夜の海
昭和三十八年八月十五日。朝鮮半島東岸。
午後六時を過ぎると、海の上には急速に夜が降り始めた。西の空にはまだ夕日の色が残っているが、朝鮮半島の山々はすでに黒い影になりつつある。
航空母艦隼鷹は、その海岸線から十分な距離を取って南東へ進んでいた。
第一艦隊に届いた情報は単純だった。朝鮮半島東岸を南下する複数の船影。所属は北朝鮮側と推定。ただし目的は不明。
それだけである。
「数は?」
隼鷹のCICで、黒木中佐が尋ねた。
「国連軍からの第一報では四ないし六。その後、沿岸監視所が三隻を確認しています」
「ずいぶん曖昧だな」
「夜になりますから」
海図にはいくつもの印が書き込まれていた。韓国側から届いた情報、米軍から入った情報、第一艦隊自身が確認した船舶。報告された時刻も位置も少しずつ違う。
同じ船を二度数えている可能性もある。
逆に、まだ見つけていない船がいる可能性もあった。
黒木はしばらく海図を見たあと、「航空隊を出す」と言った。
「ただし確認だけだ。見つけたからといって敵にするな」
「了解」
飛行甲板へ命令が送られた。
*
相沢慎一大尉の乗った哨戒機が隼鷹を離れたころには、海面はほとんど闇に沈んでいた。
昼間なら、海は広い。
夜になると、その広さが別の意味を持つ。
見えないのである。
雲の切れ間からわずかな月明かりが落ち、その下に黒い海面が広がっている。相沢は朝鮮半島の海岸線を右手に見ながら、報告された海域へ向かった。
「予定海域まで五分」
「了解」
相沢は窓の外を見る。
昼間に見えた煙は、もう分からない。代わりに、ときどき陸上に小さな光が見えた。それが町なのか、車両なのか、それとも戦闘によるものなのかは判断できなかった。
「海だけ見ろ」
自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
やがて、搭乗員の声が飛んだ。
「海面、船影らしきもの」
相沢が身を乗り出す。
一つ。
小さい。
しばらくして、もう一つ。
さらに離れた場所にも影があった。
「三隻確認。隼鷹へ通報」
通信が始まる。
だが、妙だった。
船は南へ向かっていなかった。
「針路が違うな」
「はい」
報告されていた情報では、北朝鮮側の船舶が沿岸を南下しているはずだった。
ところが眼下の船影は、南西へ向かっている。
その先には韓国側の海岸があった。
相沢はしばらく見ていた。
「船団を狙ってるんじゃない」
「では?」
「分からん。だから調べる」
隼鷹へ、二度目の報告が送られた。
*
午後八時十三分。
隼鷹のCICに相沢からの情報が入ると、海図上の意味が変わった。
黒木は報告位置と進路を見比べた。
「このままだと?」
士官が定規を当てる。
「韓国東岸へ接近します」
「港は」
「主要港からは外れています」
それが、かえって気になった。
輸送船を攻撃するなら航路へ向かうはずだった。港を攻撃するなら港へ向かう。
だが、どちらでもない。
人の少ない海岸。
黒木は別の報告書を取った。韓国側から昼間に送られてきた沿岸警戒情報である。
「韓国側へ連絡。この海域に何かあるか確認しろ」
数分後、返答が来た。
特に重要な軍事施設はない。
小さな集落と道路があるだけ。
黒木の表情が変わった。
「……上陸か」
誰かが言った。
黒木はすぐには肯定しなかった。
「まだ決めるな」
だが、その可能性は考えなければならなかった。
船を沈めるための船ではない。
港を攻撃するためでもない。
人を運んでいるとすれば。
目的が見えてくる。
「韓国側へ位置情報を送れ。春風にも共有」
「春風を向かわせますか」
黒木は少し考えた。
「領海へ入るな。外から見ろ」
日本海軍の任務は、朝鮮半島への攻撃ではない。韓国沿岸の警備そのものも、本来は韓国軍と国連軍の仕事だった。
線を越えない。
その原則は、戦争が始まっても変わらなかった。
*
午後九時。
韓国東岸。
海岸近くの監視所へ、国連軍経由で日本側からの情報が届いた。
沖合から接近する小型船三隻。
推定位置。
推定針路。
監視所の兵士たちは暗い海を見た。
何も見えない。
それでも警戒命令が出され、周辺部隊へ連絡が走った。
道路には車両が出た。
沿岸部隊が配置につく。
戦場は軍事境界線だけではなくなっていた。
*
