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海軍は再び翼を得る  作者: フジ
極東動乱
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22/33

三十八度線

昭和三十八年三月。


朝鮮半島。


戦争が終わってから、


十年が経とうとしていた。


正確には、


終わってはいない。


昭和二十八年。


板門店で結ばれたのは、


講和条約ではなかった。


休戦協定だった。


半島を横切る軍事境界線。


その南北に設けられた、


非武装地帯。


北には朝鮮民主主義人民共和国。


南には大韓民国。


そして、


国連軍。


三十八度線という言葉は、


いつしか世界地図の一部になっていた。


だが。


地図に線を一本引いたからといって、


そこから戦争が消えたわけではない。


*


三月十二日。


韓国北部。


夜明け前。


監視所にいた韓国軍兵士は、


双眼鏡を下ろした。


「またか」


遠くに、


人影が見えた。


北側だった。


数人。


すぐに消えた。


珍しいことではない。


互いに監視している。


互いに写真を撮る。


互いに相手の動きを数えている。


問題は、


最近その回数が増えていることだった。


哨戒。


車両。


夜間の移動。


無線通信。


一つだけなら、


何でもない。


二つでも、


偶然かもしれない。


だが。


偶然が十も二十も続けば、


それは別の名前で呼ばれる。


「報告しておけ」


「またですか」


「ああ」


兵士は、


北を見る。


静かだった。


あまりにも。


*


ソウル。


韓国政府に届く報告も、


増えていた。


軍事境界線付近での接触。


北側部隊の移動。


工作員と疑われる者の摘発。


不審な通信。


そして、


海上での小さな事件。


どれも、


戦争と呼ぶほどではない。


それが逆に、


厄介だった。


「北は何をするつもりだ」


会議で、


誰かが尋ねた。


答えは出なかった。


威圧。


偵察。


国内向けの宣伝。


あるいは、


韓国側の反応を見るための試み。


可能性はいくらでもある。


だからこそ。


誰も、


最悪の可能性だけを理由に動くことはできなかった。


*


五月。


東京。


日本政府にも、


朝鮮半島に関する報告が届いていた。


外務当局。


海軍軍令部。


米軍。


韓国側。


情報の出所は違っても、


共通していることがあった。


北朝鮮軍の活動が、


以前より活発になっている。


だが。


「侵攻準備と断定できるか」


国防会議で、


質問が出た。


「できません」


軍令部側は答えた。


「大規模な南進を示す決定的な兆候は、現時点では確認されていません」


ならば、


戦争は始まらないのか。


それも分からない。


十年前の記憶がある。


朝鮮戦争。


日本は直接の戦場にはならなかった。


それでも、


海は大きく変わった。


港。


輸送。


掃海。


海上交通。


そして、


日本の海軍そのもの。


次に朝鮮半島で戦争が始まれば、


日本が無関係でいられるとは考えにくかった。


「海軍は?」


「通常警戒を継続します」


「鳳翔は」


一瞬、


間があった。


「公試中です」


*


横須賀。


航空母艦鳳翔。


海上公試は、


最終段階へ入っていた。


速力。


操舵。


機関。


通信。


航空運用。


問題は見つかった。


そして、


そのたびに直された。


飛行甲板では、


航空機の発着艦試験が繰り返されている。


CICでは、


春風型との情報共有試験が続いていた。


新しい空母は、


少しずつ軍艦になっていた。


高瀬誠一少佐の机には、


公試報告書が積み上がっている。


そこへ、


一枚の書類が置かれた。


『竣工予定繰上げニ関スル照会』


高瀬は、


しばらくそれを見ていた。


「また来ました」


技術士官が言う。


「今月三回目か」


「四回目です」


「そうか」


海軍は、


鳳翔を早く欲しがっている。


