最初の一発
昭和三十八年八月十一日。
日本海。
日が沈み始めていた。
船団は、
南へ進んでいる。
その前方。
三つの船影があった。
所属不明。
目的不明。
そして。
船団へ近づいている。
*
航空母艦隼鷹。
CIC。
「春風より報告」
士官の声が響く。
「不明船三。依然、応答なし」
海図の上には、
船団。
春風。
隼鷹。
そして三つの印。
黒木中佐は、
それを見ていた。
「距離は」
報告が返る。
近い。
だが。
まだ撃つ理由にはならない。
海にいる。
近づいてくる。
無線に答えない。
それだけで、
敵にはならない。
「航空隊は?」
「上空から確認中」
*
海上。
哨戒機が、
不明船の上を旋回していた。
相沢慎一大尉は、
窓越しに海面を見る。
三隻。
小さい。
軍艦とは呼びにくい。
だが。
普通の漁船とも違った。
「国籍標識は」
「確認できません」
「武装」
「……あります」
相沢の表情が変わった。
それでも。
敵とは言えない。
「隼鷹へ」
相沢は言った。
「不明船三。武装を確認。ただし所属不明」
報告が飛ぶ。
そして。
もう一つ。
「船団へ接近を継続中」
*
春風。
艦橋。
水平線に、
三つの影が見えていた。
春風は、
船団との間に入っている。
警告が送られる。
日本語。
英語。
国際信号。
返答はない。
もう一度。
返答なし。
「距離、さらに縮まります」
艦長は、
双眼鏡を下ろさなかった。
政府命令は明確だった。
日本船舶。
海軍艦艇。
海上交通。
それらへの明白な危険を、
必要な範囲で排除する。
だが。
明白な危険とは、
どこからなのか。
近づいた瞬間か。
武器を見せた瞬間か。
撃たれた瞬間か。
誰も、
紙の上では答えられなかった。
「隼鷹へ状況報告」
「はい」
「本艦、警告を継続する」
春風は、
船団との間を離れなかった。
*
隼鷹。
CIC。
情報が集まってくる。
春風。
哨戒機。
船団。
陸上司令部。
黒木は、
一本の線を見ていた。
不明船の進路。
船団の進路。
交わる。
「警告への反応は」
「なし」
「針路変更」
「なし」
その時。
航空隊から、
新しい報告が入った。
室内が静まる。
「不明船一隻、甲板上に人員活動」
続いて。
「武装へ人員が移動しています」
黒木は、
すぐには命令しなかった。
まだ。
その瞬間だった。
「春風より緊急!」
声が変わる。
「不明船――」
一拍。
「発砲!」
*
海面に、
小さな水柱が上がった。
春風の前方。
外れた。
命中していない。
だが。
意味は十分だった。
艦長が叫ぶ。
「総員、戦闘配置!」
警報が鳴る。
艦内を、
人が走る。
砲側。
CIC。
機関室。
艦橋。
十年間。
何度も繰り返してきた配置。
ただ一つ違う。
今日は、
訓練ではなかった。
*
隼鷹。
「春風、射撃を受けました!」
黒木が立ち上がる。
「被害」
「なし!」
「相手は」
「接近継続!」
もう。
判断に迷う理由はなかった。
攻撃された。
日本海軍の艦艇が。
日本の船団を守っている最中に。
黒木は命じた。
「春風へ」
士官が待つ。
「武力使用を許可する」
一瞬。
室内の空気が変わった。
「ただし」
黒木は続けた。
「目的は撃沈ではない」
「はい」
「船団から追い払え」
命令が送られる。
*
春風。
通信員が叫ぶ。
「隼鷹より!」
艦長が振り返る。
命令を聞く。
短く頷いた。
そして。
前を見る。
不明船。
その向こうに、
守るべき船団。
「警告射撃」
命令が出た。
砲が動く。
照準。
確認。
艦橋に、
一瞬だけ静寂が訪れた。
「撃て」
昭和三十八年八月十一日。
日本海。
砲声が響いた。
*
それは、
大きな戦闘ではなかった。
戦艦同士の砲撃でもない。
航空攻撃でもない。
