員が艦に慣れ、航空隊が飛行甲板に慣れ、機関員が機械の癖を覚える。公試で「動く」ことが確認された軍艦を、艦隊の中で「使える」軍艦へ変えるための時間だった。


鳳翔にも、そのための日程が用意されていた。


だが、その日程は朝鮮半島で戦争が始まるたびに書き直された。


そして今、海軍が鳳翔に与えた最初の期間は十日間だった。


十日後に戦場へ送るという命令ではない。


十日後、どこまで使えるようになっているか報告せよ。


そういう命令だった。


*


午前七時。


鳳翔は横須賀を離れた。


飛行甲板には航空機が並んでいる。固定翼の対潜哨戒機、そして対潜ヘリコプター。どれも隼鷹で積み上げてきた経験の先に選ばれた機体だった。


艦橋では出港後すぐに訓練が始まっている。


「第一航空隊、発艦準備」


号令が飛ぶ。


航空管制室から飛行甲板へ指示が送られ、甲板員が機体を動かす。公試でも繰り返した作業だった。


しかし今日は造船所の技術者が主役ではない。


海軍の乗員だけで動かす。


それだけで、同じ作業が少し違って見えた。


高瀬少佐は艦橋後方から、その様子を眺めていた。


本来なら彼の仕事は終わっている。鳳翔は昨日、正式に海軍へ引き渡された。設計者が艦の運用へ口を出す段階ではない。


それでも最初の慣熟期間だけは、技術側から何人かが同行することになった。


「少佐」


航空士官が振り返る。


「何だ」


「やっぱり狭いです」


高瀬は呆れた顔をした。


「昨日も聞いたぞ」


「昨日より狭く感じます」


「航空機は増えてないだろう」


「人間が慣れてきたんです。慣れると文句が増えます」


高瀬は笑った。


「それなら順調だ」


飛行甲板の先で、一機目が動き始めた。


鳳翔から、海軍機が飛び立つ。


公試ではない。


航空母艦鳳翔の航空隊として行う、最初の訓練だった。


*


同じころ、朝鮮半島南東方。


隼鷹では、訓練ではない発艦準備が進んでいた。


朝鮮東岸で確認される不審な海上活動は、その後も続いている。日本海軍の任務は変わらない。海上交通路を監視し、船団を守り、必要な情報を韓国・国連軍側と共有する。


第一艦隊がこの海へ入って二週間近く。


艦にも、人にも、疲労が出始めていた。


相沢慎一大尉は航空隊の運用表を見ていた。機体を飛ばせば整備が必要になる。搭乗員にも休息がいる。それでも海上哨戒には穴を開けられない。


「鳳翔が就役したそうですね」


航空士官の一人が言った。


「ああ」


「こっちに来ますかね」


相沢は運用表から目を離さなかった。


「来られるならな」


「新造艦ですよ」


「だからだよ」


相沢が顔を上げる。


「俺たちは隼鷹を十年使ってる。この艦がどこで機嫌を悪くするか、みんな知ってる」


机を指で軽く叩く。


「鳳翔の連中は、昨日から自分たちの艦を覚え始めたばかりだ」


新しいことと、慣れていること。


戦場では、その差が簡単には埋まらない。


「まあ」


相沢は運用表を閉じた。


「覚えるのが早い連中なら助かるけどな」


*


鳳翔の最初の数日は、失敗の連続だった。


大きな事故ではない。


航空機を甲板上で移動させる順番が悪く、次の発艦が遅れる。通信の確認に時間がかかる。CICから航空管制へ伝わる情報の形式が、現場の欲しいものと少し違う。


一つ一つは小さい。


公試では見つけにくかった問題だった。


だが高瀬には、その光景に覚えがあった。


十年前。


響の上で、新しい装備を試していたころ。


機械は動いている。


人間も間違っていない。


なのに、全部をつなぐとうまくいかない。


春風を造る前にも、同じ問題にぶつかった。


そして今。


鳳翔でも、また同じことをやっている。


軍艦が大きくなっても、人間の仕事は変わらないらしい。


三日目の夜。


鳳翔のCICでは、訓練の反省会が続いていた。


「発見から艦橋への報告は早い」


航空士官が言う。


「問題は、その後です。航空隊が欲しい情報へ整理するまでが遅い」


「CIC側では必要な情報を全部送っている」


「全部送るから遅いんです」


一瞬、部屋が静かになった。


高瀬は壁際で聞いていた。


昔なら、そこで誰が悪いという話になったかもしれない。


今は違う。


「じゃあ何が必要なんだ」


CICの士官が聞いた。


航空士官が海図へ近づく。


「航空隊が今すぐ必要なのは、この三つです」


議論が始まった。


高瀬は何も言わなかった。


それでいい。


この船を造るのは、もう自分たちの仕事ではない。


ここから鳳翔を造るのは、乗っている人間だった。


*


九月一日。


朝鮮半島。


戦闘開始から、一か月が過ぎた。


北朝鮮軍による一気の南進は起きていない。韓国軍も国連軍も戦線を維持している。


だが、戦争は終わってもいなかった。


軍事境界線周辺では戦闘が続き、沿岸では小規模な海上活動が繰り返されている。日本から韓国南部へ向かう輸送船も増えていた。


