空母鳳翔
昭和三十八年八月二十七日。横須賀。
朝から、よく晴れていた。
横須賀海軍工廠の岸壁に、一隻の航空母艦が停泊している。全長二百三十メートルを超える船体。その上には斜めに延びる着艦区域があり、右舷には艦橋構造物が立っている。
航空母艦、鳳翔。
昭和三十五年に起工し、翌年進水。それから艤装と公試を重ねてきた、日本海軍戦後初の国産航空母艦だった。
岸壁には海軍関係者だけでなく、政府関係者や造船所の技術者たちも並んでいた。華やかな式典ではない。朝鮮半島では、今も戦争が続いている。
予定されていた祝賀行事の一部も取りやめられていた。
それでも、この日だけは変えなかった。
鳳翔を、海軍へ引き渡す日だった。
*
高瀬誠一少佐は、岸壁から鳳翔を見上げていた。
大きい。
図面の上では、何千回も見ている。建造中の船体にも、数え切れないほど足を運んだ。進水の日にもいた。初航海にも乗った。
それでも、完成した姿を下から見ると別の船のように思えた。
「終わりましたね」
隣にいた技術士官が言った。
高瀬は少し考えてから、首を振った。
「造るのが終わっただけだ」
「十分でしょう」
「海軍はこれからだよ」
岸壁では引き渡しに必要な書類の確認が進んでいる。
機関。
船体。
通信。
航空設備。
CIC。
公試で見つかった問題の一つ一つに、確認済みの印が付けられていた。
完全な船ではない。
そんな軍艦は存在しない。
だが、海へ出せる。
航空機を運用できる。
艦隊と行動できる。
そして何より、これから改良していける余地がある。
高瀬たちが隼鷹を調べたとき、最も欲しかったものだった。
「少佐」
士官が書類を差し出す。
高瀬は受け取った。
一番上には、短く記されている。
『航空母艦鳳翔 引渡』
しばらく眺めてから、高瀬は署名した。
それで、造船所の船ではなくなった。
*
午前十時。
乗員が甲板上に整列した。
艦長が前へ出る。
岸壁では海軍大臣がその様子を見ていた。
長い演説はなかった。
「本日、航空母艦鳳翔を日本帝国海軍艦艇籍に編入する」
静かな声だった。
「本艦は、我が国が戦後初めて建造した航空母艦である」
飛行甲板に並ぶ乗員たちが聞いている。
「しかし、新しい艦を持つこと自体が目的ではない」
海軍大臣は、一度言葉を切った。
「この艦を何のために使うのか。それを決めるのは海軍ではない。国民から統治を託された政府である」
誰も動かなかった。
「諸君に求めるのは、強い海軍であることだけではない。国家の命令に従い、国家の海を守る海軍であることである」
短い訓示が終わった。
やがて、号令が響く。
軍艦旗が上がった。
風を受け、旗が開く。
高瀬はそれを見上げていた。
航空母艦鳳翔。
その名前が海軍へ戻った瞬間だった。
*
同じころ。
朝鮮半島南東方。
航空母艦隼鷹では、いつも通りの一日が続いていた。
飛行甲板では航空機の発艦準備。CICでは朝鮮東岸の船舶情報が整理され、護衛艦艇から次々と報告が入ってくる。
横須賀で何が起きているかなど、海だけを見ていれば分からない。
相沢慎一大尉のところへ、通信士官が紙を一枚持ってきた。
「横須賀からです」
相沢は受け取る。
短い電文だった。
『航空母艦鳳翔、本日海軍ニ引渡』
相沢は二度読んだ。
「できたか」
それだけ言った。
近くにいた若い搭乗員が覗き込む。
「鳳翔ですか」
「ああ」
「じゃあ、隼鷹も帰れますね」
相沢は紙から目を上げた。
少し離れたところで、黒木中佐も聞いていた。
「帰れんよ」
若い搭乗員が振り返る。
「でも、新しい空母が完成したんですよね」
「完成した」
黒木は答えた。
「だから?」
「交代できるんじゃ……」
黒木は海を見る。
「艦が完成しても、人間は完成しない」
