鳳翔
昭和三十四年九月。
東京、海軍省。
新造航空母艦の建造承認から、二か月余りが過ぎていた。
設計室では、相変わらず図面が書き直されていた。
配管。
電路。
格納庫。
機関室。
航空管制室。
基本設計が完成したからといって、仕事が終わるわけではない。
むしろ。
造ることが決まってからの方が、図面は増えた。
その日も高瀬誠一少佐は、機関区画の図面を睨んでいた。
「少佐」
若い技術士官が入ってくる。
「今度は何だ」
「艦名が決まったそうです」
高瀬の鉛筆が止まった。
「もう?」
「海軍大臣決裁が下りました」
一枚の書類が机へ置かれる。
高瀬は手を伸ばした。
新造航空母艦。
命名。
その下に、二文字。
『鳳翔』
高瀬はしばらく黙っていた。
「……鳳翔か」
知っている名前だった。
知らない海軍士官の方が少ない。
日本海軍が、
まだ航空母艦という軍艦そのものを学んでいた時代。
小さな船体に飛行甲板を載せ、
航空機を海の上から飛ばす方法を一つずつ覚えていった艦。
初代、鳳翔。
「ずいぶん古い名前を持ってきましたね」
若い士官が言った。
「だからだろう」
高瀬は答えた。
書類をもう一度見る。
「最初から始めるには、悪くない」
*
命名について、
海軍内部でも意見は割れていた。
新しい名前を与えるべきだという者。
かつての大型空母の名前を継ぐべきだという者。
だが最終的に選ばれたのは、
鳳翔だった。
新しい艦は、
初代鳳翔とは何もかも違う。
初代よりはるかに大きい。
速い。
搭載する航空機も違う。
レーダーがある。
CICがある。
斜めに伸びた着艦区域がある。
同じなのは、
航空母艦として最初から造られること。
そして。
海軍が、
そこから何かを学ぼうとしていることだった。
海軍省が示した命名理由は、
短かった。
『本邦海軍航空再建ノ新時代ヲ拓ク艦タルニ鑑ミ、旧航空母艦鳳翔ノ艦名ヲ継承ス』
伝統を継ぐ。
だが、
同じ海軍を造り直すのではない。
それが二代目鳳翔に与えられた意味だった。
*
昭和三十五年二月。
横須賀。
航空母艦隼鷹の艦長室にも、
新造艦の資料が届いた。
黒木中佐は書類を読んでいた。
向かいには相沢慎一大尉がいる。
「鳳翔ですか」
相沢が言った。
「ああ」
「てっきり翔鶴か何かになると思っていました」
「大きさなら、そっちの方が似合うかもしれんな」
黒木は書類を閉じた。
「だが、これは大きさの話じゃないらしい」
窓の外には、
隼鷹の飛行甲板が見える。
昭和二十八年から七年。
古い空母は、
まだ働いていた。
だが。
その七年間に、
海軍は多くのことを覚えた。
航空隊と艦艇の情報共有。
対潜戦。
航空管制。
整備。
補給。
そして、
空母を維持するということ。
「あと何年ですかね」
相沢が言った。
黒木は答えなかった。
「鳳翔が来るまでです」
「さあな」
「二年?」
「無理だろう」
「三年」
「造船所に聞け」
相沢は笑った。
黒木は、
飛行甲板を見たままだった。
「ただ」
「はい」
「完成したからって、すぐ隼鷹が要らなくなるわけじゃない」
相沢が黒木を見る。
「艦が完成しても、人間は完成しない」
新しい空母を動かす。
新しい航空機を扱う。
新しい装備を使う。
そのための人間を、
これから育てなければならない。
そしてその教室になるのも、
結局は隼鷹だった。
*
昭和三十五年五月十二日。
横須賀海軍工廠。
造船台の周囲に、
海軍と造船所の関係者が集まっていた。
派手な式典ではなかった。
軍楽隊も小さい。
政府から出席した者も、
必要最低限だった。
だが。
その日、
造船台に置かれるものの意味を知らない者はいなかった。
航空母艦鳳翔。
戦後日本が、
初めて一から建造する航空母艦。
高瀬は造船台を見上げた。
まだ、
空母には見えない。
飛行甲板もない。
艦橋もない。
巨大な船体もない。
あるのは、
これから組み上げられる鋼鉄だけだった。
「少佐」
隣にいた技術士官が言った。
「ようやくですね」
高瀬は首を振る。
「ようやく始まるんだ」
起工。
図面の上にしか存在しなかった軍艦が、
現実の鋼鉄になる瞬間だった。
*
式典が終わったあとも、
高瀬は造船台に残っていた。
作業員たちが動き始めている。
設計室で何百回も見た線。
その線が、
これから一つずつ形になる。
全長、二百三十メートル余り。
基準排水量、約二万六千トン。
計画速力、三十ノット。
搭載機、三十五機を基準。
それだけ見れば、
ただの数字だった。
だが。
その数字を決めるまでに、
何隻もの艦があった。
響で試した装備。
雪風から学んだ艦隊運用。
春風で覚えた、
新しい軍艦の造り方。
そして。
隼鷹で積み重ねた、
七年間の航空母艦運用。
鳳翔は、
何もないところから生まれたわけではない。
戦争を生き残った艦から、
新しく造られた艦まで。
そのすべての経験が、
この造船台へ集まっていた。
高瀬は、
建造中の船体を見つめる。
「鳳翔か」
小さく呟いた。
初代は、
日本海軍が航空母艦というものを学び始めた艦だった。
二代目もまた、
そうなるのかもしれない。
ただし今度は。
戦争に勝つ方法だけを学ぶ海軍ではない。
戦争を起こさないために、
何を持ち、
どう使い、
どこで止まるべきなのか。
それも学ばなければならない海軍だった。
*
同じ日の夕方。
横須賀沖を、
一隻の航空母艦が進んでいた。
隼鷹。
飛行甲板では、
航空機が次の訓練に備えて並んでいる。
相沢は艦橋脇から、
遠ざかっていく横須賀を見ていた。
あの港で、
次の空母が造られ始めている。
まだ甲板すらない。
まだ航空機もない。
まだ乗員もいない。
それでも、
名前だけはある。
鳳翔。
「随分立派な後輩ができるらしいな」
黒木の声がした。
相沢は振り返る。
「隼鷹より速いそうですよ」
「新造艦だからな」
「飛行甲板も広い」
「ああ」
「CICも新しい」
「ああ」
「何か腹立ってきましたね」
黒木が笑った。
「だったら負けないように働け」
「老艦に無茶を言いますね」
「まだ老艦扱いするな。本人が聞いてるぞ」
二人の下で、
隼鷹の船体がわずかに震えていた。
機関は、
今日も動いている。
古い空母は、
まだ海を走っていた。
そして港では。
新しい空母が、
最初の一歩を踏み出していた。
昭和三十五年五月十二日。
航空母艦鳳翔、起工。
初代鳳翔から受け継いだ名が、
再び日本の造船台に刻まれた。




