出動命令
昭和三十八年八月七日。
朝鮮半島。
夜が明ける。
だが。
戦場に朝はなかった。
軍事境界線の中央部。
昨日まで韓国軍が使っていた監視所から、
黒い煙が上がっている。
道路には、
南へ向かう車列。
北へ向かう車列。
避難する民間人と、
前線へ向かう兵士が、
同じ道を使っていた。
十年前にも見た光景だった。
違うのは。
誰も、
こうなるとは思っていなかったことだった。
*
ソウル。
韓国軍司令部。
壁一面の地図から、
「小規模衝突」を示す印が消えていた。
代わりに、
一本の線が引かれている。
前線。
その言葉を使わなければ、
状況を説明できなくなっていた。
「東部は?」
「持ちこたえています」
「中央部」
「一部で後退」
「西部は」
「戦闘継続中です」
報告が途切れない。
北朝鮮軍が、
半島全域で南進しているわけではない。
だが。
複数の地域で、
明確に軍事境界線を越えている。
韓国軍も反撃を開始していた。
もはや、
どちらが何発撃ったという話ではない。
部隊が動いている。
増援が送られている。
補給が動いている。
戦線ができている。
「国連軍司令部からは?」
「協議中です」
「協議」
司令官が、
その言葉を繰り返した。
そして、
地図を見る。
「戦争は協議を待ってくれんぞ」
*
午前九時。
ソウル市内。
ラジオは、
通常番組を中断していた。
市民は店先に集まり、
流れてくるニュースを聞いている。
学校から帰される子供たち。
食料を買う人々。
南へ向かおうとする者。
家に残ろうとする者。
十年前の戦争を知る世代には、
忘れられない記憶があった。
ソウルは、
一度ではなく。
何度も戦場になった。
だから。
人々が最初に知りたかったのは、
国際情勢でも、
政治でもなかった。
北朝鮮軍は、
どこまで来ているのか。
それだけだった。
*
午前十一時。
国連軍司令部。
韓国軍から上がってくる報告。
米軍部隊からの報告。
航空偵察。
通信情報。
それらが一つの地図へ集められていた。
「全面侵攻ではない」
参謀の一人が言った。
「今のところは」
別の士官が付け加えた。
その言葉が、
部屋を重くした。
今のところ。
誰も、
明日を保証できない。
問題はもう一つあった。
海だった。
朝鮮半島へ物資を運ぶには、
海上交通が必要になる。
そしてその海上交通は、
日本と切り離せない。
港。
航空基地。
整備。
補給。
輸送。
十年前と同じだった。
朝鮮半島だけで、
朝鮮半島の戦争を支えることはできない。
一枚の文書が、
東京へ送られることになった。
*
同日午後。
東京。
首相官邸。
「正式な要請です」
外務当局の担当者が、
書類を置いた。
国連軍から日本政府へ。
朝鮮半島情勢の悪化に伴う、
協力要請。
港湾施設。
航空基地。
輸送。
医療。
補給。
そして。
海上交通路の共同警戒。
首相が、
最後の項目で止まった。
「共同警戒」
海軍大臣が頷く。
「国連軍艦艇との情報共有を求めています」
「それだけか」
「現時点では」
首相は、
その言葉を聞き逃さなかった。
「現時点では、か」
「はい」
窓の外では、
いつも通り東京が動いている。
電車が走る。
車が走る。
店が開いている。
朝鮮半島で戦争が始まっていることなど、
街を見ただけでは分からない。
だが。
地図を広げれば、
近かった。
あまりにも。
*
会議は、
午後まで続いた。
「国連軍の指揮下に海軍を入れることは認められない」
「当然です」
「朝鮮沿岸への攻撃も認めない」
「はい」
「では何ができる」
海軍大臣が答えた。
「日本の海上交通を守ること」
前にも出た答えだった。
だが。
今回は続きがあった。
「そして、そのために必要な情報を国連軍と共有することです」
軍令部の士官が、
日本海の地図を広げる。
日本の商船。