以前にも口にした言葉だった。
鳳翔には乗員がいる。航空隊も準備されている。発着艦試験も終えた。
だが、公試で航空機を飛ばすことと、戦時下の海で何日も艦隊航空を続けることは同じではない。
相沢が電文を折る。
「慣熟が要りますね」
「ああ」
「どのくらいです」
黒木は答えなかった。
平時なら、時間をかければいい。
今は違う。
朝鮮半島では戦争が続いている。
必要な時間と、与えられる時間は同じとは限らなかった。
*
横須賀。
式典が終わると、鳳翔は急に忙しくなった。
祝賀の空気は、ほとんど残らなかった。
物資が運び込まれ、乗員が配置を確認する。通信設備では艦隊との接続確認が始まり、CICでは新しい海図が広げられていた。
その海図には、日本だけが描かれているわけではない。
対馬海峡。
日本海。
朝鮮半島。
第一艦隊の現在位置。
そして、隼鷹。
鳳翔の士官たちは、その印を見ていた。
自分たちがこれから向かうかもしれない海だった。
午後、高瀬が飛行甲板へ出ると、航空関係の士官たちが動線を確認していた。
一人が高瀬に気づく。
「少佐」
「どうだ」
「狭いですね」
高瀬は思わず笑った。
「やっぱり言ったな」
「何がです?」
「いや。こっちの話だ」
二万六千トン。
三十五機を基準とした航空群。
隼鷹より大きな飛行甲板。
それでも、使う側は狭いと言う。
それでよかった。
軍艦は図面の中で完成するものではない。
人間に使われて、初めて問題が分かる。
そして直す。
春風のときも、そうだった。
鳳翔も同じだった。
*
夕方。
高瀬は一人で飛行甲板の前方まで歩いた。
横須賀の海が広がっている。
そこから先に、隼鷹がいる。
この船を造り始めたとき、隼鷹を戦場へ送り出すことになるとは誰も考えていなかった。
そもそも鳳翔は、老朽化した隼鷹を静かに退役させるための船だった。
新しい空母が完成する。
隼鷹から人を移す。
航空隊を移す。
経験を移す。
そして、古い空母は役目を終える。
そうなるはずだった。
戦争が、その順番を変えた。
先に隼鷹が海へ出た。
鳳翔は後から追いかけることになった。
「少佐」
後ろから声がした。
振り返ると、鳳翔の士官が立っていた。
「海軍省からです」
書類を受け取る。
高瀬は目を通した。
『第一段階慣熟訓練日程』
その期間は、当初の計画より短い。
だが、無茶な数字でもなかった。
必要なものは残されている。
高瀬は少し安心した。
「すぐ出せ、とは書いてないな」
「今のところは」
「その言い方はやめろ」
二人とも少し笑った。
だが、その下にはもう一枚の文書があった。
『朝鮮半島情勢悪化ニ伴フ鳳翔運用準備ニ関スル件』
高瀬の表情から笑みが消えた。
やはり。
海軍は考えている。
鳳翔を、朝鮮の海へ送ることを。
*
午後七時。
軍艦旗を掲げた鳳翔は、横須賀の岸壁に静かに浮かんでいた。
百年以上前。
初代鳳翔は、日本海軍が空母というものを学び始めた時代に生まれた。
そして昭和三十八年。
同じ名を持つ二代目は、戦後の日本海軍が自ら設計し、自ら建造した最初の航空母艦として海軍へ加わった。
だが、その門出に平穏な海は用意されていなかった。
朝鮮半島南東方では、隼鷹が今夜も哨戒機を飛ばしている。
横須賀では、鳳翔の乗員が明日の訓練予定を確認している。
古い空母は、戦争の海にいる。
新しい空母は、まだ戦争を知らない。
二隻の間にある距離は、海里だけではなかった。
それでも。
昭和三十八年八月二十七日。
日本帝国海軍は初めて、二隻の航空母艦を同時に現役艦として持った。
航空母艦隼鷹。
航空母艦鳳翔。
一隻は、古い海軍から残された艦。
もう一隻は、新しい海軍が造った艦。
そして二隻はまだ、同じ海を走ったことがなかった。




