日本の海
昭和三十八年八月四日。
日本海。
朝鮮半島で戦闘が拡大してから、四日。
海の上では、まだ戦争は始まっていなかった。
少なくとも、
日本にとっては。
商船は航路を変え、
海軍艦艇は警戒を強め、
哨戒機が海面を見張っている。
それでも。
船は動いていた。
日本は島国だった。
戦争が近くにあるからといって、
海上交通を止めることはできない。
油。
鉱石。
食料。
原料。
海の向こうから来るものが、
日本という国を動かしている。
だから。
朝鮮半島で砲声が響いても、
日本の商船は海を走り続けていた。
*
午前九時十八分。
対馬北西。
海軍の哨戒機が、
海面に一隻の船を見つけた。
日本商船だった。
予定航路から、
わずかに外れている。
「応答は?」
「ありません」
無線を送る。
もう一度。
返事がない。
哨戒機は高度を下げた。
船体は浮いている。
だが、
速度が落ちている。
甲板上には、
人の動きが見えた。
「事故か?」
機長が言う。
その可能性はある。
機関故障。
通信故障。
この海では、
何でも戦争に結びつけて考えるべきではない。
だが。
船の近くに、
別のものが見えた。
小さな船影。
商船ではない。
漁船にも見えない。
「海軍へ通報」
機長が言った。
「不審船一。日本商船付近」
*
二十分後。
近海を警戒していた海防艦が、
現場へ向かった。
日本商船から、
ようやく無線が入る。
内容は短かった。
正体不明の小型艇が接近。
停船を要求された。
拒否。
相手は離脱。
発砲はない。
被害もない。
それだけだった。
だが。
東京へ届いた報告は、
国防会議を再び開かせるには十分だった。
*
首相官邸。
「所属は」
「不明です」
「北朝鮮ではないのか」
「断定できません」
軍令部の士官が答える。
写真は撮られている。
だが、
国籍を示すものは確認できない。
「ただし」
士官は続けた。
「同様の報告が、ここ三日で複数あります」
地図に印が付けられる。
対馬海峡。
日本海南部。
朝鮮半島東方。
一件だけなら、
密輸船かもしれない。
二件なら、
偶然かもしれない。
だが。
数が増えていた。
海軍大臣が言った。
「問題は、誰かではありません」
首相が見る。
「日本船舶の航行が妨害され始めていることです」
*
同じころ。
第一艦隊は、
日本海を北上していた。
航空母艦隼鷹。
その周囲を、
春風型を含む護衛艦艇が進む。
戦前生まれの空母と、
戦後生まれの駆逐艦。
十年前なら、
存在しなかった艦隊だった。
隼鷹のCICでは、
海図の上に情報が書き込まれていた。
商船。
哨戒機。
海軍艦艇。
不審船の発見位置。
相沢慎一大尉は、
航空隊へ届いた情報を見ていた。
「多いな」
黒木中佐が言う。
「船がですか」
「分からないものがだ」
戦争が始まると、
海は急に分からないものだらけになる。
漁船。
商船。
軍艦。
味方。
敵。
中立国。
そして、
所属を示さない船。
撃つのは簡単だ。
見つけたものを、
全部敵だと思えばいい。
だが。
それをしないために、
新しい海軍は十年かけて情報を扱う方法を学んできた。
「確認してから動く」
黒木が言った。
「はい」
「間違えるなよ」
「間違えたら?」
黒木は相沢を見る。
「戦争を増やす」
相沢は、
それ以上聞かなかった。
*
八月五日。
朝。
対馬海峡。
今度は、
銃声が聞こえた。
日本の貨物船から、
緊急通信が入る。
正体不明艇が接近。
停船要求。
拒否。
そして。
発砲。
弾は船体の一部に当たった。
乗員に負傷者。
貨物船は、
速度を上げて離脱した。
近くにいた海軍艦艇が急行する。
だが。
不審艇は、
朝鮮半島方向へ逃走した。
追跡は途中で打ち切られた。
理由は単純だった。
命令がなかった。
日本海軍に認められているのは、
日本船舶の保護。
警戒。
救難。
自艦防御。
逃げる相手を、
朝鮮沿岸まで追う権限はない。
艦長は、
追跡中止を命じた。
誰も、
その判断を責めなかった。
*
東京。
報告書には、
一つの言葉が加わった。
『日本人負傷』
会議室の空気が変わった。
首相が尋ねる。
「まだ警備で済むのか」
海軍大臣は、
すぐには答えなかった。
「警備です」
「同じではないだろう」
「はい」
海軍大臣は地図を見る。
「ですから、警備の権限を変える必要があります」
軍令部から、
新しい案が示された。
日本船舶への攻撃を阻止すること。
日本領海及び周辺海域へ接近する武装船を確認すること。
明白な攻撃行為が認められた場合、
必要な範囲で武力を使用すること。
朝鮮半島での地上戦には、
参加しない。
朝鮮沿岸への攻撃も、
認めない。
国連軍の攻撃作戦にも、
参加しない。
目的は一つ。
日本の海上交通を守る。
「つまり」
首相が言った。
「海軍に撃つことを認めるのか」
「条件付きで」
海軍大臣が答える。
「誰に対してだ」
「日本を攻撃する者に対してです」
国籍ではなかった。
陣営でもなかった。
行為。
それを基準にする。
長い議論が続いた。
そして。
その日の夜。
政府は、
海軍に新しい命令を出した。
*
『海上交通保護命令』
第一。
日本海及び対馬海峡における、
日本船舶の安全を確保すること。
第二。
民間船舶に対する武力行使、
拿捕その他の危険行為を阻止すること。
第三。
武力の使用は、
日本船舶及び海軍艦艇に対する明白な危険を排除するため、
必要な範囲に限ること。
第四。
朝鮮半島における交戦当事者への攻撃作戦には、
参加しない。
命令は、
第一艦隊へ送られた。
*
隼鷹。
夜。
黒木は、
命令書を読み終えた。
机の向こうに、
艦長以下の士官が並んでいる。
「つまり」
一人が言った。
「我々は参戦したのですか」
黒木は、
命令書を見る。
「違う」
「しかし、武力使用が認められた」
「ああ」
黒木は顔を上げた。
「朝鮮で戦えとは書いてない」
部屋が静かになる。
「我々が守るのは、ここだ」
海図を指す。
日本海。
対馬海峡。
そこを通る、
無数の航路。
「敵を探しに行くな」
黒木は言った。
「守るものを見ろ」
*
翌朝。
隼鷹から、
哨戒機が飛び立った。
一機。
続いて、
もう一機。
飛行甲板では、
次の機体が準備されている。
相沢は、
飛び去る航空機を見送った。
訓練ではない。
だが。
攻撃でもない。
海を見る。
船を探す。
航路を守る。
必要なら、
救助する。
それが今の任務だった。
相沢は、
水平線を見る。
十年前。
隼鷹が再び海へ戻ったとき、
この空母の仕事は、
戦争を始めることではないと言われた。
戦争を遠ざけるために、
海にいる。
今。
その言葉が、
初めて試されようとしていた。
*
八月六日。
朝鮮半島では、
戦闘が続いている。
日本海では、
第一艦隊が商船航路へ展開した。
横須賀では、
鳳翔の最終公試が続いていた。
そして東京では。
政府が、
次の問題を考え始めていた。
もし。
海上交通を守るだけでは、
日本の安全を守れなくなったら。
どこまで行くのか。
まだ、
答えは出ていない。
日本は、
朝鮮半島の戦争には参戦していなかった。
だが。
その戦争は既に、
日本の海まで来ていた。




