三十八度線
昭和三十八年三月。
朝鮮半島。
戦争が終わってから、
十年が経とうとしていた。
正確には、
終わってはいない。
昭和二十八年。
板門店で結ばれたのは、
講和条約ではなかった。
休戦協定だった。
半島を横切る軍事境界線。
その南北に設けられた、
非武装地帯。
北には朝鮮民主主義人民共和国。
南には大韓民国。
そして、
国連軍。
三十八度線という言葉は、
いつしか世界地図の一部になっていた。
だが。
地図に線を一本引いたからといって、
そこから戦争が消えたわけではない。
*
三月十二日。
韓国北部。
夜明け前。
監視所にいた韓国軍兵士は、
双眼鏡を下ろした。
「またか」
遠くに、
人影が見えた。
北側だった。
数人。
すぐに消えた。
珍しいことではない。
互いに監視している。
互いに写真を撮る。
互いに相手の動きを数えている。
問題は、
最近その回数が増えていることだった。
哨戒。
車両。
夜間の移動。
無線通信。
一つだけなら、
何でもない。
二つでも、
偶然かもしれない。
だが。
偶然が十も二十も続けば、
それは別の名前で呼ばれる。
「報告しておけ」
「またですか」
「ああ」
兵士は、
北を見る。
静かだった。
あまりにも。
*
ソウル。
韓国政府に届く報告も、
増えていた。
軍事境界線付近での接触。
北側部隊の移動。
工作員と疑われる者の摘発。
不審な通信。
そして、
海上での小さな事件。
どれも、
戦争と呼ぶほどではない。
それが逆に、
厄介だった。
「北は何をするつもりだ」
会議で、
誰かが尋ねた。
答えは出なかった。
威圧。
偵察。
国内向けの宣伝。
あるいは、
韓国側の反応を見るための試み。
可能性はいくらでもある。
だからこそ。
誰も、
最悪の可能性だけを理由に動くことはできなかった。
*
五月。
東京。
日本政府にも、
朝鮮半島に関する報告が届いていた。
外務当局。
海軍軍令部。
米軍。
韓国側。
情報の出所は違っても、
共通していることがあった。
北朝鮮軍の活動が、
以前より活発になっている。
だが。
「侵攻準備と断定できるか」
国防会議で、
質問が出た。
「できません」
軍令部側は答えた。
「大規模な南進を示す決定的な兆候は、現時点では確認されていません」
ならば、
戦争は始まらないのか。
それも分からない。
十年前の記憶がある。
朝鮮戦争。
日本は直接の戦場にはならなかった。
それでも、
海は大きく変わった。
港。
輸送。
掃海。
海上交通。
そして、
日本の海軍そのもの。
次に朝鮮半島で戦争が始まれば、
日本が無関係でいられるとは考えにくかった。
「海軍は?」
「通常警戒を継続します」
「鳳翔は」
一瞬、
間があった。
「公試中です」
*
横須賀。
航空母艦鳳翔。
海上公試は、
最終段階へ入っていた。
速力。
操舵。
機関。
通信。
航空運用。
問題は見つかった。
そして、
そのたびに直された。
飛行甲板では、
航空機の発着艦試験が繰り返されている。
CICでは、
春風型との情報共有試験が続いていた。
新しい空母は、
少しずつ軍艦になっていた。
高瀬誠一少佐の机には、
公試報告書が積み上がっている。
そこへ、
一枚の書類が置かれた。
『竣工予定繰上げニ関スル照会』
高瀬は、
しばらくそれを見ていた。
「また来ました」
技術士官が言う。
「今月三回目か」
「四回目です」
「そうか」
海軍は、
鳳翔を早く欲しがっている。
理由は、
聞かなくても分かった。
高瀬は書類を閉じる。
「回答は同じだ」
「予定通り?」
「必要な試験はやる」
「軍令部は急いでいます」
「軍令部が急げば機械が丈夫になるのか」
「なりませんね」
「なら同じだ」
高瀬は、
窓の外を見る。
そこには鳳翔がいる。
ほとんど完成している。
だからこそ。
最後を雑にするわけにはいかなかった。
*
六月。
朝鮮半島。
軍事境界線付近で、
再び事件が起きた。
小規模だった。
短時間で終わった。
死傷者も、
過去の朝鮮戦争と比べれば、
あまりにも少ない。
だが。
これまでとは、
少し違った。
翌日。
別の場所でも接触があった。
その三日後。
また別の地点。
一週間後には、
海上でも韓国側と北朝鮮側の艦艇が接近した。
偶然。
誤認。
現場の判断。
説明はいくらでもできた。
だが。
ソウルでも。
東京でも。
ワシントンでも。
同じ疑問が出始めていた。
本当に、
全部が偶然なのか。
*
七月。
横須賀。
隼鷹は、
まだ現役だった。
黒木中佐は艦橋で、
出港準備を見ていた。
日本海方面での警戒訓練。
名目は、
あくまで訓練だった。
相沢慎一大尉が、
新しい命令書を持ってくる。
「期間が延びました」
黒木が受け取る。
「何日だ」
「未定です」
黒木の手が止まった。
訓練で、
期間未定。
「補給は」
「追加で積みます」
「航空隊は」
「即応機を増やせと」
黒木は命令書を閉じた。
「訓練ねえ」
相沢は、
何も言わなかった。
二人とも分かっていた。
海軍は、
まだ動員されていない。
政府から戦闘命令も出ていない。
だが。
平時の訓練とも、
少しずつ違ってきていた。
*
七月二十九日。
朝鮮半島。
夕方。
軍事境界線付近で、
銃声が響いた。
最初は、
誰もそれを特別な事件だとは思わなかった。
この十年間。
境界線では、
何度も銃声が聞こえている。
しかし。
翌朝。
別の地点でも、
再び衝突が起きた。
報告が上がる。
韓国軍。
国連軍。
北朝鮮軍。
情報が錯綜する。
誰が最初だったのか。
何人いるのか。
別々の事件なのか。
それとも、
つながっているのか。
まだ、
誰にも分からなかった。
*
東京。
海軍軍令部。
朝鮮半島の地図に、
二つの印が付けられた。
一つ。
そして、
もう一つ。
「艦隊は?」
「第一艦隊、警戒態勢へ移行可能」
「隼鷹」
「出動準備中」
「鳳翔」
「公試最終段階です」
部屋の奥で、
一人の士官が尋ねた。
「あと何日だ」
「予定では――」
「予定は聞いていない」
沈黙。
「海へ出せるまで、あと何日だ」
誰も、
すぐには答えられなかった。
*
その夜。
横須賀。
鳳翔の飛行甲板には、
作業灯が点いていた。
整備員が動いている。
技術者が動いている。
海軍の乗員が動いている。
予定になかった、
夜間作業だった。
高瀬は艦橋から、
その光景を見ていた。
背後から声がする。
「少佐」
振り返る。
一枚の電報だった。
短い。
『公試日程ノ再検討ヲ要請ス』
高瀬は読み終える。
「またですか」
「今回は、軍令部ではありません」
「どこだ」
「海軍大臣です」
高瀬は、
もう一度電報を見る。
今までとは違う。
技術上の相談ではない。
海軍内部だけの要請でもない。
政府が、
鳳翔の完成時期を気にし始めている。
高瀬は飛行甲板を見る。
あと少し。
本当に、
あと少しだった。
だが。
海の向こうが、
その少しを待ってくれる保証はなかった。
昭和三十八年七月三十日。
朝鮮半島では、
まだ戦争は始まっていない。
少なくとも。
その日の夜までは、
誰もがそう考えていた。




