海上護衛
昭和三十八年八月九日。
朝鮮半島。
夜明けとともに、
空が鳴った。
ソウル北方。
遠くで、
低い音が続いている。
戦闘が始まってから、
街の人間は音に敏感になっていた。
飛行機なのか。
砲声なのか。
車両なのか。
それを聞き分けることが、
いつの間にか日常になりつつあった。
駅には人が集まっている。
南へ向かう者。
家族を迎えに行く者。
軍服姿の男たち。
その間を、
新聞売りが走っていく。
『戦線拡大』
『国連軍、韓国防衛を再確認』
『北側部隊、境界線南方で活動』
もう。
「国境事件」という言葉を使う新聞はなかった。
*
韓国軍司令部。
地図の上には、
前線があった。
十年前と違い、
北朝鮮軍が一気に半島を南下しているわけではない。
韓国軍も、
十年前の軍ではない。
各地で抵抗している。
一部では押し返している。
それでも。
戦闘は終わらない。
「補給は?」
「東部方面で不足が出始めています」
「陸路は」
「混乱しています」
道路には、
軍だけがいるわけではない。
避難民。
警察。
救急車。
地方行政。
すべてが、
同じ道路を使っている。
だから。
海が必要だった。
釜山。
鎮海。
浦項。
半島南部の港へ、
物資を運ぶ。
そこから前線へ送る。
戦争が長引けば長引くほど、
海上輸送の意味は大きくなる。
参謀の一人が、
海図を見た。
その先。
対馬海峡。
そして。
日本。
十年前と同じだった。
朝鮮半島の戦争は、
海の向こう側と切り離せなかった。
*
同日。
午前七時。
日本海。
第一艦隊。
海面には、
複数の船影が並んでいた。
中心にいるのは、
航空母艦隼鷹。
その周囲を、
駆逐艦が進む。
春風。
そして、
戦前から生き残った艦艇。
新旧の軍艦が、
同じ海を走っていた。
そのさらに後方。
貨物船が続く。
日本へ向かう船。
日本から出る船。
そして、
朝鮮半島南部へ向かう輸送船。
任務は単純だった。
通す。
ただ、
それだけだった。
*
隼鷹。
CIC。
「哨戒機より報告」
声が飛ぶ。
「船団北西、海面異常なし」
海図へ情報が書き込まれる。
別の報告。
春風。
さらに別の艦。
陸上基地。
米軍。
次々と情報が入る。
十年前の隼鷹では、
できなかったことだった。
古い船体の中に、
新しい海軍が詰め込まれている。
黒木中佐は、
海図を見ていた。
「春風から更新」
表示が書き換えられる。
黒木は時計を見る。
速い。
かつてなら、
艦が見つけたものは、
その艦だけの情報だった。
今は違う。
春風が見た海を、
隼鷹も見る。
隼鷹の航空機が見た海を、
護衛艦も知る。
完璧ではない。
報告の遅れもある。
間違いもある。
だが。
艦隊は、
同じ海を見ようとしていた。
*
飛行甲板。
相沢慎一大尉は、
発艦していく哨戒機を見送った。
甲板員が動く。
次の機体が前へ出る。
整備員が確認する。
発艦。
そして、
また次。
派手な仕事ではない。
敵艦を沈めるわけでもない。
朝鮮半島を攻撃するわけでもない。
ただ。
何時間も海を見る。
船を確認する。
異常がないことを確かめる。
それを繰り返す。
「戦争って感じがしませんね」
若い搭乗員が言った。
相沢は海を見る。
「それでいい」
「え?」
「何も見つからないなら、それが一番いい」
搭乗員は、
少し考えてから頷いた。
*
午後。
春風。
艦橋に、
隼鷹から連絡が入った。
船団前方。
所属不明の船影。
確認。
春風が、
針路を変える。
艦内の空気が変わった。
だが。
慌てる者はいない。
訓練で、
何度も繰り返してきた。
確認する。
報告する。
共有する。
そして、
判断する。
しばらくして。
相手の正体が判明した。
民間船。
航路を外れた漁船だった。
警戒が解除される。
艦橋で、
誰かが息を吐いた。
何も起きなかった。
それでいい。
それが、
護衛だった。
*
八月十日。
東京。
海軍軍令部には、
第一艦隊からの報告が届いていた。
『船団護衛、異常ナシ』
『航空哨戒、異常ナシ』
『対馬海峡通航、概ネ平穏』
異常なし。
その文字が並ぶ。
戦果はない。
撃沈もない。
撃墜もない。
だが。
商船は動いている。
港も動いている。
航路も生きている。
海軍大臣は、
報告書を閉じた。
「これでいい」
参謀が見る。
「何も起きていませんが」
「起こさないために出したんだ」
それが、
この海軍の仕事だった。
*
だが。
朝鮮半島では、
状況が変わり始めていた。
北朝鮮軍の活動は、
軍事境界線だけに限られなくなっている。
沿岸部。
港湾周辺。
海上。
韓国側から、
新しい報告が届き始めた。
小型船の活動。
不審な無線。
夜間の船影。
一つ一つなら、
決定的ではない。
しかし。
海軍軍令部には、
見覚えのある形だった。
点が増える。
そして。
点と点の間に、
線が見え始める。
*
八月十一日。
日本海。
夕方。
隼鷹のCIC。
「航空隊より緊急報告」
室内の視線が集まる。
「船団進路上に、不明船」
黒木が顔を上げる。
「所属」
「確認中」
「数」
報告を受けた士官が、
一瞬止まった。
「一隻ではありません」
海図に、
印が付けられる。
一つ。
そして。
もう一つ。
さらに。
その位置を見て、
黒木の表情が変わった。
偶然にしては。
船団に近すぎる。
「春風へ」
「はい」
「船団との間に入れ」
命令が飛ぶ。
「航空隊は確認を続けろ。ただし、勝手に敵と決めるな」
「了解」
CICが動き始める。
情報が集まる。
隼鷹。
春風。
哨戒機。
船団。
別々だったものが、
一枚の海図へ集まっていく。
十年間。
この日のために、
海軍を造ってきたわけではない。
だが。
造ってきたものが、
試される日は来た。
*
横須賀。
同じころ。
航空母艦鳳翔では、
夜間作業が続いていた。
公試。
修正。
確認。
また公試。
工程表には、
赤い書き込みが増えている。
高瀬少佐は、
最新の予定表を見た。
予定されていた日付が、
一つ。
消されている。
その下に、
新しい日付。
予定より早い。
技術士官が尋ねた。
「間に合いますか」
高瀬は、
すぐには答えなかった。
海の向こうでは、
隼鷹が動いている。
春風が動いている。
そして。
朝鮮半島では、
戦争が続いている。
「間に合わせるんじゃない」
高瀬は言った。
「完成させるんだ」
「同じでは?」
「違う」
高瀬は、
工程表を閉じた。
「間に合わせただけの軍艦を、海へ出すつもりはない」
*
日本海。
夜。
船団は、
針路を変えずに進んでいた。
その前方。
春風が走る。
さらに遠く。
正体不明の船影。
隼鷹の飛行甲板では、
次の航空機が準備されていた。
まだ。
発砲はない。
まだ。
日本海軍は、
誰とも戦っていない。
だが。
初めて。
守るべき船と、
正体の分からない船が、
同じ海の上で向き合おうとしていた。