その日、第一艦隊へ新しい報告が届いた。


「船団規模、前回の一・五倍」


隼鷹のCICで、士官が言った。


黒木中佐が海図を見る。


「護衛は」


「現在の編成で可能です。ただし航空哨戒を増やす必要があります」


「増やせるか」


航空隊から届いた資料を見る。


数字は厳しかった。


不可能ではない。


だが、それを何週間も続けることはできない。


黒木は椅子へ座った。


「鳳翔はどうなってる」


「慣熟訓練中です」


「それは知ってる」


士官が別の資料を出した。


「三日前と比較して、航空運用回数は改善しています。艦隊通信訓練も予定より早いようです」


黒木が少しだけ眉を上げる。


「ほう」


「海軍省は、九月六日に中間判定を行う予定です」


黒木はカレンダーを見る。


あと五日。


「急かすなよ」


「我々がですか?」


「東京がだ」


黒木は海図へ視線を戻した。


「急がせれば、船が経験を積むわけじゃない」


*


九月三日。


鳳翔は伊豆諸島東方を航行していた。


この日の訓練は、これまでより複雑だった。


春風型駆逐艦二隻が参加し、陸上航空隊からも情報が送られる。鳳翔のCICがそれを整理し、航空隊へ渡す。


飛行甲板では発艦と着艦を繰り返す。


初日には止まっていた場所で、今日は止まらない。


初日には声を張り上げて確認していた作業が、手信号一つで進んでいく。


艦が変わったわけではない。


人間が変わった。


夕方、高瀬は飛行甲板からその様子を眺めていた。


艦長が隣へ来た。


「どう見えます」


高瀬は少し考えた。


「私に聞くことじゃないでしょう」


「造った人間の意見も聞きたい」


高瀬は飛行甲板を見る。


着艦した航空機が移動し、その横では次の機体が準備されている。


「三日前より軍艦らしくなりました」


艦長が笑う。


「昨日は?」


「昨日よりもです」


「明日は?」


高瀬も笑った。


「明日聞いてください」


そのとき通信士官が艦橋から出てきた。


「艦長。海軍省からです」


書類が渡される。


艦長が読む。


高瀬は、その表情が変わるのを見た。


「何です」


艦長は黙って紙を渡した。


そこには、九月六日に予定されていた中間判定について書かれていた。


その下。


『判定結果良好ナル場合、第一艦隊編入ヲ前提トシタル第二段階慣熟訓練ニ移行ス』


高瀬は読み返した。


第一艦隊。


つまり。


朝鮮の海だった。


*


九月六日。


横須賀。


十日間の結果が、海軍省へ提出された。


機関運用。


良好。


航空運用。


改善中。


艦隊通信。


良好。


CIC運用。


改善中。


乗員練度。


実戦配備基準には未達。


最後の一行が重要だった。


『ただし、艦隊行動下ニ於ケル慣熟訓練ヘ移行可能ト認ム』


会議室で、海軍大臣が報告書を読んだ。


「つまり?」


担当士官が答える。


「まだ戦える空母ではありません」


海軍大臣は顔を上げる。


「しかし?」


「第一艦隊と行動しながら、戦える空母にする段階には入りました」


部屋が静かになった。


朝鮮半島の地図。


第一艦隊の位置。


隼鷹。


そして横須賀。


鳳翔。


二つの印は、まだ遠く離れている。


海軍大臣はしばらく地図を見たあと、報告書を閉じた。


「政府に上げる」


*


同日夜。


鳳翔。


艦内放送が流れた。


翌朝。


出港。


目的地は、佐世保。


そこで補給と最終準備を行い、その後、第一艦隊との合同訓練へ移る。


まだ朝鮮半島へ向かうとは言われていない。


だが。


乗員の誰もが分かっていた。


佐世保から先に何があるのか。


高瀬は岸壁から鳳翔を見上げていた。


もう、自分が乗る理由はなかった。


十日間。


造船技術側として同行する仕事は終わった。


明日からは、完全に海軍の船になる。


「少佐」


艦長が飛行甲板から声をかけた。


「行ってきます」


高瀬は少し考えた。


そして答えた。


「壊さないでくださいよ」


艦長が笑う。


「保証はできません」


「困るな」


それで十分だった。


*


翌朝。


鳳翔は横須賀を離れた。


高瀬は岸壁から、その姿が小さくなるまで見ていた。


十年前、隼鷹は新しい海軍に航空母艦というものを教えるため、横須賀ではなく呉から再び海へ出た。


今度は、その隼鷹から学んだすべてを詰め込んだ空母が海へ出ていく。


まだ戦場へ向かうわけではない。


まだ実戦配備でもない。


だが、針路は西だった。


そのころ朝鮮半島南東方では、隼鷹が次の船団を迎えるため航空機を飛ばしていた。


古い空母は、新しい空母が来ることをまだ知らない。


二隻の距離が、初めて縮まり始めていた。

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