初航海
昭和三十七年九月。
横須賀。
航空母艦鳳翔は、
半年ほど前とは別の艦になっていた。
艦橋にはレーダーが載った。
艦内には通信設備が入り、
CICには新しい機器が並んでいる。
飛行甲板には、
斜めに伸びる着艦区域。
まだ海軍へ引き渡されてはいない。
だが、
外から見ればほとんど完成した航空母艦だった。
残されている最大の試験は、
一つ。
海へ出すことだった。
*
「準備完了」
報告が艦橋へ届く。
高瀬誠一少佐は、
艦橋後方に立っていた。
設計者が艦を動かすわけではない。
今日は造船所と海軍の試験要員が、
鳳翔を動かす。
高瀬は、
ただ見届けるだけだった。
「曳船、離れます」
ゆっくりと、
鳳翔が岸壁を離れる。
岸壁との間に、
海面が見えた。
数メートル。
十メートル。
さらに離れる。
進水の日とは違う。
あの日、
鳳翔はただ海に浮かんだ。
今日は。
自分の機関で、
海へ出る。
「前進微速」
機関が応える。
船体に、
低い振動が広がった。
鳳翔が動き出す。
高瀬は、
何も言わなかった。
目の前には横須賀の海。
その先には、
太平洋が広がっている。
*
東京湾を出るころには、
速力は上がっていた。
十ノット。
十五ノット。
二十ノット。
艦橋には次々と報告が入る。
機関正常。
操舵正常。
発電機正常。
レーダー正常。
だが。
「第三発電機、負荷上昇」
最初の問題は、
すぐに出た。
高瀬が振り返る。
「どれくらいだ」
「想定より高いです」
航空管制設備。
レーダー。
通信機。
新しい艦には、
電気を使うものが多い。
図面上では計算していた。
岸壁でも試した。
だが。
すべてを同時に動かし、
艦そのものが航行している状態では、
条件が違う。
「記録しておけ」
高瀬が言った。
「止めますか」
「まだいい」
試験とは、
問題がないことを確認するためだけに行うものではない。
問題を見つけるためにやるものでもある。
鳳翔は、
まだ完成していない。
だから今なら、
直せる。
*
翌日。
速力試験が始まった。
二十五ノット。
二十七。
二十八。
艦首が波を切る。
巨大な船体が、
想像以上の速さで海を進んでいく。
「二十九ノット」
報告。
高瀬は計器を見る。
機関出力が上がる。
船体の振動も増える。
そして。
「三十ノット」
艦橋の空気が、
少しだけ緩んだ。
計画速力。
設計室で何度も議論した数字だった。
二十八でいい。
いや、
三十必要だ。
その二ノットのために、
機関も船体も変わった。
今。
鳳翔は、
実際に三十ノットで走っている。
「少佐」
若い技術士官が笑う。
「出ましたね」
「ああ」
「嬉しくないんですか」
「まだ旋回試験が残ってる」
「そういうところですよ」
高瀬も、
少しだけ笑った。
*
数日後。
鳳翔は横須賀へ戻った。
最初の航海で、
いくつもの問題が見つかった。
発電機の負荷。
艦内の振動。
通信装置への雑音。
一部区画の換気。
どれも、
艦そのものを造り直すほどではない。
だが、
放っておいていいものでもなかった。
造船所は、
すぐ修正に入った。
その一方で。
海軍側の準備も始まっていた。
*
十月。
館山海軍航空基地。
相沢慎一大尉は、
格納庫の前に並ぶ航空機を見ていた。
双発の艦上対潜機。
新しい対潜ヘリコプター。
そして、
鳳翔で運用する予定の航空機。
「これを全部、あの艦で使うのか」
隣の士官が言う。
「使えるようにする」
相沢が答えた。
「違うんですか」
「載せるだけなら簡単だ」
相沢は機体を見る。
隼鷹で、
何度も経験した。
航空機を積む。
それだけならできる。
問題は、
飛ばし続けられるか。
整備できるか。
戻ってきた機体を受け入れられるか。
故障した機体を邪魔にならない場所へ動かせるか。
