決断
昭和三十八年八月十二日。
朝鮮半島。
戦線は、
止まっていなかった。
軍事境界線中央部。
韓国軍部隊が、
北へ向かって進んでいた。
数日前。
ここでは、
南へ向かう車両ばかりが目立っていた。
今は違う。
補給車両。
救急車。
増援部隊。
そして、
前線から戻ってくる車両。
南北、
両方へ流れている。
戦線ができた。
そして。
戦線が動いていた。
*
ソウル。
韓国軍司令部。
「中央部、奪回しました」
地図上の印が、
一つ動かされる。
「東部は」
「膠着しています」
「西部」
「戦闘継続中」
北朝鮮軍の全面南進。
誰もが恐れていた、
十年前の再現。
少なくとも、
今のところは起きていない。
韓国軍は崩壊していない。
国連軍も動いている。
だが。
安心できる材料でもなかった。
北朝鮮軍は、
前線全体を押し切ろうとしているわけではない。
複数の場所で圧力をかけ、
後退し、
また別の場所で動く。
そして。
海でも動いていた。
参謀が、
新しい報告書を置いた。
「日本海で、日本海軍と北側海上部隊が交戦した模様です」
司令官が顔を上げる。
「日本軍が?」
「はい」
部屋が静かになった。
日本。
十年前の戦争では、
巨大な後方基地だった国。
だが。
今回は違う。
自らの海軍を持っている。
「日本政府は?」
「まだ声明を出していません」
司令官は、
海図を見る。
対馬海峡。
日本海。
朝鮮半島。
戦争の地図が、
少しずつ広がっていた。
*
東京。
同日午前九時。
国会。
議場は、
朝から騒然としていた。
日本海で、
日本海軍が発砲した。
その事実は、
既に報道されている。
政府は、
事件の概要を公表した。
海上交通保護任務中の日本艦艇が攻撃を受けたこと。
政府の定めた権限に基づき応戦したこと。
日本側に重大な被害がなかったこと。
そして。
攻撃した船が、
北朝鮮側の海上部隊であったと判断されたこと。
質問が飛ぶ。
「これは参戦ではないのか」
首相は答えた。
「違います」
議場がざわめく。
「日本海軍は、日本の海上交通を保護する任務を遂行しました」
「しかし、北朝鮮軍と交戦した!」
「攻撃を受けたためです」
首相は、
言葉を切った。
「我が国から戦闘を開始した事実はありません」
静かになる。
「しかし」
首相は続けた。
「昨日までと同じ状況でもありません」
*
午後。
首相官邸。
国防会議。
議題は一つだった。
日本は、
これからどうするのか。
外務当局。
海軍省。
軍令部。
政府首脳。
机の上には、
三枚の地図があった。
朝鮮半島。
日本海。
日本列島。
海軍大臣が口を開く。
「選択肢は三つです」
第一。
現在の警戒任務を維持する。
第二。
日本周辺の海上交通保護をさらに強化する。
第三。
国連軍との協力範囲を拡大し、
朝鮮半島南部へ続く海上交通路も保護対象とする。
「三番目は」
閣僚の一人が言った。
「参戦ではないのか」
海軍大臣は答えなかった。
代わりに、
首相が尋ねる。
「軍令部はどう考える」
軍令部の士官が立つ。
「軍事的な話だけをするなら」
海図を指す。
「ここで線を引くことは困難です」
対馬海峡。
そこから、
朝鮮半島南部へ続く海。
「日本へ向かう船」
指が動く。
「日本から出る船」
さらに。
「韓国へ向かう船」
海図上では、
同じ海を通っている。
「日本近海だけを守れば、日本の海上交通が守れるとは限りません」
「だから朝鮮まで行くと?」
「それを決めるのは我々ではありません」
士官は答えた。
「政府です」
海軍は、
決めない。
政府が決める。
昭和二十年までの海軍との、
最も大きな違いだった。
*
同じころ。
日本海。
第一艦隊。
春風は、
艦隊へ戻っていた。
船体に大きな損傷はない。
船団も、
予定された海域を通過した。
任務は成功。
それでも。
艦内の空気は、
出港時とは違っていた。
実際に撃たれた。
そして。
実際に撃った。
その事実は、