たった一発。
海面へ向けた、
警告射撃。
だが。
その砲声を聞いた者にとっては、
重かった。
昭和二十年。
帝国海軍は、
戦争に敗れた。
昭和二十三年。
新しい制度の下で、
海軍は再建された。
それから十五年。
再建された日本帝国海軍が、
実戦で初めて撃った一発だった。
*
不明船の動きが変わった。
一隻。
続いて、
もう一隻。
針路を変える。
だが。
三隻目だけが、
そのまま進んだ。
「一隻、接近継続!」
艦長は、
前を見る。
再び警告。
反応なし。
そして。
不明船から、
二度目の発砲。
今度は。
春風の近くで、
海面が弾けた。
「艦長!」
「分かっている」
もう、
警告だけではなかった。
艦長は短く息を吐く。
「射撃」
砲側が待つ。
「相手の攻撃能力を止める」
命令が伝わった。
砲声。
一発。
間を置いて。
もう一発。
不明船の速度が落ちた。
やがて。
止まった。
*
残る二隻は、
北西へ離れていった。
春風は、
追わなかった。
命令通りだった。
敵を追うことが目的ではない。
船団を通す。
それだけだ。
「船団、航行継続」
報告が上がる。
艦長は、
ようやく双眼鏡を下ろした。
誰も歓声を上げなかった。
勝った。
そう言う者もいなかった。
ただ。
仕事を続けた。
*
隼鷹。
飛行甲板。
哨戒機が戻ってきた。
相沢が機体から降りる。
甲板の向こう。
海は、
いつもと変わらない。
夕日。
波。
雲。
そこだけ見れば、
何も起きていないように見える。
黒木が、
飛行甲板へ出てきた。
相沢が尋ねる。
「春風は」
「無事だ」
「船団は」
「通った」
相沢は頷いた。
それなら。
任務は成功だった。
「相手は何者だったんです」
黒木は、
しばらく答えなかった。
「まだ分からん」
「北朝鮮軍では?」
「そうかもしれん」
黒木は海を見る。
「だからといって、そうだったことにはできん」
相沢は黙った。
撃った後でも。
確認は必要だった。
むしろ。
撃ったからこそ。
*
八月十二日。
東京。
事件の報告は、
夜のうちに政府へ届いた。
日本海軍艦艇が攻撃を受けた。
応戦。
船団被害なし。
海軍側被害なし。
不明船一隻停止。
二隻離脱。
そして。
現場から回収された情報が、
机の上に置かれた。
海軍大臣が読む。
顔を上げる。
「確認できたのか」
「はい」
軍令部の士官が答えた。
「北朝鮮側の海上部隊と判断します」
会議室が静かになった。
これまでとは違った。
不審船ではない。
所属不明でもない。
朝鮮半島で戦っている一方の軍事組織が、
日本海軍を攻撃した。
首相が尋ねる。
「向こうは何と言っている」
「まだ正式な回答はありません」
「韓国は」
「国連軍とともに、海上警戒へのさらなる協力を求めています」
首相は、
椅子にもたれた。
日本は。
朝鮮半島の戦争には、
参加していない。
そう言い続けてきた。
だが。
今度は。
戦争の側から、
日本へ撃ってきた。
*
横須賀。
鳳翔。
高瀬少佐の机に、
一枚の命令書が届いた。
『竣工準備ヲ促進スベシ』
以前とは違う。
照会ではない。
要請でもない。
命令だった。
高瀬は、
しばらく文字を見ていた。
窓の外には、
新しい航空母艦。
その向こうに、
海。
隼鷹は、
その海の先にいる。
技術士官が尋ねた。
「今度こそ、間に合わせますか」
高瀬は首を振った。
「違う」
そして。
鳳翔を見る。
「今度こそ、完成させる」
*
同じ日。
首相官邸では、
新しい会議が始まろうとしていた。
議題は、
海上警備ではなかった。
『朝鮮半島有事ニ対スル日本国ノ措置』
日本はまだ。
正式には、
戦争の外側にいた。
だが。
その線は、
昨夜の砲声で、
大きく揺らいでいた。




