進水
昭和三十六年十月。
横須賀海軍工廠。
一年前には鋼材しかなかった場所に、
巨大な船があった。
艦首から艦尾まで伸びる船体。
高く組み上がった舷側。
その上には、まだ完成していない飛行甲板。
艦橋も途中だった。
レーダーもない。
航空機もない。
それでも。
もう誰が見ても、
その船が何であるかは分かった。
航空母艦だった。
*
高瀬誠一少佐は、
造船台の下から鳳翔を見上げていた。
「大きくなりましたね」
隣にいた技術士官が言った。
「図面ではもっと小さかったんだがな」
「寸法は同じですよ」
「分かってる」
高瀬は苦笑した。
紙の上の二百三十メートルと、
目の前にある二百三十メートルは違う。
春風を造ったときにも感じた。
だが、
今度はその比ではない。
見上げるほどの鋼鉄の壁が、
造船台を埋めている。
その側面には、
大きく艦名が記されていた。
鳳翔。
初代から受け継いだ名。
だが、
その姿に初代の面影はほとんどない。
時代が違う。
航空機が違う。
海軍が違う。
だから、
空母も違った。
*
進水式には、
政府関係者も出席していた。
海軍大臣。
国会議員。
造船所関係者。
海軍士官。
そして、
鳳翔に乗る予定の者たち。
まだ正式な乗員ではない。
だが既に、
新空母要員として教育を始めている者もいた。
彼らの多くは、
隼鷹で空母というものを覚えていた。
甲板作業。
航空管制。
整備。
通信。
古い空母で学んだ人間たちが、
新しい空母を待っている。
「まもなく進水します」
声が響いた。
高瀬は鳳翔を見上げた。
不思議な気分だった。
設計室で何度も消した線。
書き直した区画。
数字を削り、
数字を足した船。
それが今、
自分の頭上にある。
*
やがて。
鳳翔を造船台につなぎ止めていたものが解かれた。
一瞬。
何も起こらなかった。
そして。
巨大な船体が、
ゆっくりと動き始めた。
「動いた」
誰かが呟いた。
鳳翔は、
少しずつ速度を増していく。
鋼鉄の船体が、
造船台を離れる。
歓声が上がった。
高瀬は何も言わなかった。
ただ、
見ていた。
一年以上。
図面を引いた。
計算した。
造り直した。
そして今。
鳳翔が、
初めて海へ入る。
巨大な船体が水面へ滑り込む。
水が盛り上がった。
船体が揺れる。
やがて。
鳳翔は止まった。
浮いていた。
自分の力で。
航空母艦鳳翔は、
初めて海に浮かんだ。
*
「進水成功」
その言葉が伝わると、
造船所の空気が緩んだ。
握手する者。
笑う者。
鳳翔を背景に写真を撮る者。
高瀬のところにも、
何人かがやってきた。
「おめでとうございます」
そう言われるたびに、
高瀬は同じことを答えた。
「まだ完成してませんよ」
事実だった。
進水した鳳翔には、
まだ多くのものがない。
航空設備。
電子装備。
艦内設備。
そして、
海軍が新空母の中核と考えているCIC。
ここから艤装が始まる。
海に浮かべる船を造る段階から、
戦力として使える船を造る段階へ。
むしろ、
鳳翔にとって本当に難しい仕事はこれからだった。
*
数日後。
鳳翔は艤装岸壁にいた。
造船台から見たときとは、
また違って見えた。
高瀬は仮設の足場を通り、
艦内へ入る。
通路には、
まだ配線が露出している。
作業員が行き交う。
壁のない区画もある。
階段を上る。
やがて、
飛行甲板へ出た。
風が吹いていた。
まだ完成していない、
巨大な甲板。
高瀬は艦尾側を見る。
斜めに伸びる着艦区域。
隼鷹にはなかったものだ。
その先には、
横須賀の海が広がっている。
「広いですね」
若い技術士官が言った。
高瀬は首を振った。
「航空隊に渡したら、すぐ狭いと言い出す」
「そんなものですか」
「隼鷹で散々聞いた」
二人は笑った。
だが。
高瀬には分かっていた。
この甲板を、
本当に航空母艦の飛行甲板にするのは、
設計者ではない。
ここで働く人間だ。
航空機を動かす者。
整備する者。
発着艦を指揮する者。
艦を操る者。
情報を整理する者。
鳳翔という船を造るのは、
もう造船所だけの仕事ではなかった。
*
十一月。
横須賀沖。
隼鷹は、
新空母要員を乗せて訓練を続けていた。
発艦。
収容。
整備。
再び発艦。
同じ作業を、
何度も繰り返す。
相沢慎一大尉は、
飛行甲板脇から作業を見ていた。
若い士官が隣に立つ。
「鳳翔を見てきました」
「どうだった」
「大きかったです」
相沢は笑った。
「それだけか」
「新しかったです」
「当たり前だ」
「……羨ましいです」
相沢は少し黙った。
甲板を見る。
古い。
何度も補修されている。
設備も、
その多くが後から追加されたものだ。
だが。
この甲板で覚えたものが、
次の空母へ行く。
「新しい艦だから楽になると思うなよ」
「違うんですか」
「新しい艦には、新しい失敗がある」
若い士官が困った顔をする。
「嫌なこと言いますね」
「隼鷹には隼鷹の失敗があった」
相沢は続ける。
「鳳翔には鳳翔の失敗がある。それを見つけるのがお前たちの仕事だ」
「大尉は乗らないんですか」
相沢は答えなかった。
まだ、
人事は決まっていない。
鳳翔へ行く者。
隼鷹へ残る者。
陸上航空隊へ移る者。
新しい空母が一隻できれば、
海軍の人間も動く。
それもまた、
新しい時代が始まるということだった。
*
十二月。
東京。
海軍軍令部に、
一冊の報告書が回覧された。
表紙には、
簡単な題名だけが書かれていた。
『朝鮮半島情勢について』
内容は、
まだ緊急を要するものではなかった。
軍の配置。
国境周辺の動き。
北朝鮮と周辺国との関係。
韓国国内の政治情勢。
どれも、
それだけなら決定的なものではない。
報告を読んだ士官が、
隣の者へ尋ねた。
「何か起きると思うか」
「朝鮮で?」
「ああ」
男は少し考えた。
「分からん」
報告書を閉じる。
「だから見ている」
それだけだった。
警報は出なかった。
艦隊にも、
特別な命令は下らなかった。
横須賀では、
鳳翔の艤装が続いている。
隼鷹は訓練を続けている。
春風型は、
いつものように海へ出る。
海軍の日常は、
何も変わらなかった。
まだ。
誰も、
急いでいなかった。
鳳翔の完成予定までは、
まだ時間がある。
そう考えられていた。
昭和三十六年の冬。
航空母艦鳳翔は、
初めて海に浮かんだ。
そしてその海の向こうでは。
別の何かが、
静かに動き始めていた。




