朝鮮の海
昭和三十八年八月十三日。
朝鮮半島南東方。
夜明け前。
航空母艦隼鷹は、
西へ進んでいた。
その先にあるのは、
朝鮮半島。
これまで地図の上で見ていた戦争が、
水平線の向こうにあった。
*
午前五時四十分。
飛行甲板。
空が白み始める。
航空機の準備が進んでいた。
相沢慎一大尉は、
海の向こうを見た。
まだ陸地は見えない。
だが。
ここはもう、
日本近海ではなかった。
「朝鮮、見えますかね」
若い搭乗員が言った。
「そのうちな」
「十年前も、隼鷹はここまで来たんですか」
相沢は首を振った。
「来ていない」
昭和二十八年。
隼鷹は、
朝鮮戦争によって蘇った。
だが。
その戦争が終わった年に、
ようやく海軍へ戻った。
戦場へ出ることはなかった。
十年後。
老いた空母は、
ようやく朝鮮の海へ来ていた。
「発艦準備!」
声が響く。
会話は終わった。
*
CIC。
海図には、
これまでより多くの印があった。
日本海軍。
韓国海軍。
米海軍。
商船。
輸送船。
所属確認中の船舶。
そして。
朝鮮半島。
黒木中佐は、
海図を見ていた。
「国連軍から更新情報」
新しい位置情報が入る。
海図が書き換えられる。
日本海軍は、
国連軍の指揮下にはない。
だが。
情報は共有する。
それが、
政府の決めた線だった。
「第一哨戒機、発艦します」
黒木が時計を見る。
「了解」
*
飛行甲板。
航空機が走る。
そして。
海へ向かって飛び立った。
一機。
続いて、
もう一機。
任務は、
海上交通路の監視。
船団の確認。
不審船の捜索。
それだけだった。
朝鮮半島への攻撃は、
許可されていない。
地上戦への支援も、
任務ではない。
相沢たちが見るのは、
海だった。
*
午前七時。
高度を取った航空機から、
陸地が見えた。
朝鮮半島。
相沢は、
しばらく黙っていた。
遠い。
それでも。
見える。
海岸線。
港。
山。
そして。
そのさらに奥。
細い煙が、
いくつか上がっていた。
「……あれは」
誰かが言った。
相沢は答えなかった。
何の煙か。
ここからでは分からない。
だが。
朝鮮半島が戦争をしている。
それだけは、
分かった。
「見るのは海だ」
相沢が言った。
搭乗員が振り返る。
「地上は俺たちの任務じゃない」
視線を戻す。
眼下には、
船がいる。
それを確認する。
それが仕事だった。
*
午前九時。
韓国南部。
港には、
船が次々と入っていた。
貨物。
燃料。
医療物資。
食料。
港湾では、
人間が休みなく働いている。
入ってくる船。
出ていく船。
荷を降ろす車両。
前線へ向かう車列。
十年前と同じように。
戦争は、
前線だけで動いているわけではなかった。
一発も撃たない船が、
戦争を支えていた。
そして。
その船を通すため。
沖合では、
日本の艦隊が動き始めていた。
*
正午。
隼鷹。
「船団確認」
CICに報告が入る。
日本方面から来た輸送船団。
予定通り。
異常なし。
春風型駆逐艦が、
護衛位置へ入る。
別の艦が、
前方海域を確認する。
上空では、
隼鷹の航空隊。
黒木は、
その流れを見ていた。
航空機が見る。
艦艇が確認する。
CICへ集める。
船団へ伝える。
十年前。
響の上で。
春風の図面の前で。
何度も議論されたものだった。
一隻の軍艦を強くするのではない。
艦隊全体で、
同じ海を見る。
それが。
今。
朝鮮半島の沖で、
実際に動いていた。
「船団、予定航路を継続」
黒木が頷く。
「そのまま通せ」
*
午後二時。
状況が変わった。
哨戒機から、
報告。
「海上に漂流船」
CICが静まる。
「所属は」
「確認中」
「人は」
「甲板上に複数確認」