燃料と部品を、
必要な速度で供給できるか。
「三十機載る艦と、三十機を使える艦は違う」
相沢が言った。
どこかで、
高瀬に言った言葉だった。
今度は、
それを自分たちが証明する番だった。
*
十一月。
鳳翔は、
再び海へ出た。
今度は、
航空機を迎えるために。
飛行甲板には、
海軍の航空要員が配置されている。
相沢も、
鳳翔に乗っていた。
艦尾を見る。
斜めに伸びる着艦区域。
隼鷹とは、
まるで違う。
「広いですね」
若い搭乗員が言った。
相沢は答えた。
「今のうちだけだ」
「またそれですか」
「航空隊は必ず狭くする」
笑いが起きる。
だが。
着艦試験が始まると、
誰も笑わなくなった。
*
一機目。
鳳翔の後方から、
航空機が接近する。
艦橋。
航空管制。
飛行甲板。
すべてが、
一機の航空機を見ていた。
相沢も、
無言で見つめる。
機体が高度を下げる。
飛行甲板へ近づく。
そして。
接地。
着艦装置が機体を止めた。
一瞬の静寂。
続いて、
甲板上の人間たちが動き出す。
機体を移動。
着艦区域を空ける。
次の航空機を迎える。
相沢は時計を見る。
一機降りれば終わりではない。
次。
その次。
何機も受け入れる。
それが航空母艦だった。
二機目。
三機目。
着艦。
移動。
整備。
再発艦。
繰り返すうちに、
問題が見えてくる。
「二番機、移動が遅い!」
「昇降機前が詰まってる!」
「整備班、そこじゃ次が通れない!」
新しい飛行甲板。
新しい設備。
広い格納庫。
それでも。
実際に使えば、
問題は出る。
相沢は、
むしろ安心していた。
これでいい。
最初から完璧な空母など、
存在しない。
*
その夜。
鳳翔のCIC。
海面の情報。
航空機の位置。
護衛艦の位置。
すべてが、
一つの区画へ集められていた。
相沢は、
後ろからその様子を見ていた。
隼鷹とは違う。
情報を後から付け足すのではない。
最初から、
情報を集めるために造られている。
そこへ高瀬が入ってきた。
「どうです」
相沢が尋ねる。
「何がです」
「あなたの空母」
高瀬は顔をしかめた。
「私のじゃありません」
「じゃあ、海軍の空母」
「まだ海軍のものでもない」
引き渡し前だった。
相沢は笑う。
「面倒な人ですね」
「それで」
高瀬が聞き返す。
「航空隊から見て、どうです」
相沢は少し考えた。
「問題だらけです」
高瀬の顔が曇る。
「そうですか」
「でも」
相沢はCICを見る。
「直せる問題ばかりです」
高瀬も、
同じ方向を見る。
それならいい。
今はまだ。
*
十二月。
海軍省。
鳳翔の公試報告書が、
机の上に置かれていた。
速力。
航続性能。
機関。
航空運用。
通信。
CIC。
修正を要する項目はある。
だが。
重大な欠陥はない。
翌年。
昭和三十八年前半。
鳳翔は海軍へ引き渡される予定だった。
予定通りなら。
その報告書の横に、
もう一冊の資料が置かれていた。
『朝鮮半島軍事情勢』
前年より、
明らかに厚くなっている。
国境付近での衝突。
部隊移動。
航空基地の活動。
海軍艦艇の行動。
報告を読んでいた士官が、
鳳翔の公試日程を見る。
そして尋ねた。
「これ、早められないか」
「鳳翔を?」
「ああ」
「何のために」
男は、
朝鮮半島の地図を見た。
「何も起きなければ、それでいい」
少し間を置く。
「だが、起きてから完成を待つわけにはいかん」
その日。
鳳翔の公試日程について、
初めて短縮の可能性が検討された。
まだ戦争ではない。
まだ動員もない。
だが。
鳳翔が海へ出たことで、
一つだけ変わったことがあった。
それまで、
日本海軍に使える空母は一隻しかなかった。
今は。
もう一隻が、
海の上を走り始めていた。




