休戦崩壊
昭和三十八年七月三十一日。
朝鮮半島。
夜が明けても、
銃声は止まらなかった。
前日までなら、
数時間で終わっていた。
境界線で接触が起きる。
双方が発砲する。
負傷者が出る。
板門店で抗議する。
そして、
また元の緊張へ戻る。
十年間、
何度も繰り返されてきた。
だが。
この日は違った。
*
午前六時十二分。
韓国軍の前線司令部に、
最初の報告が入った。
軍事境界線東部。
北側部隊の活動。
続いて、
別の地点。
さらに西部。
一つではない。
「同時ですか」
「ほぼ」
地図に印が付けられる。
一つ。
二つ。
三つ。
前線司令部の空気が変わった。
偶然ではない。
少なくとも、
そう考えなければならない数だった。
「全部隊に警戒を」
命令が飛ぶ。
まだ。
戦争という言葉を使う者はいなかった。
*
午前八時四十分。
ソウル。
韓国政府にも、
前線からの報告が次々と入っていた。
情報は錯綜している。
どこまでが事実なのか。
どこまでが誤認なのか。
北側が何を目的としているのか。
誰にも分からない。
「全面攻撃なのか」
答えは出なかった。
確認されている規模だけなら、
十年前の朝鮮戦争とは比較にならない。
だが。
問題は規模ではなかった。
同時に起きている。
それが、
これまでとの最大の違いだった。
韓国軍の警戒態勢が引き上げられた。
在韓米軍にも、
同じ情報が流れた。
*
午前十時。
板門店。
軍事休戦委員会では、
双方の主張がぶつかっていた。
南側は、
北朝鮮軍による組織的な休戦協定違反だと非難した。
北側は、
南側による挑発への自衛措置だと主張した。
話は噛み合わない。
その間にも。
境界線では、
新しい報告が増えていた。
会議は続いた。
だが。
会議室の外で起きていることの方が、
はるかに速かった。
*
午後一時二十分。
東京。
首相官邸。
緊急の国防会議が開かれた。
机の中央には、
朝鮮半島の地図。
「現在までに確認された戦闘地点です」
軍令部の士官が、
地図を指す。
複数。
昨日までとは違う。
「北朝鮮軍による全面侵攻なのか」
「現時点では断定できません」
「韓国軍は?」
「全軍の警戒態勢を引き上げています」
「米軍は」
「同様です」
首相は、
地図を見た。
日本から近い。
あまりにも近い。
対馬から朝鮮半島までは、
地図の上では指一本ほどしかない。
「海軍はどうする」
海軍大臣が答えた。
「第一艦隊の即応態勢を引き上げます」
「朝鮮へ行かせるのか」
「いいえ」
即答だった。
「現時点で、日本が戦闘へ参加する理由はありません」
部屋が静かになる。
「日本海及び対馬海峡の警戒を強化します。商船には必要に応じて航行情報を提供します」
「それだけか」
「今は、それだけです」
海軍大臣は続けた。
「朝鮮の戦争を、日本から始めるわけにはいきません」
*
午後三時。
横須賀。
隼鷹に、
出港準備命令が届いた。
目的地。
日本海。
任務。
警戒。
海上交通路の監視。
航空哨戒。
まだ戦闘任務ではない。
相沢慎一大尉は、
命令書を読んだ。
「やっぱり来ましたね」
黒木中佐は答えない。
甲板では、
出港準備が始まっている。
燃料。
食料。
航空機。
整備部品。
予定されていた訓練とは、
積み込む量が違う。
「鳳翔は?」
相沢が尋ねた。
「まだだ」
「公試はほとんど終わってます」
「ほとんど、だ」
黒木は、
その言葉を強調した。
鳳翔は走れる。
航空機も運用できる。
だが。
まだ海軍へ正式に引き渡されていない。
戦闘に出せる軍艦ではなかった。
「結局、こっちですか」
相沢が言った。
黒木は、
飛行甲板を見る。
古い。
何度も補修されている。
「動く艦を使う」
それだけだった。
*
八月一日。
午前四時。
朝鮮半島。
夜のうちに、
状況はさらに悪化していた。
軍事境界線の複数地点で、