国連軍の輸送船。
韓国へ向かう船。
日本へ向かう船。
海の上では、
完全に分けることができない。
「日本船だけを守る、と線を引くことは現実には困難です」
「だから国連軍を守るのか」
「違います」
士官は答えた。
「航路を守ります」
国籍ではなく。
海そのものを。
*
同じころ。
日本海。
隼鷹。
飛行甲板から、
哨戒機が発艦していく。
一機。
間を置いて、
もう一機。
第一艦隊は、
既に海上交通保護任務に入っていた。
だが。
艦隊へ届く情報は、
急激に増えている。
韓国軍。
米海軍。
在日米軍。
日本の陸上航空基地。
商船。
海軍の哨戒部隊。
隼鷹のCICでは、
それらが海図の上に集められていた。
黒木中佐は、
海図を見つめている。
「十年前より多いな」
参謀が言った。
「艦がですか」
「情報がだ」
黒木は答えた。
敵を見つける。
それだけなら、
昔から海軍はやってきた。
今は違う。
誰が見つけたのか。
どこにいるのか。
どこへ向かっているのか。
誰が確認したのか。
味方はどこにいるのか。
それを、
艦隊全体で共有しなければならない。
春風を造るとき、
何度も議論されたことだった。
新しい海軍が十年かけて作ってきたものが、
実戦に近い海で、
初めて動き始めていた。
*
午後五時。
横須賀。
鳳翔。
高瀬誠一少佐の前にも、
朝鮮半島の地図が置かれていた。
だが。
彼が見ているのは、
地図ではない。
工程表だった。
最終公試。
修正。
確認。
引き渡し。
予定では、
まだ時間がある。
海軍大臣から届いた要請は、
簡潔だった。
『竣工可能時期ヲ再検討セヨ』
高瀬は、
紙を机へ置いた。
技術士官が尋ねる。
「縮めますか」
「縮める」
意外だったのか、
相手が顔を上げた。
高瀬は続ける。
「ただし、省かない」
「……どういう意味です」
「同時にできるものは同時にやる。人を増やせるところには増やす。港でできる確認は海へ出る前に終わらせる」
「試験そのものは?」
「やる」
高瀬は、
はっきり言った。
「急ぐことと、飛ばすことは違う」
窓の向こう。
鳳翔には、
作業灯が点いていた。
*
八月八日。
東京。
政府の決定が出た。
国連軍への後方支援継続。
国内基地及び港湾施設の使用。
医療・輸送面での協力。
そして。
日本海・対馬海峡における、
国連軍との海上情報共有。
ただし。
日本海軍は、
日本政府の指揮下に置かれる。
朝鮮半島への攻撃作戦には参加しない。
地上戦にも参加しない。
武力行使は、
日本の領域、
船舶、
国民、
及び海上交通の保護に必要な場合に限定する。
首相は、
決裁書へ署名した。
日本はまだ、
朝鮮半島へ軍を送らない。
だが。
十年前とは違うことが、
一つだけあった。
今度の日本には、
自分の海を守る艦隊があった。
*
同日夜。
第一艦隊へ、
新たな命令が届いた。
黒木が読む。
周囲の士官が待つ。
読み終えると、
黒木は顔を上げた。
「明朝より任務区域を拡大する」
「どこまでです」
海図が開かれる。
日本海。
対馬海峡。
そして。
朝鮮半島へ続く航路。
黒木は言った。
「まだ戦争をしに行くんじゃない」
誰も答えない。
「忘れるな」
海図の上を、
指が動く。
「俺たちの仕事は――」
その指が、
航路の上で止まった。
「この海を通すことだ」
*
八月九日。
夜明け。
隼鷹は、
針路を変えた。
護衛する春風型も、
それに続く。
飛行甲板では、
航空機が発艦準備に入っている。
横須賀では、
鳳翔の公試日程が書き換えられていた。
そして。
朝鮮半島では。
新しい一日が始まろうとしていた。
休戦線では、
再び砲声が響いている。
十年前に止まった戦争は、
もう止まってはいなかった。
そして日本もまた。
その戦争から、
少しずつ離れられなくなっていた。