理由は、


聞かなくても分かった。


高瀬は書類を閉じる。


「回答は同じだ」


「予定通り?」


「必要な試験はやる」


「軍令部は急いでいます」


「軍令部が急げば機械が丈夫になるのか」


「なりませんね」


「なら同じだ」


高瀬は、


窓の外を見る。


そこには鳳翔がいる。


ほとんど完成している。


だからこそ。


最後を雑にするわけにはいかなかった。


*


六月。


朝鮮半島。


軍事境界線付近で、


再び事件が起きた。


小規模だった。


短時間で終わった。


死傷者も、


過去の朝鮮戦争と比べれば、


あまりにも少ない。


だが。


これまでとは、


少し違った。


翌日。


別の場所でも接触があった。


その三日後。


また別の地点。


一週間後には、


海上でも韓国側と北朝鮮側の艦艇が接近した。


偶然。


誤認。


現場の判断。


説明はいくらでもできた。


だが。


ソウルでも。


東京でも。


ワシントンでも。


同じ疑問が出始めていた。


本当に、


全部が偶然なのか。


*


七月。


横須賀。


隼鷹は、


まだ現役だった。


黒木中佐は艦橋で、


出港準備を見ていた。


日本海方面での警戒訓練。


名目は、


あくまで訓練だった。


相沢慎一大尉が、


新しい命令書を持ってくる。


「期間が延びました」


黒木が受け取る。


「何日だ」


「未定です」


黒木の手が止まった。


訓練で、


期間未定。


「補給は」


「追加で積みます」


「航空隊は」


「即応機を増やせと」


黒木は命令書を閉じた。


「訓練ねえ」


相沢は、


何も言わなかった。


二人とも分かっていた。


海軍は、


まだ動員されていない。


政府から戦闘命令も出ていない。


だが。


平時の訓練とも、


少しずつ違ってきていた。


*


七月二十九日。


朝鮮半島。


夕方。


軍事境界線付近で、


銃声が響いた。


最初は、


誰もそれを特別な事件だとは思わなかった。


この十年間。


境界線では、


何度も銃声が聞こえている。


しかし。


翌朝。


別の地点でも、


再び衝突が起きた。


報告が上がる。


韓国軍。


国連軍。


北朝鮮軍。


情報が錯綜する。


誰が最初だったのか。


何人いるのか。


別々の事件なのか。


それとも、


つながっているのか。


まだ、


誰にも分からなかった。


*


東京。


海軍軍令部。


朝鮮半島の地図に、


二つの印が付けられた。


一つ。


そして、


もう一つ。


「艦隊は?」


「第一艦隊、警戒態勢へ移行可能」


「隼鷹」


「出動準備中」


「鳳翔」


「公試最終段階です」


部屋の奥で、


一人の士官が尋ねた。


「あと何日だ」


「予定では――」


「予定は聞いていない」


沈黙。


「海へ出せるまで、あと何日だ」


誰も、


すぐには答えられなかった。


*


その夜。


横須賀。


鳳翔の飛行甲板には、


作業灯が点いていた。


整備員が動いている。


技術者が動いている。


海軍の乗員が動いている。


予定になかった、


夜間作業だった。


高瀬は艦橋から、


その光景を見ていた。


背後から声がする。


「少佐」


振り返る。


一枚の電報だった。


短い。


『公試日程ノ再検討ヲ要請ス』


高瀬は読み終える。


「またですか」


「今回は、軍令部ではありません」


「どこだ」


「海軍大臣です」


高瀬は、


もう一度電報を見る。


今までとは違う。


技術上の相談ではない。


海軍内部だけの要請でもない。


政府が、


鳳翔の完成時期を気にし始めている。


高瀬は飛行甲板を見る。


あと少し。


本当に、


あと少しだった。


だが。


海の向こうが、


その少しを待ってくれる保証はなかった。


昭和三十八年七月三十日。


朝鮮半島では、


まだ戦争は始まっていない。


少なくとも。


その日の夜までは、


誰もがそう考えていた。

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