午後十時二十七分。
相沢たちは二度目の確認飛行に出ていた。
今度は春風からも情報が入っている。
一隻。
二隻。
そして三隻目。
位置が合う。
「海岸まで、かなり近いです」
「見えてる」
そのときだった。
一隻の船が針路を変えた。
続いて、もう一隻。
海岸へ向かう。
相沢は通信機を取った。
「隼鷹へ。対象二隻、韓国沿岸方向へ針路変更」
返答はすぐに来た。
『監視継続。攻撃するな』
「了解」
相沢は短く答えた。
攻撃するな。
当たり前だった。
日本の航空機が韓国領海内の船を独自判断で攻撃すれば、それは海上交通保護ではなくなる。
だから見る。
そして伝える。
今の第一艦隊にできるのは、それだった。
数分後。
海岸側から光が上がった。
続いて、別の光。
「韓国側が見つけたようです」
相沢は頷いた。
船影が動く。
一隻が沖へ向きを変えた。
もう一隻も続く。
海岸側でも何かが動いている。
だが相沢たちは近づかなかった。
「位置を送り続けろ」
それだけを命じた。
*
午後十一時五十分。
隼鷹。
「韓国側より連絡」
CICの士官が読み上げる。
沿岸への接近を確認。
上陸企図の可能性あり。
韓国側部隊が対応中。
不明船は沖合へ離脱。
黒木は海図を見る。
「春風は?」
「追跡可能です」
「追わせるな」
即答だった。
士官が一瞬だけ黒木を見る。
「我々の仕事じゃない」
黒木は海図上の一本の線を指した。
韓国領海。
その外側。
第一艦隊はそこにいる。
「情報は渡した。向こうも見つけた。なら、ここから先は韓国海軍の仕事だ」
「了解」
黒木は椅子へ戻った。
戦争では、できることが増える。
だからこそ。
やっていいことまで増えたと思ってはいけない。
*
八月十六日、午前一時。
東京。
海軍軍令部にも事件の速報が届いた。
北朝鮮側と推定される小型船が韓国東岸へ接近。第一艦隊航空隊が発見し、位置情報を韓国・国連軍側へ提供。韓国側が対応。
日本海軍による発砲なし。
領海侵入なし。
損害なし。
軍令部の士官は報告書を読み終えると、小さく息を吐いた。
「これでいい」
隣の士官が尋ねる。
「逃がしたのでは?」
「違う」
報告書を机へ置く。
「韓国の海まで日本海軍が守り始めたら、話が変わる」
どこまで行くのか。
その線を決めるのは、現場ではない。
政府だった。
*
同じ朝。
横須賀。
航空母艦鳳翔の艦内では、最後の確認作業が続いていた。
高瀬少佐が受け取った工程表には、残された項目がほとんどなかった。機関、操舵、航空管制、通信、CIC。公試で見つかった不具合も、重大なものについては修正を終えている。
そして一番下。
『最終引渡検査』
高瀬は、その文字をしばらく見た。
「日付は?」
「八月二十七日を予定しています」
「予定?」
技術士官が少し笑った。
「今度は、たぶん変わりません」
高瀬もわずかに笑った。
「そう願うよ」
窓の外には鳳翔がいた。
一年前。
まだ海に浮かんだばかりだった船。
数か月前。
初めて自力で海へ出た船。
そして今。
ようやく一隻の軍艦になろうとしている。
そこへ通信士官が入ってきた。
「第一艦隊から報告です」
高瀬は受け取った。
朝鮮東岸。
海上浸透の可能性。
航空隊が発見。
韓国側へ通報。
第一艦隊は交戦せず。
高瀬は最後まで読み、紙を折った。
「隼鷹は?」
「任務継続中です」
「そうか」
それだけ答えた。
新しい空母を造っている間も、古い空母は海にいる。
その事実が、以前より重く感じられた。
*
八月十七日。
朝鮮半島東岸。
夜が明けると、海は何事もなかったように青かった。
韓国側の沿岸部隊が夜間の捜索を続けている。前線では依然として戦闘が続き、港には輸送船が入り、沖合では第一艦隊が航路を守っていた。
昨夜、日本海軍は一発も撃たなかった。
敵艦を沈めてもいない。
それでも。
夜の海で見つけた三つの船影は、第一艦隊に一つのことを教えていた。
この戦争は、前線だけで行われているのではない。
海もまた、戦場になりつつある。
隼鷹のCICでは、新しい海図が広げられていた。
朝鮮東岸。
対馬海峡。
日本海。
そして、そのすべてを結ぶ航路。
黒木は海図を眺めたあと、静かに言った。
「忙しくなるな」
そのころ横須賀では、鳳翔の引き渡しまで、あと十日となっていた。