黒木は考える。
攻撃ではない。
不審船でもない。
「春風を向かわせろ」
*
漂流していたのは、
小さな韓国の貨物船だった。
機関に問題を起こし、
航行不能になっていた。
乗員は、
無事だった。
春風が接近する。
必要な支援が始まる。
砲声はない。
敵もいない。
ただ。
動けなくなった船を、
海から連れ戻す。
それも、
海軍の仕事だった。
*
夕方。
隼鷹。
飛行甲板へ、
航空機が戻ってくる。
一機。
また一機。
相沢が降りる。
黒木が待っていた。
「どうだった」
「海は静かです」
「陸は」
相沢は、
少し間を置いた。
「煙が見えました」
黒木は何も言わなかった。
相沢が続ける。
「変な感じですね」
「何がだ」
「こっちは静かなんです」
海を見る。
夕日。
波。
船。
いつもと変わらない。
「向こうでは戦争してるのに」
黒木は、
しばらく海を見ていた。
「海はそういうもんだ」
それだけだった。
*
八月十四日。
東京。
第一艦隊から、
最初の報告が届いた。
『朝鮮半島南部航路、護衛任務開始』
『輸送船団、異常ナク通航』
『漂流韓国船一隻救援』
『敵性行動、確認セズ』
海軍大臣は、
報告書を読んだ。
戦果。
なし。
損害。
なし。
輸送船。
通過。
それでよかった。
だが。
別の報告書が、
その横に置かれる。
朝鮮半島。
戦線。
戦闘は、
さらに激しくなっていた。
韓国軍は持ちこたえている。
国連軍も動いている。
北朝鮮軍も、
後退してはいない。
誰も。
いつ終わるのか、
答えられなかった。
*
横須賀。
航空母艦鳳翔。
最終公試。
新しい空母は、
再び海へ出ていた。
速力。
通信。
航空運用。
CIC。
確認項目は、
残り少ない。
高瀬少佐は、
艦橋で報告を聞いていた。
「機関、異常なし」
「通信系統、異常なし」
「航空管制、確認終了」
一つ。
また一つ。
項目が消えていく。
高瀬は、
工程表を見る。
もう。
完成間近ではない。
完成する。
そう言えるところまで、
鳳翔は来ていた。
そこへ。
通信士官が近づいた。
「少佐」
「何だ」
「第一艦隊からです」
高瀬が受け取る。
短い報告だった。
隼鷹。
朝鮮半島南方海域。
護衛任務継続中。
異常なし。
高瀬は、
少しだけ笑った。
「まだ働くか」
誰に聞かせるでもなく、
そう言った。
*
同日。
朝鮮半島。
日が沈む。
前線では、
また砲声が響いていた。
港では、
夜になっても荷役が続いている。
その沖。
輸送船が進む。
そして。
さらに沖合。
一隻の航空母艦が、
夜の海を進んでいた。
隼鷹。
昭和十八年でも。
昭和二十八年でもない。
昭和三十八年。
老いた空母は、
新しい海軍の艦艇を率いて、
朝鮮の海にいた。
*
八月十五日。
終戦から、
十八年。
隼鷹では、
特別な式典は行われなかった。
いつも通り。
航空機を飛ばす。
船団を守る。
海を見る。
黒木は、
艦橋から水平線を見ていた。
十八年前。
この海軍は、
戦争に敗れた。
そして。
今。
再び戦争の海へ来ている。
だが。
同じ海軍ではない。
「艦長」
通信士官が声をかける。
「新しい情報です」
黒木が振り返る。
電文を受け取る。
読む。
表情が変わった。
「確かか」
「国連軍からの情報です」
黒木は、
もう一度読む。
朝鮮半島東岸。
複数の海上活動。
南下する船影。
目的不明。
所属。
北朝鮮側と推定。
黒木は、
海図を見る。
その先には。
日本から朝鮮半島へ続く、
輸送航路があった。
「航空隊へ」
「はい」
「確認させろ」
飛行甲板で、
再び航空機の準備が始まった。
朝鮮の海は。
静かなままでは、
終わらなかった。