訓練では教えられないものだった。
隼鷹。
黒木中佐は、
春風から届いた報告書を読んでいた。
相沢が入ってくる。
「航空隊、次の哨戒準備完了です」
「ああ」
黒木は、
書類を閉じる。
相沢は、
机の上の海図を見る。
艦隊の位置。
船団。
朝鮮半島。
「近くなりましたね」
黒木が見る。
「何がだ」
「朝鮮です」
黒木は、
海図へ目を戻した。
確かに。
近かった。
距離だけの話ではない。
*
午後四時。
首相官邸。
議論は、
六時間を超えていた。
「朝鮮半島へ陸上部隊は送らない」
「異議なし」
「北朝鮮領域への攻撃作戦にも参加しない」
「異議なし」
「では海軍は」
沈黙。
首相は、
窓の外を見る。
この国は、
一度。
軍隊が政治を引きずり、
戦争へ進んだ。
だから。
今度は逆だった。
軍隊に、
政治が命令しなければならない。
何をするのか。
そして。
何をしてはいけないのか。
その両方を。
首相は、
席へ戻った。
「決めよう」
全員が見る。
「日本は、朝鮮半島における攻撃作戦には参加しない」
書記官の手が動く。
「地上部隊も派遣しない」
続いて。
「しかし」
首相は、
日本海の地図を見る。
「日本の安全に必要な海上交通路を、朝鮮半島南部まで保護する」
誰も話さない。
「国連軍との情報共有を拡大する」
さらに。
「日本海軍は日本政府の指揮下で行動する」
最後に。
「武力の使用は、海上交通及び艦隊への明白な危険を排除する場合に限る」
首相は、
文書を見る。
これは。
全面参戦ではない。
だが。
昨日までの海上警備でもない。
日本は初めて、
自国周辺だけではなく、
朝鮮半島へ続く海まで守ることを決めた。
*
午後六時十二分。
命令は、
海軍省から軍令部へ。
軍令部から聯合艦隊へ。
そして。
第一艦隊へ送られた。
隼鷹。
通信室。
電文が受信される。
艦橋へ運ばれる。
黒木は、
その内容を読んだ。
『第一艦隊ハ――』
その先。
新しい任務海域が記されている。
朝鮮半島南東方。
対馬海峡から、
韓国南部へ続く海上交通路。
黒木は、
しばらく海図を見ていた。
「艦長」
「うむ」
「命令は?」
黒木が答える。
「針路変更」
艦橋の空気が変わった。
「西へ」
*
飛行甲板。
隼鷹が、
ゆっくりと向きを変える。
相沢は、
海の向こうを見ていた。
その先には。
朝鮮半島がある。
十年前。
この艦は、
朝鮮戦争によって蘇った。
だが。
戦場へ行くことはなかった。
今度は違う。
まだ。
朝鮮を攻撃するわけではない。
地上戦へ参加するわけでもない。
それでも。
隼鷹は初めて、
戦争が続く半島へ向かっていた。
*
横須賀。
航空母艦鳳翔。
夜になっても、
飛行甲板の照明は消えなかった。
高瀬少佐の机には、
最終公試の報告が並んでいる。
機関。
操舵。
通信。
航空運用。
CIC。
一つずつ。
確認済みの印が増えていた。
技術士官が、
新しい工程表を置く。
「少佐」
高瀬が見る。
そこには。
一つの日付があった。
九月。
予定より、
早い。
「可能か」
「必要な確認を全部終えれば」
高瀬は、
工程表を見る。
そして。
窓の外の鳳翔を見る。
「なら、それで行く」
*
同じ夜。
ソウル。
国連軍司令部へ、
東京から連絡が届いた。
日本海軍。
海上交通路保護範囲を拡大。
韓国南部へ続く航路への展開を開始。
ただし。
日本政府の指揮下。
攻撃作戦への参加なし。
司令部の地図に、
新しい印が加えられた。
日本海軍第一艦隊。
航空母艦隼鷹。
その位置から、
一本の線が西へ伸びる。
*
昭和三十八年八月十二日。
日本政府は、
一つの決断をした。
朝鮮半島へ軍隊を送らない。
北朝鮮を攻撃しない。
だが。
日本へ続く海を、
戦争に閉ざさせない。
その命令を受けて。
老いた航空母艦は、
朝鮮半島へ針路を取った。
そして横須賀では。
新しい航空母艦の完成まで、
残された時間が、
急速に短くなっていた。