戦闘が続いている。
通信が途切れた監視所。
後退した部隊。
増援を要求する部隊。
そして。
北側の部隊が、
一部地域で軍事境界線を越えたとの報告。
最初は確認されなかった。
二度目。
三度目。
別々の部隊から、
同じ報告が届いた。
前線司令部は、
ついに言葉を変えた。
「侵入」ではない。
「攻撃」。
韓国軍にも、
応戦命令が下った。
十年間止まっていた線が、
動き始めた。
*
午前七時。
東京。
夜通し続いた国防会議に、
新しい報告が届いた。
北朝鮮軍の一部が、
軍事境界線を越えた。
韓国軍が応戦。
米軍にも損害。
戦闘地域は拡大中。
首相は、
報告書を机へ置いた。
「休戦協定は?」
外務当局の担当者が答える。
「形式上は、まだ存在しています」
「形式上は?」
「はい」
誰も、
その意味を聞かなかった。
紙の上では、
休戦している。
現地では、
撃ち合っている。
「アメリカから連絡は」
「国連軍への後方支援継続と、日本国内基地の使用について要請が来ています」
「戦闘参加は?」
「現時点では求められていません」
首相は頷いた。
「ならば、そこまでだ」
そして、
海軍大臣を見る。
「海軍は予定通り?」
「第一艦隊を日本海へ」
「交戦は」
「日本船舶、日本領域、及び艦隊そのものに対する明白な危険がない限り認めません」
首相は頷いた。
「それで行こう」
まだ。
日本は戦争へ参加しない。
*
同日午後。
対馬海峡。
商船が次々と南へ向かっていた。
朝鮮半島に近い航路を避け、
航路を変更する船も出始めている。
海軍の警備艦が、
海峡へ展開した。
上空には、
哨戒機。
港では、
掃海部隊が出動準備に入る。
戦争は、
まだ日本へ来ていない。
だが。
海はもう、
平時の海ではなくなっていた。
*
八月二日。
横須賀。
隼鷹が、
岸壁を離れた。
曳船が離れる。
船体が、
ゆっくりと港口へ向く。
相沢は飛行甲板から、
横須賀を見ていた。
岸壁の向こう。
もう一隻の航空母艦が見える。
鳳翔。
完成間近。
新しい飛行甲板。
新しい艦橋。
新しい機関。
新しい海軍が、
十年かけて造った空母。
だが。
動いているのは、
隼鷹だった。
相沢は、
鳳翔が小さくなっていくのを見ていた。
「あれが完成していれば」
隣で、
若い士官が言った。
相沢は振り返る。
「隼鷹は行かなくて済んだんでしょうか」
少し考えた。
「そうかもしれん」
「間に合いませんでしたね」
背後から声がした。
黒木だった。
「軍艦というのはな」
二人が振り返る。
黒木は、
遠ざかる鳳翔を見ている。
「必要になる前に造っておかなきゃならん」
誰も答えなかった。
隼鷹は、
横須賀を出た。
*
八月三日。
朝鮮半島。
戦闘は、
終わらなかった。
むしろ。
広がっていた。
軍事境界線の東。
中央。
西。
砲声が続く。
航空機が飛ぶ。
韓国軍が増援を送る。
北朝鮮軍も、
新たな部隊を前へ出す。
板門店では、
休戦委員会が開かれた。
だが。
会議の最中にも、
遠くから音が聞こえていた。
十年前。
ここで、
戦争は止まった。
昭和三十八年八月三日。
その休戦は、
事実上、崩壊した。
*
東京。
夕刊の輪転機が回る。
大きな見出しが、
次々と刷られていく。
『朝鮮半島 戦闘拡大』
『軍事境界線各地で交戦』
『国連軍、警戒態勢』
まだ。
新聞は、
「戦争」という言葉を慎重に避けていた。
だが。
海軍軍令部では、
既に新しい文書が作られ始めていた。
『朝鮮半島有事ニ伴フ海上警備計画』
その最初のページ。
日本海。
対馬海峡。
朝鮮海峡。
そして。
海上交通路。
地図の中央には、
一隻の艦隊が北上していた。
第一艦隊。
その中心にいるのは、
航空母艦隼鷹。
十年前。
朝鮮戦争によって、
再び海へ戻った空母。
そして今。
新しい朝鮮の戦火によって、
再び北へ向かっていた。




